通勤電車

銀河星二号

第1話「会社が電車」

 目が覚めた。朝だ。


 見慣れたマンションの天井に薄いシミが見える。あれは霊現象ではない。断じて霊現象ではない。カビだ。カビの一種に違いない。築年数が古いから。そう、霊現象ではない。僕は自分にそう言い聞かせた。毎朝のことだ。


 アラーム音が響いている。敵か? しばらくして僕は横にある目覚まし時計の存在に気づき、それが目覚まし時計のアラーム音であることを理解した。すかさず叩いてスイッチをオフにする。


 体を起こす。……朦朧としている。世界が揺れる。普通では無い。何だこれは。何があった? 知らないうちに敵の不意打ちでスタンでも食らったのか……そうだ、僕の強力な電子銃はどこだ。あれがあれば僕は無敵だ。……手を見る。持って無い。何も持ってない。もはや戦うすべはない。


 チュンチュンとスズメの声が聞こえてくる。そして全てを思い出した。僕が銀河の戦士ではなく、地球の日本のサラリーマンと言う種族であることを。


 ベッドを出る。フラフラしている。そうだ、前の日に友人と飲んだんだった。正確には後半どうなったか思い出せないが、今ここにいるのだから何も問題はない。


 酒が残っているのせいか、どうもフワフワとして現実感が無い。まるで夢の中にいるようだ。実は銀河の戦士が本当で、今見ているのはサラリーマンの夢では無いのか? ……とか哲学的な事を考えていたが、どう考えてもこっちの方がリアルだった。


 しかもカレンダーを見るに今日は平日だった。会社に行かなければいけない。僕は眠い目をこすりながら支度を始めた。


 いつものように顔を洗い、スーツに着替えてマンションを出る。

 近くの駅まで急ぐ。急ぐ必要は全く無いのだが急ぐ。そうしないと行けない気がしているからだ。隣を歩く他の通勤者を追い越さなければ行けない。いつからかそう思っていた。


 改札を抜け、階段を駆け抜け、いつものようにホームで電車が来るのを待つ。いつもの時間のいつもの電車だ。そして当たり前のようにいつもの電車がやって来た。


 正確にいうのならば、いつもの電車という訳では無いだろう。電車の車台番号を覚えている訳では無いし、運行会社の都合で車体は入れ替わっているはずだ。でもそれは自分にとってはいつもの電車なのだ。


 しかし、僕はやって来た電車に、何か奇妙な違和感を感じた。電車がいつもの電車では無いような気がしたのだ。しかし、いつもの電車はいつものごとく自分の目の前に止まり、いつもの如くドアを開けた。


 僕はそのドアの先の光景に戸惑った。そこに課長が座っていたからだ。

 偶然? ああ、会社が同じで始業時間が同じで、路線が同じなら、会社の人に会うことはある。

 しかし違うのだ。そういう話じゃ無い。課長は課長席に座っていたのだ。

 え? いつもの同じ席って意味かって? いやいや席と言っても電車の長椅子のお気に入りの定位置とかそう言うんじゃない。

 課長が座っていたのは会社によくあるスチール製のいわゆる事務机。それと背もたれのついた黒い革張りの椅子。右上にほつれがあって少しくたびれているのも良く知っている。

 それは、いつも会社で見ていた、課長が座っている馴染みのある机と椅子だった。そこに課長が座っていた。電車の中で。


「え……と……」


 考えた。どう見ても正常な状態では無い。しかし対応方法を思いつかない。方法はいくつかある。社会人らしく、何事も無かったかのように挨拶をする。もう一つは、素知らぬ顔で踵を返して一旦電車を降りる。幸いまだ課長は気付いていないようだ。しかし遅刻の恐れがある。さあどうする僕?


 そうこう思案しているうちに、ホームでご当地キャラクターにちなんだ駅の発車メロディー「おけらくんマーチ」が流れ始めた。まずいっ! もうすぐ電車が発車してしまう。これに乗り遅れると会社に間に合わない! 迷ってる暇は無い!

