第3話 婆ちゃん

 高校卒業して、東京に修業しに行くとき、俺は嬉しくて仕方なかった。母さんは「お前、東京でひとりで暮らしていけるのかい。だらしないからホント心配だよ」としょっちゅう怒ってた。親父は「田舎じゃ味わえない、いろんなことを体験してこい」と一回言うだけだった。婆ちゃんは只々寂しそうにするだけだった。

「東京はビル風が吹いて、千葉よりも寒いから」と言って、マフラーとかセーターとか、ももひきとか、暖かそうな服をいっぱい買ってくれた。

 俺はまだ子供だったから、東京でひとり暮らしができるって浮かれてた。実際、働いてみると、親方も先輩たちも厳しくて、人に隠れて泣いたこともあった。けど、面倒見のいい先輩がいて、休みの日にはよく遊びに連れて行ってくれた。新宿・歌舞伎町の大型スクリーンで映画観たり、ホルモン焼の安い居酒屋で、危ない感じのお客さんの隣で酒飲んだり、エッチなお店を覗いたり。メチャクチャ楽しかった。

 魚の仕入れ先。調理場の人たち。厨房の設備関連の人たち。女子大生のフロア係のアルバイト。もちろん多くのお客さん。いろんな人たちと出会った。そして仕事を上手にこなすためには、関係する人たち、みんなに愛されることが大事だということを悟った。

 特に馴染みのお客さんは、好みのお酒、鮨ネタ。シャリは大きいのが好きか、小さく握った方が好きか。ちゃんと記憶していた。会話が弾むように、新聞読んだり、落語を聞いて話し方を学んだりもした。

 お客さんと会話しながら鮨を握る。それが鮨屋だと思っていた。

 その頃、心に突き刺ささる言葉を先輩から頂いた。

「馴染みのお客がどんな人かで鮨職人の価値は決まるんだ。立派な鮨職人のところには、立派なお客さんが来てくれる。逆にダメな職人の所には誰もお客が来ない。来たとしてもダメなお客ばっかり。まぁ、お客はある意味お前の鏡なんだよ」

 そう言われて発奮して修業に励んだよ。そんなんで結局、丸10年。俺は銀座で修業した。父親が腰を痛めて、家に帰るように言われたんだ。

 房総に帰ったら、なんか俺「呆け」ちゃったみたい。だって銀座では、腕を競い合ったライバルがいたり、次々と趣向を凝らした鮨を食べさせる新店ができたり。なかなか刺激的だった。ところが田舎では、特に変わったことは起きない。単調な鮨職人の生活が繰り返されるばかり。

 さらにもっと良くないことが、ちょっと頑張ればそこそこ儲かってしまうということ。

休日はもちろん平日でも、ウチは東京とか埼玉からドライブでお鮨を食べにお客がやって来る。それで一人前3000円~5000円の海鮮丼を食べる。さらにお金持ちのお客は房総でも獲れる伊勢海老を、お造りにして食べたいといったりする。そんなお客さんがいっぱい来てくれて、最近はそれに加えてバスツアーのお客も来るようになった。

 もうウチの店としては、ウハウハ状態。がっぽり稼がせていただいている。仕事は順調。そのうち結婚もして、子供も3人できた。そして40歳。ふと今までの自分を振り返る。

 そして「ハッ!」と気が付いた。

「自分はこんな鮨屋を目指していたんだっけ」

 違うんだ。こうじゃないんだ。環境に流されて、今はこうなっちまったけど、もっと俺は、ひとり一人のお客をもてなすような鮨を握りたかったんだ。流れ作業みたいにして海鮮丼作って、お客さんがどんな顔して食べているかも分からないうちに、ハイ終了。まぁ、そっちの方が金は儲かるよ。でもさ、でもね。なんか違うんだ。

 婆ちゃんが生きていた頃、店が暇になると、婆ちゃんがカウンターに座って、「お鮨食べさせて」とよく言った。

「あまりもののネタでいいんだからね」

 婆ちゃんはマグロとかウニの鮨を出すと、

「こんな贅沢、いらないよ」と怒った。アジとかイワシなんかを出すと喜んで食べた。

 婆ちゃんは年取ってあんまり食べられないから、シャリは小さめに握ってその代わりネタを大きくしてあげると喜んだ。

 婆ちゃん孝行なんて何もできなかった。唯一良かったと思うのは、婆ちゃんに鮨を握ってあげられたことだ。

 そうだ。そうなんだ。俺はただ鮨が握りたいだけじゃないんだ。お客さんと婆ちゃんみたいに、心の交流がしたかったんだ。間違いない。

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