小説・十二個目の手順

丁山 因

封じられた死に顔

佐知さちさんもそんな年じゃなーにね~」


 誰かがため息交じりつぶやいた。


「わしが……、わしがもうちぃと早よ気づいちょったら、お義母さんは……」


 津村佐知つむらさちの面倒を一番見てきた長男の嫁、花江はなえが涙混じりに声を震わせと、彼女の献身ぶりをよく知る親戚達が次々に慰めの言葉を口にした。


「そりゃ違うがね!」

「あんたはやれること、ぜーんぶやりきったんだよ!」

「花江さんがおったけん、佐知さんは幸せだったがね!」


 ここは市の火葬場。一昨日亡くなった佐知の火葬が始まり、親戚達は控え室に用意された軽食をつまみながら思い出を語り合っている。事情のわからない子供達はお菓子を片手にはしゃいでいるが、大人達の顔は一様に暗い。そんな雰囲気に耐えられなくなった高瀬史雄たかせふみおはそっと控え室を出た。


 火葬場は海に突き出た小高い丘の上にあり、裏手に回るとすぐ断崖だ。史雄はそこまで行くとたばこに火を着け、ゆっくりと吸い込んだ。もうすぐ年の瀬。眼下には荒々しく打ち付ける日本海の白波、鈍色にびいろの雲は重く垂れ込め、今にも雪が降り出しそう。葬式日和──なんて言葉は聞いたこともないが、もし有るとするのならそれはまさしく今日みたいな日だろう。史雄は肺にたまった煙を吐き出しながら一人つぶやいた。


「みんな本当のことは知らないんだろうな……」


 この場に居る親族の中で、佐知の本当の死因を知る者は史雄しかいない。少なくとも史雄はそう思っている。ただ、あまりにも荒唐無稽な話だし、今さら言ったところでどうにもならない。だから口をつぐんでいる。


「なんだ、史雄。こんなとこおったんか」


 振り向くと史雄の伯父、しげるが立っている。茂は佐知の長男で花江の夫だ。


「ああ、たばこ。迷惑になー思て」

「ほうか……。そげなしてもありがとない、東京からだいぶ遠かっただらうに」

「出雲まで飛行機だーけん、そげに大したことはなかっただわ。こんなにすぐ来れるなら、おばあちゃんが元気なうちに顔出しときゃ良かったに」

「ちいさい頃は散々世話んなったもんな。まあでも、お袋もすっかりボケちょーてて、……認知症ゆーやつだが。ここんとこじゃ、わしのこともわからんようになっちょったけん、お前が史雄だってもわからんかったと思うで」

「そいでも、最後に顔ぐらい見ときたかったわ……。葬式じゃ一度も見れなんだけん」


 史雄がそう言うと、茂の顔から血の気がサッと引いた。


「いや、あげな顔は見ん方がええ。まさかお袋があげな顔して死ぬなんて、わしも思わんかったけん。思い出すだけで怖うなるわ」

「そんなに凄かっただがね?」

「ああ、もう、何を見たんかとにかく恐ろしい顔やった。死因は心臓発作って医者は言っとったけど、ここまで苦しんだ患者は見たことがないとも言っとったな」


 佐知の年齢は六十九歳。認知症を患っていたとはいえ身体はすこぶる健康で、亡くなる前日も近所を徘徊して茂や花江の手を焼かせていた。そして次の日の朝、いつまでも起きてこない佐知を起こしに行った花江が、今まで聞いたことのない悲鳴を上げた。


「慌ててお袋の部屋に入ったら花江が腰を抜かしとって、布団の上でお袋が丸まっとったんや」


 茂が駆けつけたとき、佐知はすでに冷たくなっていた。顔は引きつったまま硬直し、異常なまでに開いた目はまぶたを閉じることが出来ず、余程強く歯を食いしばったのか奥歯と下顎の一部が砕けている。その凄まじい形相には納棺師もお手上げで、葬儀は棺の御扉みとびらを開けずに執り行われた。だから史雄を含め茂夫婦以外の親族は誰も佐知の死に顔を見ていない。


「お袋もあんだけ苦労して生きちょったに、なんでこんな最期んなってしもうたんだろう……」


 お骨上げが始まり、小さな白片に変わった母親を前にして、茂が思わずつぶやいた。


「お義母さん、ずっと片目でつらかっただろうに、いつも私に気ぃ遣うて……。なんでこんな酷い死に方せにゃいけんかったのかね……」


 感極まった花江がその場で泣き崩れ、親族たちが慌てて介抱する。史雄はその様子をどこか他人事のように眺めていた。自分にとって祖母は、むしろ避けたい存在だったからだ。


 史雄は東京で働いているが、実家は大阪の寝屋川だ。両親は共働きで、ひとりっ子だった史雄は学校が夏休みに入るたび、母の実家である島根の家に預けられていた。当時、島根の家には祖母の佐知、伯父の茂夫婦、母の妹の美樹みきが住んでいた。夏休み前には、叔母の美樹が大阪に遊びに来て史雄を島根に連れて帰り、休みが終わる頃には母が迎えに来てくれた。そんな経緯から、島根は史雄にとって第二の故郷であり、思い出の多い場所だった。伯父夫婦や叔母たちはいつも温かく接してくれたが、祖母の佐知だけはどうしても苦手だった。その理由は佐知の風貌にある。


 史雄が物心ついた頃から、佐知には左目がなかった。事故が原因らしいが、詳しい事情は聞かされていなかった。左目は眼球ごと欠損しており、そこには暗い眼窩がぽっかりと空いているだけ。周囲の皮膚はたるみ、乾燥して見える。右目は鋭く、用心深そうに周囲を観察しているが、左側の顔は不自然な静けさに包まれている。外では色眼鏡で目元を隠していたが、家では素顔のままだった。

 さらに、佐知は感情をほとんど表に出さず、喜怒哀楽を見せることは滅多になかった。物静かで口数が少なく、家族といるときも無表情で座っている。その姿が風貌と相まって、史雄には不気味に映った。だから史雄は祖母を避けて過ごしていた。そのため、佐知との思い出はほとんどない。ただ、小学校六年生の時に一度だけ、強烈に記憶に残る出来事があった。佐知が家族の誰も知らない秘密を語ったのだ。その話を聞いて以降、史雄は島根に行かなくなる。そして今回、佐知の葬儀のため、史雄が島根を訪れたのは実に十数年ぶりのことだった。


 *


「忙しいに、ありがとない。またいつでもこっちに来ーなさい。来年は一周忌もあるけん。別に用なくても史雄ちゃんならいつでも大歓迎だわ」


 葬儀が終わった翌日、車で出雲空港まで送ってくれた伯母の花江は、史雄の手を握りながらそう言ってくれた。


「こちらこそ、お世話になりました。また時間作って島根にお邪魔します。本当にありがとうございましたけん」


 飛行機は滑走路を離れ一路東京へ。座席の窓から出雲平野と宍道湖を見下ろしながら、史雄は佐知が聞かせてくれた話をふと思い出し、ポツリとつぶやいた。


「おばあちゃん、十二個目の手順をやらなかったんだ……。いや、認知症のせいで出来なかったんだな……」

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