「♪おっけらけらけら、ぼくーおっけらっ!」

 プシュー。ガタンゴトン。乗った。乗ってしまった。


「課長、おはようございます」

 僕は極めてさわやかに挨拶をする。

「ああ、おはよう」

 普通だ。極めて普通だ。おかしいぐらい普通だ。僕はかえって戸惑った。

 とりあえず挨拶はした。挨拶はしたから次は、えーと……あ? え? 周りを見渡すと、見慣れた面々がそこにいた。


 同僚の只野。課長と何やらやり取りをしている。どうやら何かヘマをしたらしく、頭をずっと下げたまま、呪文のように言い訳を唱えている。


 さらにその傍らをミっちゃんが通りがかった。経理のふわふわボブの可愛い娘だ。課長の元にお茶を運んで来た。


 アドさんもいた。気難しいがデキる人だ。いつも色々教わっている。

 何でアドさんかと言うと……得意先の住所を全部暗記しているからとか、広告畑の出身だとかという話らしい。本当のことは分からないし、本人に聞く勇気も機会もないので謎のままである。

 そのアドさんがいつもは電車の優先席があるところ辺りに机を構えている。そして、いつものように机に雑然と書類を積み、タバコをふかして頭を掻いていた。

 いつもと違うのは、車両の振動で書類が崩れないように、時々書類を片手で支えている事だろうか? タバコの灰が時々床に落ちている。


 その傍らを掃除のつね子おばちゃんが床に灰を落とすアドさんを睨みながら、床にモップをセカセカと超高速で走らせて行く。


 さらに見回すと、僕は自分の席が置いてあるのを発見した。見慣れた自分の席だ。傷の入ったスチール机。ついうっかりマジックで書いてしまった謎の文字が背当てに書かれている椅子。机の上には昨日読んだ「デキる営業になる十カ条」も置いてある。どう見ても僕の机だ。

 あ、見られると恥ずかしいな。か、隠さないと……いやそうじゃなくて!

 動こうか動くまいか、どう動こうか考えていると課長が僕に話しかけて来た。


「吉田くん、どうかしたかね?」

 そういうと銀縁の眼鏡の奥から課長の鋭い眼光がこちらを睨んだ。どうも機嫌が悪いっぽい。とりあえず笑顔で答える。

「……あ、いえ……何でもありません」

 しかし思い直した。課長が何か知っているかもしれない。いや知らないはずはない。ここは一つ、思い切って聞いてみるべきでは?

「あの……課長、ここ、電車の中だと思うのですが……これはいったいど……どういう?」


 でも聞いちゃいなかった。

「だから只野くん! これこんなに発注いらんだろう? 在庫どうする気? 倉庫もうキャパ一杯じゃないの?」

「すいませんすいません! 何とか処理しますから! 大丈夫です、アテはありますから!」

 課長は只野の件で頭が怒りで一杯らしい。僕は課長に見えているようで見えていないようだ。


 どうしようかと薄ら笑みを浮かべながら左右を見回していると、近くを歩いていたミッちゃんと目があった。

 ミっちゃんはニコリと笑みを浮かべ、スタスタと僕に近付き、僕の背後に一瞬で回り込んだ。思わず脇を締めて身構える。なぜ身構えるのか。僕は彼女の行動パターンを知っているからだ。


「おはようございますぅッ」

 ドスッ。笑顔で脇腹に強力なチョップ。うん、いつも通りだ。実に可愛らしい……。

「ミ、ミッちゃん、お、おはよう……ゲフッ」

「あらら、今の決まりましたか? あたしの技も一人前ですかね?」

「で、あのさ、これ……どういうこと? な、何?」

「これ? 何って……何がです? 何がどうしました?」

「ちょっと、こっちで話いい……?」

 ミッちゃんを手招きして電車の端っこに連れて行く。

「……何です? 愛の告白ですか? ……あたし、吉田さんのこと嫌いじゃ無いですけどトキメキは無いっていうか、歩く時の腰つきはちょっと好きですけれども。そうですね。うーん……どうしようかな……」


