【幻想百合短編小説】廃劇場の花嫁 ―永遠の魂結び―(9,223字)
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:邂逅
灰色の空が低く垂れ込めた午後、千代は再び帝都座の前に立っていた。
かつて煌びやかな装飾を誇ったという劇場は、今や朽ちた廃墟と化していた。壁面を這う蔦。ステンドグラスの割れた窓。風化した石造りの外壁。それでも、アール・デコ様式の優美な意匠は、往時の面影を確かに残していた。
「また来てしまった……」
千代は吐息とともに呟いた。今週に入って三度目。このところ毎日のように、足が向いてしまう。まるで誰かに呼ばれているような、不思議な感覚。それは夢を見ているような、現実とも幻ともつかない曖昧な感触だった。
一条千代。18歳。美術大学の1年生。絵を描くことが好きで、特に古い建築物をモチーフにすることが多かった。先月、偶然この廃劇場を見つけて以来、何度もスケッチに訪れている。しかし今日は、画材を持ってきていなかった。
ただ、来たかった。それだけ。
白いワンピースがそよ風に揺れる。長い黒髪が頬をなでた。大きな瞳が、朽ちかけた扉を見つめている。
「入ってみようかな……」
これまで外観のスケッチばかりで、中に入るのは躊躇していた。でも今日は、その気持ちが薄れている。むしろ、中に入らなければならない、そんな切迫感すら感じていた。
千代は深く息を吸い、おそるおそる扉に手をかけた。
きぃ……。
軋む音とともに、扉が開く。
薄暗い空間が、千代を迎え入れた。かび臭い空気。朽ちた木材の匂い。しかし、その下に何か甘い香りが潜んでいる。まるで、誰かの吐息のような。
「やっと来てくれたのね」
突然、声が響いた。
千代は息を呑む。舞台の上に、一人の女性が佇んでいた。
薄紫色のドレス。月光を吸い込んだかのように白い肌。整った顔立ちは、まるでアンティークの人形のよう。そして、その瞳。深く、深く、吸い込まれそうな紫色の瞳。
「あなたが……私を呼んでいたの?」
千代の問いに、女性は静かに微笑んだ。その表情には、どこか切なげな影が宿っていた。
「ええ。私の名は紫苑」
紫苑は優雅に舞台から降り、千代の前まで歩み寄った。その足音が、不思議な残響を残す。
「でも、どうして? 私のことを、どうやって?」
「それはね……」
紫苑は言葉を濁し、代わりに手を差し出した。
「一緒に来て。お話ししましょう」
千代は不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、その手に触れたい衝動に駆られた。そして、差し出された手を、そっと握り返した。
紫苑の手は冷たかった。しかし、その冷たさは不快なものではなく、むしろ懐かしささえ感じられた。
二人は階段を上り、かつての特別席へと向かった。そこには二脚の古びた椅子が置かれていた。窓から差し込む薄明かりが、埃っぽい空気の中で幻想的な光景を作り出している。
「ここは、私たちの出会いのために用意された場所」
紫苑はそう言って、千代を隣の椅子に座るよう促した。
「あの、紫苑さん。あなたは、この劇場の……?」
「ええ。この劇場に魂を封じ込められた存在よ」
紫苑は静かに告げた。その表情には、深い孤独が垣間見えた。
「魂を、封じ込められた……?」
「この劇場が栄えていた頃の話。私はここの舞台で踊っていたの。でも、ある事件をきっかけに、この場所から離れられなくなってしまった」
紫苑の声は、過去の記憶を辿るように遠くなった。
「それは、いつの話なの?」
「1920年代よ。もう随分と昔の話ね」
千代は息を呑んだ。目の前にいる紫苑は、まさか100年も前の人物なのか? しかし不思議と、それを疑う気持ちは湧いてこなかった。むしろ、紫苑の姿にそれだけの時を感じ取れた。
「でも、どうして私を?」
「あなたには、特別な力があるの。私にはそれがわかる」
紫苑は千代の手をそっと握り締めた。
「あなたは、私の"花嫁"になれる存在。そして、この檻から私を解放してくれる人」
「花嫁……?」
その言葉に、千代は戸惑いを覚えた。しかし同時に、心の奥底で何かが共鳴するのを感じた。
「私には、わかるの。あなたの魂が、私を求めていることが」
紫苑の瞳が、千代の中を覗き込むように輝いた。
「確かに、私……なんだか懐かしい気持ちがする。紫苑さんに会った時から」
千代は自分の胸に手を当てた。そこには確かに、説明のつかない感情が渦巻いていた。
「時は巡り、私たちは再び出会った。そう信じているわ」
紫苑の言葉には、深い確信が込められていた。
窓の外では、灰色の空が少しずつ色を変え始めていた。夕暮れが近づいている。
「もう、こんな時間」
千代は慌てて立ち上がった。
「帰らなきゃ。でも……また来てもいい?」
「ええ、待っているわ」
紫苑は優しく微笑んだ。その表情には、かすかな期待と不安が混ざっていた。
千代が劇場を後にする頃、空には薄紫色の雲が流れていた。それは、紫苑のドレスの色とどこか似ていた。
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