光よりはやく、ゆるやかに

「なあ、結衣」

 支払いが終わって店を出た二人だが、今度は白谷がそう言いながら不意にその歩みを止めた。階を下りようとした黒瀬がその声に足を止められる。

「何?」

「……デパートの屋上、久しぶりに上がってみるか?今から」

「今からって……いいけど、時間大丈夫?」

「閉店時間にはまだあるんじゃないか?」

「……でも突然何でまた?」

「さぁ……なんとなく──」

「──"クリスタル"、って言うなよ!」

「いわねーよ!」

 5年ほど前にベストセラーになった本の題名を先に言われた白谷が苦し紛れの苦笑いを浮かべて、馬鹿にしたような視線で見つめている黒瀬にかみつく。その会話がきっかけになったのか、白谷の足は再び動き出す。それを見て、黒瀬も同じ速度で降り始めた。

 2階の店舗から階段を下りて、歩道の横に置いてあったそれぞれの自転車のカギを解除する。カゴにカバンを入れて、二人は乗らずに押して歩道を、200mほど離れた老舗のデパートへ向けて歩き出した。

 午後7時を過ぎている駅前電車通りは金曜日と相まって他の日よりも人出が多く見える。お日様はちょっと前にこの日の業務を終了した様で、西の山々の向こう側へとその姿を没して30分ほど経っている。その残り香の様な明かりが、西の空を夜の帳から最後の抵抗を続けているかのように茜色と深い蒼とが混ざり合っていた。

「そういや最近行ってないよね……もう5、6年は行ってないかな?」

「小学生の頃はほら、一緒に食事会とかしてたからなぁ。そういやもうしなくなったのって、中学の頃だっけな?」

「……なつかしーねぇ……」

「そうだなぁ……」

 帰宅時間になっているせいか、アーケードになっている歩道を歩く二人とすれ違う人の数は明らかに多い。郊外に大型店が出来ているせいで人が少なくなったと言われる駅前だが、それでもこの時間帯は一昔の様な賑わいを見せていた。

 空がもうすぐ漆黒の夜に包まれるのとは対称的に、ビルの谷間の様な駅前電車通りは、両側からの明かりできらびやかに彩られていた。店の看板やネオン、車や電車のヘッドライトやテールランプ、アーケードや店舗からの照明などのありとあらゆる人の造り出した光源が、ビルの谷間を光の川で溢れさせている。二人はその川の底の方で、県内ではここにしかないデパートを目指してゆっくりと歩いてゆく。

 ほどなくデパートに着いた二人は閉店時間までさほど時間がない中、さっさと自転車を止めて眩いエントランスに足を入れ、店内のエスカレーターを最上階目指して上って行く。同じ段に二人は並びエスカレーターの緩やかな上昇に身を任せているが、前後には人の姿はなかった。階の途中に下りエスカレーターですれ違うお客の姿もほとんど無く、時折見える各フロアも、お客よりは店員の数が多いように見える。屋上一つ下の階の食堂街も、ラストオーダーの時間が終わっているせいか、食欲を満足させて帰途に就く人ばかりが目立つ。

 エスカレーターはここまでで、屋上までは階段しかない。二人は同じタイミングで並んで上って行くと、かろうじて明かりがついてはいるが人の気配が皆無の屋上遊園地にたどり着いた。

「……誰もいねーなぁ」

「まだ明日土曜日で半ドンだもんね」

 見たままの景色を素直な言葉で口にした白谷に黒瀬が冷静に付け加える。

 閉店間際なのでとっくに消されてるかと心配していたくらいだったが、明かりが点いているだけマシだと言える。水銀灯の、青白く冷たい光に照らされた各種遊具類やゲーム台が陽の下で見るのとは打って変わって、言葉で言い表せないような微妙な違和感を纏わりつかせてるように、二人には見えた。それは色彩もそうだが、存在感の儚さも相まっている。

 お客がいないにもかかわらず、園内のスピーカーからはそこそこの音量でやや音割れ気味にイージーリスニング系統の音楽が流されていたが、それも違和感を募らせる原因になっていた。

「よく連れてってもらって遊んだよなぁ……」

 両手の指の数はあるテレビゲームはデモ画面を延々と流しているが、誰もそれに触る者のない今は、まるで人類がいなくなった時の予行演習をしているかのように白谷には感じられた。