 そんな話じゃ無い。

「ちょ、ちょっと耳貸して」

「えー……やだなーこんなところで」

 小声でミッちゃんの耳元でつぶやく。

「……なんで電車の中に、会社の机とか椅子があんのさ?」

 きょとんとした顔。

「あれ、聞いてなかったんですか? メール回ってましたよ。見てませんか?」

「いや見ていないけどさ……」

 いやいや、メールとかそういう問題じゃない。おかしいでしょこれ。メールに何が書いてあったか知らないけれど。

 え? もしかしてドッキリとか? 何かの社内イベント? いや、手が込み過ぎだし。

「……か、確認してみるよ」

「話ってそれだけですか?」

「う、うん……」

 ミッちゃんは口を尖らせて残念そうに僕を見つめている。目を潤ませるな目を。

「今度、飯おごるから!」

 ミッちゃんは目を輝かせた。

「約束ですからね?」

「う、うん」

 そういって小さく手を振ってミッちゃんと別れ、自席に座り、社用のノートパソコンを開いた。


 ガタンゴトン。

 それにしても、揺れる電車の中に自分のいつもの席があるのは不思議だ。机の上がいつも通りだけに奇妙さが増す。……あ、未読メールがあった。


 メールによると——来たる日(今日の日付が書いてある)より、営業三課を移転します。移転先は次の場所になります。北部鉄道副都心線5号車から6号車、乗車時刻は——。

「……」

 つまり、ここか? いや、ちょっと待って。これは誤植とかなのでは? 実際は副都心線のどこかの駅の、とある場所とかなのでは? だっておかしいでしょう? 電車の中に会社が移転とか。電車の中って住所じゃ無いし。


「ほらー、書いてあるじゃないですかー」

 気がつくと、後ろにミッちゃんがいた。僕の頭の後ろに大きな胸をギュウギュウ押し付けて、画面を覗き込んで来る。この娘はっ!

「ちょっと! ミッちゃん! 胸、胸! 当たってるから!」

「あらー、何焦ってるんですかー(ニヤリ)。大丈夫ですよ、減るもんじゃ無いし——」

「それ、なんか言ってる人と台詞が間違ってるから!」


 こちらの抗議を聞いているのか聞いていないのか、更に前のめりになって僕の頭の上に乗っかった。そして画面を指でコンコンとつついた。

「ほら、ここ。ね、私の言った通りだったでしょ」

「……確かに、書いてあるけどさ、これ間違いなんじゃないの? 何かおかしいよ?」

「んー、でもそう書いてありますしー。なんならソウムの友達に聞いてみましょうか?」

「ああ、そうだね。お願い出来る?」

「そうですねー、連絡とる代わりに何して貰おうっかなー?」

「……何って……?」

「ウフフ……やだなぁ、冗談ですよぉ……えーと、ケータイ、ケータイ……あれ、無いな?

センパイ、私のケータイ知りません?」

 そう言って自分のあちこちのポケットを弄り、ケータイを探し始めた。

「あれー?」

 ……見つからないらしい。


 そうこうしているうちにA駅に到着。見知らぬサラリーマンが乗り込んで来た。課長が声をかける。

「あ、君きみ、ここは丸得商事だ。関係者かね?」

「え? あ、これは……し、失礼しました!」

 そのサラリーマンは左右を見回し、呆気にとられながらも、にこやかに退散する。無理も無い。こういう場合とりあえず逃げるだろう。うん、僕なら逃げる。僕はタイミングを逸してしまったが。しかし知り合いで無ければ何も躊躇する必要は無い。君子危うきに近寄らずである。


「机に置きっぱなしかなー?」

 ミッちゃんはそう言うと、奥の自分の席まで小走りに駆けていった。

 とりあえず僕は自席に着き、前の日の仕事の続きをすることにした。いくら異常事態だと言っても仕事を進めない訳には行かない。いや、目の前に仕事が無い異常事態な場合はやらない。今の状態が異常かつ通常と言うややこしい状態だから仕方が無い。


