4

 警官との取り調べにおいて、私は何も言えなかった。ただ警官の言うことに、うんうんとうなずき続けた。「女性を殴ったのですか?」「はい」「女性の恋人である男性にも暴行したのですか?」「はい」「あなたの勤め先は――、こちらですね?」「はい」「あなたの同僚に聞かせて頂いたのと記録にもあるのですが、あなたの恋人は先日他界していますね?」

「……」

 ――心が割れる音がする。でも心は割れまいと必死に取り繕っている。

「亡くなっていますね?」

「……やめろ」

「何ですか?」

「やめろって言っているんだ!」

「やめろと言われましても、あなたの恋人が亡くなっているのは事実じゃないですか。もしやこれが動機に関わっているのですか」

「……やめてくれ。それを俺に言わないでくれ」

「恋人の死が動機に関係していると」

「いいや違う、恋人は関係ないし彼女は死んでいない」

「いえ、あなたの彼女は死んでいます」

「違う! 死んでいない。数日前から姿を見ないが、生きているんだ!」

「いえ、記録にもはっきり死亡していると記載されています」

「そんなのは嘘だ! そんなはずがない! 彼女は決して死んでいない! またすぐに俺のところに戻ってくるし生きている!」

「いい加減にしなさい!」そこで冷静だった警官が初めて声を荒げた。

「あなたの恋人は死んでいるしもう戻ってはこない。これは事実だ。認めなさい」

「違う……違う!」

「認めるんだ!」

「……」警官は私を制し、静かに、あの日のことを話しだした。私は何も言わずに、ただ黙りこんでいた。そしてじっと、心が割れていく音を聞いていた。

「先日、通り魔によってあなたの恋人は殺害された。夜の路上、あなたの自宅付近での出来事だった。あなたたちは近所の店で買い物し終え、自宅へと向かっていた。あなたは右手に買い物袋をぶら下げ、左手は恋人と手をつないでいた。そして、会話をしながら歩いていた。しかしその時、現在も世間を震撼させている通り魔が、刃渡り15cmの出刃包丁であなたの恋人の腹部を背後から突き刺した。もちろん、その時あなたは横にいたんだ。恋人は苦しそうな声を上げたのちにその場で座り込んだ。座ったというよりは倒れたのですね? あなたは恋人のいる地面が赤く染まるのを見て、そして血の付いた包丁を持った通り魔を見て状況を理解した。そして咄嗟に、あなたは通り魔を捕まえようとした。しかしあなたは通り魔に左腕を切り付けられ、結局は何もできずに逃がしてしまった。そしてあなたは苦しむ恋人を前に、すかさず救急を呼んだ。しかし、残念ながらあなたの恋人は多量に出血をし、呼吸も浅くなり、救急の到着に間に合わず失血死した。あなたは冷たくなった恋人に触れて号泣した。通り魔の刺した刃がもう少し浅ければ、あるいは場所がずれていたら、助かっていたかもしれない。後にそう医師は言った。――これが事の顛末でしょう? あなたはその後葬式なりにも出たようですし、あなたの恋人は確かに亡くなっている。そうでしょう?」

「……はい」そうして、私の心は完全に破壊されたのだった。警官は質問を続ける。私はただただ頷いた。

「そして、恋人の死が少なからずとも今回の件の動機に関与していると?」「はい」「嫉妬ですか。それとも衝動的な怒り?」「そんなところです」「分かりました」「では……」

 その後も取り調べは続いたが、私はやはりじっと頷き続けた。そしてすべての後に、今後のことを言われた。私は傷害罪で裁判にあげられるようで、それまでは留置場に置かれるらしい。だが別に、もうどうだって良かった。刑務所に入れられようが、退所後の職や人生についても、何だって良かった。考えたくなかった。考える必要も感じなかった。

 ――ずっと、目を背け続けていた。見たくないものから、目を背け続けていた。彼女が死んでしまったという事実を、認めようとしなかった。認めたくなかった。真っ当に生きていた、そして私が最も愛していた彼女が、そしてその笑顔が、この世界から不条理に失われてしまう。そんな残酷な事を、私は認めたくなかったのだ。


