道化師と愚者と

製本業者

道化師達の夕部

 安息日前の満月の夜ともなれば、小鬼グレムリンどもでなくとも騒ぎ出す。

領主によっては、安息日といえども朝のお勤めを課す事もあるが、温厚な事で知られたこの地の領主はかなり寛大だ。領主が、戦功によりこの地を取り戻した出戻領主だから、というのも理由の一つであろうが、それよりも彼の人柄であるところが大きい。

 祭りともなれば準備も大々的になり、皆で大騒ぎするのだが、月に一度のお楽しみ程度であれば、そんなに手間暇かけられない。手間暇かけたくないが、楽しみたいという思いは、皆同じである。それ故、宿屋へと皆繰り出してくる。

 宿屋、特に田舎町のこういった場所では、当然のように一階は食堂ホールを兼ねている。と言っても、その食堂は街道沿いと言うこともあり、それなりの構えと作りであり、やすっぽくは無かった。

 店内には、既に、一仕事終えた百姓達が何人も来てエール片手に騒いでいた。後から来た夫婦連れと和気藹々と挨拶している姿も見える。

 そんな客達の間を、ビア樽の様な大きなおなかを前掛けに包んだ男が注文をとって飛び回る。びっこを引いている彼が歩き回れるようにと言うこともあってだろうか、椅子の間隔は比較的広くとってある。

「今日はピッチが早いね、ちょっと一のみシュナプスでもどうだい」

「珍しくおかあちゃんと一緒だな。で、何にする」

「エールお変わりね、直ぐにとってくるよ」

「今日のおすすめかい。子羊ラムのいいのが入ってるよ」

 店主である彼は、陽気に客達に声をかけて回る。その横で、少女が注文を受け、酒や料理を配膳している。

 食堂の真ん中にある囲炉裏におかれた豚肉が良い感じで焼き上がった頃、宴が最高潮に達する。

「オヤジ、また話をしてくれよ」

 誰とも無く、そう声が上がる。同時に、わき上がる「お話」の声。

 これこそが、この店に皆が集まる最大の理由。冒険者として各地を回ったというその逸話エピソードは、話自体大変おもしろかった。だがそれ以上に、かっては共和国の宮廷道化師フールであったと言うだけあり、その話術自体大変巧みで、聞いているといつの間にか引きつけられているのだ。

「そうだなぁ。さて、そろそろ一杯欲しい頃だなぁ」

「よし、今日は俺がおごる」

 囲炉裏のそばに置かれた、彼専用の椅子にでんと腰を下ろした店主に、客の一人がそういった。

 自分で持ってきた、なみなみと注がれた銅のジョッキに一口、口を付けてのどを湿らす。

「で、どんな話がいいかな」

 話は、手に汗握る冒険の話と、絢爛豪華な宮廷の話、この二つが特に好まれた。ともに、普段の百姓生活とは異なる、異世界が垣間見られるためであろう。

「久々に宮廷の話がいいな」

 奢ると言った男が、すかさずリクエストをする。いわば話しの代賃だが、店主が直接金を取ることを嫌がったために、いつの間にかこんなルールができあがっていた。

 もう一口、なめるように飲むと、店主は語り始めた。

「そう、あれは儂がまだ宮廷に仕えていた頃の話じゃ……」


(1)


共和国には王はいない

 古の大共和国の伝統に則り、元老院議会がすべてを定めている。


 ──というのが建前だ。


 だが、実際には王はいる。そして、その権力は帝国の皇帝などでは到底及びもつかないほど強力だ。ただ、その「王」を第一国政卿と呼んでいるにすぎない。

 もちろん、第一国政卿のほかにも元老院で権勢を誇る大貴族たちは大勢いる。しかし、つい最近まで帝国が名ばかりの存在であり、各地の大公(《プリンス》)がそれぞれの地盤で大きな権力を持ち、事実上分裂状態にあった時代とは全く異なり、共和国の「王」の権力はその国力に見合った絶対的なものだった。

 だからこそ、公式には誰もそう呼ばないが、誰もが密かにそう呼んでいた。

 彼がいる場所を──王の間と。


その日、"王"は機嫌が悪かった

 朝食が遅れてしまったうえ、彼の好物である無花果の逸成はやなりが無かった。それだけでも不快だったのに、予定されていた模擬戦が雨で中止となったのだ。しかし、それらはあくまで表面的な問題であり、彼の本当の不機嫌の理由ではなかった。