「これ、小さかった時に一番好きだったなぁ……」

 黒瀬がテレビゲームのコーナーとは反対側の、コーヒーカップ型遊具を見つめて呟くようにこぼした。子供二人でも一杯一杯なくらいカップが小さめで、それが3つ位しかない。本格的な遊園地のから比べればそれこそオモチャみたいなものだが、彼女の中ではそれは、思い出という名の触媒の力を借りて、何物にも代えがたいものへと昇華していた。

「あー懐かしいなぁ、コーヒーカップ。そういや一緒に乗った事ってあったよなぁ」

「自分記憶ないけど……」

「幼稚園の頃だと思うぞ。俺、ちゃんと覚えてる」

「ホントにぃ……?」

 何で駿こいつと……と思い出に疑義を唱えるかのような黒瀬の目線は、幼馴染が相手にしては妙に鋭かった。それを受けた白谷は少しムッと機嫌を不均衡にして似たような目線で幼馴染に返す。

「何なら後日、家にある写真持ってこようか?確かあるハズ」

「……いいよそこまで。駿が覚えてるなら、それは確かなんだろうから」

 幼馴染からの視線を外した彼女は、白谷が思ったよりあっさりと彼の主張を認めた。俯きながら、その表情は柔和なものに和らいでいく。そして、口元には微かな笑みの成分が、幼馴染に見つからない様にさりげなく浮かんでいた。

 二人は何かに操られてるかのようにそのまま滑り台やブランコ、ミニ鉄道などを通り過ぎると、やがて胸元まであるがっちりとした、所々塗装が剥げて年季が入ったように見える金属製の欄干と、まだ新しさが残ってるように見えるコンクリート製の高欄にその行く手を阻まれる。屋上はここまで。その向こうには、夜の帳が福井駅前を余すところなく包み込み、支配下に置こうと目に見える範囲の全てを黒く塗りつぶそうとしていた。しかしそれを天空へと押し返すかのように、建物たちが象る谷の底は様々な光源たちが奏でる光で満ち満ちていた。それは蛍光灯、水銀灯、車や電車の前照灯、赤いテールランプ、ネオン、電球……その他光を発するもの全て、ありとあらゆる、人の造りし光たちが全てを包もうとする夜の帳に拮抗しているようだった。

「……なんつーか」

「……綺麗」

 二人は言葉を奪われた。奪った言葉の代わりにその光景は沈黙を与えた。

 園内のBGMは変わらず流れているが、夜景に心を奪われている二人には、その音は耳に届かなかった。

 二人は欄干から身を乗り出すように眼下の光の川を眺めていた。眼下の駅前電車通りだけではなく周囲も見ようとした白谷は、足下の光景に見とれている黒瀬の横顔が目に入った。

 彼の視線は、そこで動きが止まった。それはまるで誘蛾灯に吸い寄せられる夏の夜の虫たちのように、余りにも無意識に。

 彼女の方は、彼が見ているのに気づいてない。

 駅前電車通りから放たれる光たちを魅入られるように見ている彼女の横顔は、さながらファッションモデルの様に周囲の光に柔らかく照らしだされていた。緩やかに吹く風がセミロングの彼女の髪をたおやかに撫で、虚空にふわりと躍らせる。

 ──こんな顔、するんだ──。

 見とれる、というのはこういう事なのかもしれない──彼の瞳は、彼女から視線を外すことを拒否してるかのようにロックが掛かっていた。時間が際限なく引き伸ばされて行きそうな、そんな変な錯覚が彼を包み込んで逃げ場がない様な、不思議な感じに浸っていた。

「どうした?」

 隣からの視線に気づいた彼女が、微笑をたたえて幼馴染に尋ねる。一瞬、眼鏡のレンズが周囲の光をきらりと反射させる。

「あ、いや……何でも」

 現実に戻されて言葉を喉の奥に押し込み、何も感じてないようなフリをして彼はかぶりを振った。表情は崩れてないように思っていた白谷だが、何だかそれまで感じていた微妙な寒さが、顔の辺りだけ軽減されているようだった。