「ここが45番の部屋だ」そして翌日の夜、俗に言う”豚箱”に私は放り投げられた。


 夜の三時だった。目を覚ました。他の収容者たちはぐっすりと眠りこんでいる。

 彼女の絶やさなかった笑顔が思い浮かぶ。死に際の痛みに顔を歪めながら、私のために作ろうとした痛々しい笑顔も同時に思い浮かんでしまうが、もう消すことはできない。

 いつも彼女は私の横にいた。出会ってから今までずっと。付き合って同棲しだしてからは、眠るときも、もちろん食事の時だって、ほとんどの時間を共に過ごした。幸せだった。だが、まさかそんな幸せがたった一瞬の出来事で崩壊してしまうだなんて思いもしなかった。もっとその幸せを噛み締めておけば良かった。誰もいない左側を見て今私はそう思う。

 彼女は生前、キャンプが好きな私に本当に小さなナイフをプレゼントしてくれた。一見すると髪をとく櫛のようなデザインで、私は非常にそれを気に入って、使うわけもないのによく持ち歩いていた。持ち歩いていると彼女に知られた時には、物騒だからやめてと怒られたものだった。しかし私は、彼女からのプレゼントが万が一盗まれたらと思い、初めて彼女の言うことを無視してその後も持ち歩き続けた。そしてその行動、彼女の選んだデザインが、ここに来て役立つことになるとは思いもしなかった。

 逮捕されたその瞬間も、私のポケットには小型ナイフが入っていた。そして取り調べの時も、留置場へ送られる時も、ずっとポケットには小型ナイフが入ったままだった。留置場へ着き、トイレへ行かせてもらった時、私はこれを離してはならないと思い、下着の中にそれを隠した。そして戻り、検査を受け、違う衣服に着替えさせられた時、私は小型ナイフを持ったまま留置場の中へ入るのに成功したのだった。

 そして今、私は小型ナイフを取り出す。やはりただの櫛のようだ。収容者はぐっすり眠っているし、警官の姿もない。今ならやれる、そう確信した。

 私は思ったのだった。彼女がいないこの世界で彼女の幻影を見ながら、あるいは、彼女がいないという残酷な現実と向き合いながら、生きていく必要は果たしてあるのだろうかと。彼岸の世界があると、私は思っていない。彼女との再会があると、私は思っていない。しかし同時に、彼女がいない場所で生きていけると、私は思っていない。だから私は、私という存在の消去を想った。それは無機的で永遠な時間の経過だ。苦しんだりすることもなく、幸せに思うこともない。ただ、予期される莫大な苦しみの蓄積に比べれば、その方が幾分も益しだった。

 彼女をやはり思い出す。その笑顔や温もり、それだけを思い出す。それだけを思い出して、何が悪い。受け入れなくて、適合しなくて、何が悪いというのだ。今、私の目の前には静謐な空間が広がっている。それを破壊する権利など、誰にもない。

 小型ナイフを展開すると、鋭利な刃が見えた。彼女からプレゼントされた時、まさか初めての使用がキャンプとはかけ離れたこの空間になるとは、想像もしていなかった。しかしその行動はある種幸福で充足感を得られるものだった。

 刃を頸動脈へ突き立てる。そのまま引き抜く。瞬間、赤い鮮血が夜の闇の中噴き出した。その音か、私の血を感じてか、数人の収容者が起床し、ブザーが鳴り、混乱が広がった。「何をやっているんだ!」恐怖を内包する叫び声が聞こえる。しかし、曖昧になっていく意識の中でその言葉ははっきりと理解はされなかった。収容者や駆け付けた警官が私に触れているのが感じられる。赤く、そして黒くなっていくのが見える。血の鉄らしい匂い、苦々しい味。しかしそのどれもが、やはり曖昧となり消えていった。

 私は彼女と最期にいた。そこでは彼女は私の愛した笑顔で、私に何かを語りかけていた。私も彼女に何か大切なことを語った。しかしその語った言葉たちは、消えゆく意識の中で闇に吸い込まれていった。そして同様に、私も彼女もその闇の中に沈み込もうとしていた。だから私はその終わりにおいて、まだ温い彼女を全力で抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冷たい彼女と終わりの温さ 水無月うみ @minaduki-803

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