「ふう~。しこたま絞られたよ」

 隣の只野が席に戻って来た。

「……なあ只野、ちょっと聞いてみてもいいかな?」

「何だよ、課長だけでなくお前も俺を絞る気か? 勘弁してくれよ」

「いやいや、その件には触れないでおくよ。それじゃなくてさ……」

「?」

「なあ、今のこの状況、どう思う?」

「……今の……状況……最悪だよ」

「いや、それじゃなくて……」

「その件じゃないって……どの件?」

 僕は只野に耳を貸せのジェスチャーをして、小声でつぶやいた。

「電車の中に会社があることだよ」

 只野はしばらく考えたあと、こう言った。

「……便利……かな?」

「はあ?」

「通勤時間が短くなったし……合理的じゃない?」

 僕はついカッとなって声を荒げた。

「この状況を変だと思わないのか?」

「おいおい、何を怒ってるんだよ? 俺、何か気に触ることでも言ったか?」

 周りの視線が僕に注がれるのを感じて僕はそれ以上言うのをやめた。

「あ……いや、ごめん、何でもない」

「妙な奴だな」


 只野はこの状況を全く疑問に思っていないようだった。どうやら話は通じないと見た。

 そう、ミっちゃんもだ。どういうことなのか。この状況がおかしいと思う僕がおかしいとでも言うのか?

 僕は周りを見渡した。会社の誰もが普通に仕事をしている。表情もいたって普段通りである。つまりそういう事だ。

 僕は途方に暮れて上を見上げた。電車の天井と天井のエアコンが見えている。車内吊り広告が電車の揺れに合わせて揺れている。


「あの……ちょっといいですか?」

 聞き覚えの無い声がした。振り返ると、そこには長い黒髪の制服姿の女性がいた。見たことの無い女性だった。

「吉田さん……でしたっけ?」

「そうですが……」

「私、最近、派遣でここに来た安西という者ですが」

「はい」

「あ、安西ちゃん」

 気付くとそこにミッちゃんが立っていた。

「吉田さん、新人の安西ちゃんです。最近入って来た。まだ見習いの」

 なるほど。どうりで知らないはずだ。

「どうしたの? 吉田さんに用事?」

「あ、うん、ちょっと……」

「ふうん……」

「相談したいことがありまして……」

 途端、僕の頭の上にまた柔らかく重い感触が置かれた。またミッちゃんに頭の上に乗っけられている。

「吉田さん?」

「はい?」

「安西ちゃん」

「はい?」

「仕事の話ですよね?」

 ミッちゃんのその凄んだ語気に安西さんはしどろもどろに答えた。

「あの……そう言う話じゃ……大丈夫です!」

 ミッちゃんはそう言われると、不満げな表情を浮かべながらもその場を去って行った。

 僕はホッとした。


「あの、吉田さん、この状況なんですけれど」

 僕はその状況と言う言葉に疑問と不安を感じつつも一応聞いてみた。

「この状況と言うのは何のこと?」

 彼女は一瞬くぐもった表情をしたが、周りを確認すると僕の耳元でこう囁いた。

「……電車に……会社があることですよ」

 僕は驚いた。僕は同じ認識の人間に初めて出会ったのだ。そして僕は思わず彼女に握手を求めてしまった。彼女はそれをどう言う意味か分からず戸惑っている。


 僕も彼女の耳元で囁いた。

「君はどう思うの? この状況?」

 一応慎重に探りを入れてみる。彼女がマトモなのかどうか。

「電車に……会社があるのはおかし過ぎます」

「どうして僕に?」

「社員の中で、唯一戸惑っているように見えました」

 ビンゴだ。

「全く同じ意見だ。協力しよう」

「良かった……」

 彼女は握手をしてくれた。

「それであの……」

 彼女は辺りを気にしながらこう言った。

「他の車輌を見に行った方が良いと思うんです」

「確かに。もしかしたらこことは様子が違うかもしれない。何かヒントが見つかるかも」

「隙を見て抜け出しましょう」


 僕は辺りを見回した。皆、仕事に夢中になっているようで、こちらを見てはいない。一番問題がありそうなミッちゃんは居ないし、噂話好きの掃除のつね子おばちゃんも見当たらない。動くなら今だと思った。


 僕は彼女に手招きして、二人でそっと前方車両に移動した。

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