「ふーん……」

 彼女は再び景色を眺めた。彼も視線を同じ方角に向ける。

 ──気が付けば園内のBGMは、閉店を知らせる蛍の光が流れていた。で感覚がマヒしてたかのような二人の耳に、忍び込むように音楽が浸透してくる。

「帰ろうか」

 もう1回見たい……何となくそう思った白谷は隣の幼馴染の横顔を見て言葉を切り出す。

「そうしようか」

 まるで景色に語りかけるように、彼女は同意を示した。


「ただいま~」

「お帰り。遅かったわね」

「うん、ちょっと生徒会の事で手間取って……」

「そう。あ、もうすぐご飯できるから、着替えて降りてらっしゃい」

 家の前で幼馴染と別れた黒瀬は玄関で家族に帰宅を告げた。奥の台所から母親がほんのわずかの間顔を出して声を掛けたあと、再び"主婦の戦場"へと舞い戻る。夜ご飯の仕度中なのだろう、台所からは忙しそうに立ち回るスリッパや食器の音などが絶えず響いてきている。父親と妹も台所でテレビを見ながらご飯を待っているようで、いつもいる居間には灯りは点いてなかった。

 襖は閉めてはいるが家の中は美味しそうな香りが広がり、彼女の空腹感をくすぐらせる。

「お腹空いたなぁ」

 1時間ほど前に食べたばかりのジャンボラーメン大盛バター入りの熱量は魔法の補填に既に使われたらしく、再び空腹感がお腹から彼女を支配しようとしていた。食欲がそれに比例してじわじわと湧き上がってくる。

 部屋がある2階へと階段を上って行く。黄色がかった電球の明かりが照らす中、彼女の頭の中は今日の駅前での出来事を何度も再生上演されていた。

 ──迂闊だったなぁ……ロクに確認せずに路地から飛び出して車に跳ねられかけたなんて……駿あいつが聞いたら向こう3か月はそのネタでいびられそう。そう思った彼女の表情にはそうならなかったことへの安堵感がにじみ出ていた。

 幸い、車の方の速度が出てなかったようで何とか直前に魔法使って逸らす事は出来たけど、まあ、他に人いたけどパッと見は直前で避けたように見えるからいいか──彼女は、発動しても他人からは効果がほぼ不可視になる風の魔法に感謝した。反射的に制服の下にある、胸に掛けてある水晶のペンダントに触れる。

 風を操れる"術者"じゃなかったら今頃は病院だろうなぁ……そう思うと、"能力"を持って生まれてきたことへの有難みが体中に満ちていった。

 彼女は階段を上がり切ると、隣の白谷家が見える窓から向こう側を覗いた。何かに誘われるかのように。

「……」

 向こうの家も、階段を上がったところに窓がある。やはり電球の、黄色がかった光がその窓から見えているが、幼馴染は姿を見せなかった。

『万が一、もし将来一緒になったらそのことを話す』

 ふと、さっきお店で彼女はそう彼に言ったことが脳裏をよぎる。

 もし、言ったとして……その時彼は受け入れてくれるだろうか。"魔法"という、普通の人から見れば非現実的でありえない現象を操る"力"のことを。

 拒絶されるかもしれない。

 人ならざるものとして、存在を否定されるかもしれない。

 十数年かけて作り上げた幼馴染で腐れ縁で隣人という、多分二度と構築できない関係をたった一言で崩してしまわないだろうか……恐怖に名を借りた不安という土用波が一斉に彼女の心に襲い掛かかる。その波が彼女の身体を駆け抜け、押し潰されようとした刹那──

『大丈夫。"弟"だもん』

 不意に聞こえた、ように彼女は感じた。

 もう一人の彼女……何処からか語り掛けられた"弟"という言葉は、津波のように押し寄せる不安と恐怖に立ちはだかる防波堤であり、また魔法の言葉でもあり免罪符でもあった。その一言は澱んだ空気を何の苦もなく一掃するような爽やかな春の風にも似て、たちどころに彼女の心を蝕む悲観論を打ち砕く。

 4月生まれの彼女と3月生まれの彼。学年は一緒で同級生だが、その差は彼らにとっては何よりも互いの立場を強く認識させるとして存在していた。片や"姉"として振舞い、彼に自分は目上と意識づけさせ、使いっ走りにも似たことをさせてきた。

 その代わりに、彼に襲い掛かる災難を"姉"として幾度となく彼女は退けて来た。時には魔法を使ってでも──もちろん、バレないように。

 だから、自分が"魔法"という荒唐無稽な事を言っても、駿は"弟"だから言う事を聞いてくれるに違いない、信じてくれるに違いない……妙な自信が、彼女自身に安心感という風を吹き込んでいった。