 第一国政卿と呼ばれる彼は、世間では「賢王」と評されている。それなりに有能ではあるが、驕り高ぶる性格ではなく、それでいて抜きんでた才覚があるわけでもない。むしろ、彼が傲慢さを見せることなく周囲に「寛容な君主」という姿を示していられるのは、王としての役割を演じることが習慣化し、既に身体の一部となっているからだ。


 では、何が彼を不機嫌にさせているのか。それは、彼の最大のライバルである選定侯せんていこうが宮廷を訪れているからだった。

 実際、彼が「賢王」と呼ばれるのは、その選定侯である若き伯爵の存在があればこそだ。帝国との領土紛争で目覚ましい功績を挙げ、内政でもそれなりの成果を出している伯爵。このライバルがいるからこそ、彼は政治に力を入れ、特に伯爵の及ばない外交分野で功績を上げる必要があった。

 そう、彼は伯爵がいるからこそ「賢王」として評価されているのだ。もし伯爵が存在しなければ、彼の業績は「大王」と呼ばれるに値するものであっただろう。それと同時に、伯爵がいなければ、特別目立つこともなく、平凡な王として生涯を終えていたかもしれない。


 不機嫌の直接的な理由は伯爵が訪れていることだが、その根底には、伯爵の外交面での成功があった。つい先日、領土係争の問題が持ち上がった際、伯爵は交渉だけでこれを解決し、戦火を交えることなく収束させた。しかも、その交渉は伯爵の管轄内であり、越権行為で責めることもできなかった。これにより、伯爵は内政・軍事だけでなく、外交の分野でも一流であることを証明してしまったのだ。


道化師フールを呼べ」

 王は玉座に腰掛けたまま、周囲にそう命じた。

 昼食時に道化師を陪食させるのは珍しいことではあったが、全く奇妙というわけではない。命令を受けた者たちはすぐに道化師を呼びに向かった。道化師は普段、王以外の命令にはわがままを通すことが多かったが、さすがに王の命令を無視することはないだろう。間もなく姿を現すに違いない。


 王はふと考えた。このように苛立つときには、道化でもいなければ気持ちが収まらない、と。


(2)


 道化がやってきたときには、すでに何人かの取り巻きたちが王の周囲に集まっていた。おべっか男爵と呼ばれる、宮廷中で最も王に媚びへつらうことで有名な男も、その中にいた。


 道化は王に軽く一礼すると、勢いよく前転しトンボを切った。そして、いつものように着地に失敗して尻餅をつく。これは彼が最初に必ず披露する定番の芸で、王は案外これを気に入っている。今日もその光景を目にすると、口元に小さなくすり笑いを浮かべた。


「全く、痛い痛い!」

 道化は大げさに尻をさすりながら痛がってみせる。その滑稽な動きと同時に、昼餉の時間を告げる鐘の音が響いた。道化のタイミングの巧みさに、取り巻きたちは笑顔を浮かべた。王も微かに満足げな表情を見せる。それはまるで、時の流れすら自分の意思で動かせるかのような錯覚を与えられているからかもしれない。


 しばらく痛がってみせた後、道化はひょいと立ち上がり、わざと足を引きずるようにして王の隣へ歩み寄る。そして、勝手に王の隣に用意されていた椅子に腰を下ろした。


「おやおや、今日は“偽善伯”の姿が見えませぬな」

 道化は、王が密かに好んでいる伯爵へのあだ名を口にした。軽妙な調子で吐かれたこの言葉に、取り巻きたちから追従の笑いが起こる。


 しかし、その中で道化は違和感を覚えた。視線の先にいたおべっか男爵が、一瞬意外そうな表情を見せたからだ。


「まったく、いかに手柄を立てようとも、礼儀を知らぬ田舎領主殿には困ったものですな。所詮、国政卿さまがあっての存在にすぎません」

 おべっか男爵が鼻を鳴らしながら放った言葉に、王は口元を緩めた。しかし、その笑みが凍りついたのは次の瞬間だった。


「ははは、全くその通りですな。どうにも田舎暮らしのせいで、宮廷の生活には縁がありませんもので」

 その声が響いた方向を見ると、いつの間にか伯爵が会場へ入ってきていたのだ。彼は作法に則り、優雅な動きで王に一礼する。その言葉自体は謙虚なものであったが、王にはまるで「王様ごっこに付き合う暇などないのです」と言われているように聞こえた。


 当然ながら、伯爵には何ら落ち度はない。それでも、王の眉間には不快感が漂い始めていた。険しい表情を浮かべかけた王の横から、すかさずおべっか男爵が口を挟んだ。


「さすがは伯爵。田舎風の機知というものですな」

 その切り返しに、道化は内心で舌を巻いた。おべっか男爵の即興の機知は、道化である自分を凌駕する瞬発力を持っていた。ただ、問題はそれを王が全く評価できないことだ。いや、評価どころか、その言葉に王は眉をひそめ、明らかに不快感を示している。


「客人に対して失礼であるぞ」

 王の低い声が場の空気を一変させた。


「いえいえ、どうぞお気になさらず。事実でございます故」

 伯爵は優雅な笑みを浮かべつつ、さらりと言い放つ。その態度は、王がいかに腹を立てようとも動じない堅牢さを感じさせた。


 その隙を縫うようにして、道化が場に軽い笑いを差し込む。

「これ、伯爵様。田舎風の機知と申されるならば、私もその辺りを学ばねばなりませぬな」

 道化が茶化すと、場が再び和らぐ。彼の役割は「雰囲気の調整」だ。その自由な発言を許される特権を活かし、微妙な空気を修復する術を心得ているのだ。


 おべっか男爵を見やりながら、道化は少し同情すら覚えた。自分であれば伯爵を直接からかい、王の気を和らげることができる。だが、男爵にはそれは許されない。男爵ができるのは、あくまで王に媚びる道化以上の道化ぶりを演じることだけだ。


「これ、道化よ。伯爵殿、気になさらず、どうぞ席に着かれよ」

 王がそう促すと、伯爵は無駄のない動きで軽く一礼し、椅子に腰を下ろした。その所作には嫌味がなく、かえって王の苛立ちを助長させるほどだった。

 同時に、熱いスープが食卓に運ばれる。スープの香りが漂う中、緊張感の色を帯びた昼食会が幕を開けた。


(3)


 熱い野菜と燻製肉ベーコンが主体のスープをパンに浸して食べ終わると、次に運ばれてきたのは、香ばしく焼き上げられた豚肉だった。それ以外にも、酢と魚醤ガルムに茹で卵、酢漬けの小玉葱パールオニオンやチーズを挟んで軽く焙った茄子と胡瓜、etc. これら王の昼餉にふさわしい豪華な料理がテーブルに並べられている。一般の夕食にも引けを取らないその食卓は、共和国の繁栄を象徴するかのようだった。

 もっとも、普段からこのような豪奢な食事が出されているわけではない。今日は特別だ。それを感じ取れる者もいれば、何も考えずに舌鼓を打つ者もいた。


 豚肉が半分ほど片付いたところで、王が口を開いた。


「今回の働きは見事であった。第一国政卿として、惜しみない賛辞を送ろう」


 その声は穏やかであり、隙のない響きを持っていた。さすがに第一国政卿たる者、自らの感情を表に出すことはない。しかし、「第一国政卿」という役職を強調したことが、彼の心情を僅かに覗かせていた。周囲にいる者たちはその微妙なニュアンスに気づいていたが、言葉に出す者はいない。いや、出せない。


 伯爵もまた、その意図を理解していた。それでも、彼は一切の感情を見せることなく、礼儀正しく応じた。


「ありがとうございます。これも、第一国政卿が国内を安定させておられるからこその成果です」


 伯爵はナイフをそっと置き、ワインの入ったゴブレットを持ち上げると、王に向かって深く一礼した後、ワインを飲み干した。その動作は完璧で、余裕さえ感じさせた。しかし、それがかえって王の感情を刺激した。


 王の胸の内では、認めざるを得ないという苦々しい感情が渦巻いていた。伯爵は戦争の場でも外交の場でも成果を上げる有能な存在だ。それを否定するほど、王は愚かではない。しかし、だからこそ厄介だった。伯爵の存在は、王が自らを「第一国政卿」として確立する上で、常に障害となってきたのだ。


 だから、王は決断したのだ。伯爵が外交で功績を挙げたならば、自分は戦争で成果を上げる──戦争という外交の延長線上で、王としての権威を示す必要があると。


「この成功は、単なる一地方だけで終わるものではない。共和国全体にとって意義深いものとなるだろう。いや、そうしなければならぬと朕は思う」


 王の声が響くと同時に、男爵の持っていたゴブレットが震え、ごとりと音を立てた。


「お……第一国政卿、それはどのような……」


 おべっか男爵がかすれた声で問いかける。しかし、王はその言葉を制するように伯爵に視線を向けた。


「ふむ。今の状況を伯爵殿はどのように見られるかな」


 王の声には、あえて伯爵に説明させようという意図が込められていた。伯爵はナプキンで軽く口元を拭うと、静かに立ち上がった。


「では、簡単にご説明を。もっとも、皆様ご存じのことばかりですが」


 伯爵の声は落ち着いており、周囲を冷静に見渡した後、話し始めた。


「現在、帝国は混乱の最中にあります。この度の休戦も、その混乱に乗じたものであることは明らかです」


 一瞬、言葉を切ってから続けた。


「先だっての会戦で、帝国第二軍が敗退したことが主な要因でしょう」


 その一言に、数名の貴族がざわつく。伯爵があえて詳細を語らない理由は明白だった。帝国第二軍を壊滅状態に追い込んだのは他ならぬ彼自身であり、その功績を誇るような真似は避けたかったのだ。