 カラダが幾分軽くなったように、彼女はそう感じた。更に落ち着くために軽い深呼吸を一つ。

 そうだ、駿かれは"弟"だ。そして、自分は"姉"だ──窓ガラスにちらりと映る自分の朧げな姿を視界に認めた彼女は、そこに映るもう一人の自分に自己暗示をかける。

 何でもない。自分は大丈夫。

「……さっさと着替えてご飯食べよ」

 自分の体の中から、早く栄養を!とシュプレヒコール代わりのお腹の音が耳に届く。誰も聞いてはいないのだが、そこは思春期の乙女らしく恥ずかしさがこみあげ、顔がいくらか紅潮し、顔辺りの気温が少し上昇した。本能に急かされる様に、それを見られない様に、彼女は自分の部屋へと入っていった。


「ただいまぁ~」

「駿、遅いよ何処行ってたの!」

「ああ、ちょっとお隣さんに付き合わされて……」

「結衣ちゃんの付き添い?ならよかった」

 帰宅が遅くなった彼に母親は心配が先に立ったせいか強めの口調で詰問されたが、幼馴染の名前を出した途端、手のひらを見事に返した答えが返ってきた。まあ昔から彼女の名前を出してれば大体は許されるから免罪符として大変助かる。

「ご飯は?」

「もう少しかかるから、先に着替えてらっしゃい」

 母親からもう少し待てと言われた彼は、玄関から電灯を灯した目の前の階段を上がって行く。階段を上る直前、ちらっと見た居間の方は電気がついていた。多分父親と弟がテレビでも見てご飯までの時間を潰しているのだろう。

 2階へと上り切った左側に窓があり、そこから隣の家──黒瀬家の2階が見える。

 2階へと上がった彼は自分の部屋へと入る直前にふと隣の家を視界に収めた。そこから見える隣の景色には、電気は点いているが今しがた帰宅したはずの彼女の姿はまだそこから見えていなかった。

「……」

 自室に入って彼はベッドに腰を下ろす。何処か疲れたように、ベッドへぽすん!と落ちるように腰を落とした彼はしばらくぼーっと部屋の壁を見つめていた。

「……何なんだろうな、これ……」

 彼の頭の中で、夏の日の花火の様に幼馴染の顔が浮かび上がる。特に今日の、彼女が見せた普段とは違う表情……それは彼自身の中で、小さな頃から少しづつ、自分自身が気づかないうちに蓄積されていったある感情に火がつきそうになる、そんな気がしてきた。

 その感情には名前がない。しかし、それが何なのかは判ってる。そして、もしそれを言ってしまったら……今までの彼女との"幼馴染"という関係性を壊してしまうのでは。ふと彼はそんな気がして、そして全身を一瞬で駆け巡った恐怖感に身を竦めた。

 言いたいけど言いたくない。言いたい、けど怖い。

 でも、どうしたらいいのか。

 何処かで声がする。内からのささやきが、きちんと耳に届いてるように。

 このままの関係を続けていればそれでいいじゃないか……と、もう一人の彼が囁く。そうすれば、ずっと"幼馴染"でいられる。

 何も得られない代わりに、何も失わない。ぬるま湯と言われそうだが、それにつかり続けていたい時期もある。何も自分から彼女とのそれを壊さなくてもいいんじゃないか。上手く行くならいいけどその保証が何処にある。ならば──やっぱり、そうなのか。

 彼は、気持ちの核心を"幼馴染"という名の貝殻で閉じ込めた。核心に触れなければ、その舞台にいつまでも立っていられる。ぬるま湯で、気持ちがいいその舞台は何と心地良いのだろう。

 適度に干渉し、適度に離れる。恋人というほど面倒くささもなく、かといって友達よりもその結びつきは強い。"友達以上、恋人未満"──この絶妙な距離間こそがぬるま湯と言うならば……少なくとも、今はここに居たい。答えはもう、出ている。

 ベッドに寝転がった彼はもう何度見たかもわからない天井を見つめながら、そのぬるま湯の心地よさに身も心も委ねていた。

 ただ……その貝の殻は、彼が思ったより儚かった事を後で知ることになる。幼馴染は、長くその場に留まる事を許さないかのように、初めから壊れることを運命として持っていたことを。


【終】

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ちいさな話しかできないけど きたの しょう @show_kitano

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