「ふむ。いつもながら的確な要約だ。さらに付け加えるとすれば、帝国では皇帝の後継問題が再燃しているという話があるな。第二軍の壊滅が、東宮派の影響力を大きく削いだのだろう」


 王の言葉に、男爵が追従の笑みを浮かべて割り込んだ。


「なるほど、さすが第一国政卿。伯爵の戦の要約もそれなりのものでしたが、政にまで踏み込んで解説されるとは、恐れ入ります」


 男爵の笑みは普段通りに見えたが、その声にはわずかな震えが混じっていた。おべっかで領地を守ってきた彼にとって、王が戦争を決意したという事実は死活問題だった。


「うむ。第一国政卿として『元老達の座』に腰を下ろせば、自ずと見えるものも違ってくる」


 王の言葉は平然としていたが、その中に含まれる鋭さに、男爵はますます動揺を隠せない。


「全く、羨ましい限りでございます。一度はそのような席に座ってみたいものです」


 それを聞いた王はにやりとした笑みを浮かべた。


「良かろう。ならば夕刻まで待つが良い。さすれば、望み通り座らせてやろう」


 声が裏返るほどの追従を口にした男爵を見て、伯爵はわずかに眉をひそめた。

 その静かな緊張感の中、豚肉の皿が片付けられ、新たに温かなデザートが運ばれてきた。

絶品とも言える、芯をくりぬいて蜂蜜とバターを詰めじっくりと焼き上げた林檎に舌鼓を打っていた。男爵と伯爵と道化を除いて。


(4)


 夕刻、王は「王座」と密かに呼ばれる第一国政卿の席に男爵を招いた。


「さあ、座るがよい」


 王の促しを受け、男爵は嬉々としてその席に腰を下ろす。普段は遠くから見上げるばかりの「王座」に、自らが座れることに、はしゃぎを隠せなかった。


「どうだ、満足かね?」


 王の問いに、男爵は満面の笑みを浮かべながら答えた。


「ええ、もう……」


 だが、男爵がふと顔を上げると、視線の先に一振りの剣が吊り下げられているのに気づいた。


「うわー!」


 男爵は叫び声を上げ、王座から転げ落ちるように飛び退き、その場から這うように離れた。


 王は、冷たい笑みを浮かべながら言った。


「第一国政卿の責務とは、まさしく剣の下で職務をこなすが如く、かように危うきもの。お分かりかな?」


 その言葉は、表向きには男爵に向けられていたが、真に向けられているのは伯爵であることを、誰もが察していた。


「全く、恐れ入ります……」


 男爵は深々と頭を下げ、その場から下がることを願い出た。


「できれば、我が領地にまで下がることをお許し頂きたいのですが」


 王は片手を振り、笑いながらその願いを許した。そして、気分良さげに席を離れた。



 道化が王の間に戻ると、伯爵がちょうど出て行くところだった。そして、その場には男爵がいた。


 男爵は王座に深く腰を落とし、何かを考え込むようにしていたが、道化に気づくと自嘲気味な笑みを浮かべた。


「おや、道化殿。どうなさった?」


「剣の話、いたく感動いたしまして、再度見に参った次第」


「……もう一度驚いたほうが良いのかな」


 男爵が見上げると、王座の頭上には、まだ剣が揺れていた。


「遅いでしょうな、今さら」


「して、何故に来たのだ、道化殿」


「気になりまして。ぜひ、領地にお戻りになる前に聞いておきたく」


 道化の言葉に、男爵は興味をそそられた様子を見せ、椅子に深くかけ直した。そして、道化の顔をじっと見つめる。


「何故、おべっかを使うのをやめ無いのです」


 男爵は、ほうとため息をつき、静かに答えた。


「儂にはそれしか能が無いからな」


「私は愚者でございます。さすれば、真をもってお答え頂きたい」


「いや、嘘ではない。我が家は文の家系だ。武功を立てることはできん。だが、儂の領地は帝国と接しておる」


「領を守るため、でございますか」


 その問いに、男爵は少し笑いながら答えた。


「全く、愚者の言葉ではないな。道化殿、笑わせる」


「笑わせるのが、道化の務め」


 その言葉に男爵は楽しそうに笑い声を立てた。その顔は、不思議といつもより若々しく見えた。いや、それが彼本来の顔なのだろうと道化は思った。


「道化殿の務めが笑わせることならば、儂の務めは領を守ることだ」


「ですが……」


「まあ聞け、道化殿」


 男爵は一息つくと、落ち着いた声で語り始めた。


「確かに、普通に振る舞う選択肢もあった。だが、儂の領は帝国と接しておる。そして、王は帝国に対し野心をお持ちだ」


「それがどのような?」


「王の気分次第では、儂の領地が策源地として直轄召し上げされる可能性がある。それを防ぐため、恥を忍んでおべっかを使い、時には道化殿の真似事までしたのだ」


「では、何故お戻りになるのです?」


「簡単なことだ。王が、武を用いることを決められた」


 そう言って、男爵は乾いた笑みを漏らした。


「ああ、全く。儂の努力などというものは、水泡に帰したのだよ。

おべっかではもう守れぬ。それだけだ」


 道化は静かに男爵を見つめ、言った。


「では、やはり驚いて見せられたのですな」


 男爵は力なくうなずき、深く椅子にもたれた。


「だが、何故恐ろしくないのです? 私なら本気で驚き、恐れましょうぞ」


 男爵は疲れた笑みを浮かべながら答えた。


「その舌から発せられる言葉は、常に剣のようなものだ。それがいつ自分に降りかかるか分からぬ。それだけのことよ」


 そう言って、男爵はゆっくりと立ち上がり、揺れ続ける剣を示した。


「しくじった愚者の末路だと覚えておいてくれれば、儂も嬉しい」


 男爵が部屋を出ようとしたところで、道化が思わず声をかけた。


「男爵様、いつか私をお雇いくださいませ」


「道化なら既に我が領に一人おる」

しくじって追われた間抜けな道化がな、と乾いた笑い声を上げる。


「料理人でも、門番でも構いません。それが叶わぬなら、せめて笑わせるだけでも」


 男爵は少しだけ微笑んだ後、静かに言った。


「まあ、考えておこう」


「是非とも。マイマスターよ」


「この後、男爵は領地に戻り、儂はここらが潮時と宮廷を辞して再度冒険者として各地を回ったという訳だ」

「男爵はその後、どうなったんだい」

「さあなぁ。ただ、彼の領地は、男爵が予想していたとおり、王により召し上げられた。それ以降、共和国でかの男爵を見た者はおらんそうだ。

 さてと、儂の話は……」

「皆、楽しんでおるか」

 突然、宿屋の玄関が大きく開けられると、そこには剣を携えた普段着の上に、旅行用のマントを身に纏っただけの領主の姿があった。身の回りの世話をする近従を二人だけ従えた、あまりにも軽装。だが、武人として名を馳せた領主だけあって、その姿に衒いは無かった。

 同時に、騒ぎが一瞬にして収まる。幾ら親しまれているとはいえ、貴族様と百姓。あまりに身分が違う。

「どうされました、このような時間に」

 店主の顔に戻ったかっての道化は、貴人の客を相手する時に見せる、決して卑屈ではないが遜った笑顔で話しかける。

「何、伯に呼ばれて行っておったのだが、帰りが遅れてしまってな」

 そして、のどの渇きをいやす為に一杯出すように告げると、領主は静まりかえった一同を見渡す。

「どうした、安息日前の夜に騒がぬなどと言う法はあるまい。よし、亭主。皆に一杯ずつ振る舞ってやれ」

 どっとわき上がる歓声。

 確かに、税がとびきり安い訳でもないのに、仕事が他よりずっと楽というわけでもないのに、そして吝嗇として知られているのにも関わらず領主が寛容と言われるのは、こういったちょっとした行い故であろう。

 かって道化と呼ばれていた人物は、錫の蓋付きジョッキを満面の笑みとともに、領主と従者に渡した。

「相変わらず、でございますな、御主様」

 受け取った領主も、満面とは行かぬものの、その位に相応しい威厳を伴った笑みとともに受け取ると、ぐいっと一杯。


 客達はいつも不思議がっていた。

 どうしたわけか店主は、決して領主様ロードと呼ばずに、常に御主様マスターと呼ぶ事を。







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