第7話 夏休み2
「ここの生徒?」
ピアノに近づきながら女の子に尋ねた。
「転校してきて、明日から通うの。今日はお母さんとあいさつに」
「そうなんだ。学童に通ってて、お祖母ちゃんを待ってたらきれいなピアノが聴こえてきたから。勝手に聴いててごめんね」
「ううん。夏休みに生徒がいたのはびっくりしたけど、聴いてくれてうれしい。拍手までしてくれて」
「すごく良かったから。感動しちゃった。あ、三年二組の#冴木__さえき__##柚羽__ゆずは__#。あなたは?」
「わたしは三年一組になるみたい。峯村ユリです。よろしくね」
「同じ学年だったんだ。大人っぽいから四年生か五年生かなって思ってた」
「そうかな? 親戚からはしっかりしてるってよく言われるけど。弟がいるからじゃないかな。ねえ、柚羽ちゃんって呼んでもいい? わたしも学童に入るんだ」
「あ、うん。いいよ。それじゃ、ユズもユリちゃんって呼んでも?」
「いいよいいよ。クラスも一緒だったらよかったのに」
「ほんとだね。ユリちゃんはピアノすごく上手だね。最初に弾いてた曲気に入っちゃって、リクエストしたらダメかな?」
「いいよ。あの曲はショパンのエチュード、練習曲のひとつでエオリアンハープっていうの」
言いながら、ユリちゃんはピアノに向き直った。
「柚羽ちゃん、聴きながら想像してみて。羊飼いの少年が、暴風雨を避けて洞窟に避難しました。外は強い雨と風。少年は笛を取り出して美しい旋律を奏でます。弾くね」
そっと鍵盤におろしたユリちゃんの細い指が動きだす。なめらかに。流れるように。強弱をつけながら、きれいな旋律が紡がれる。
台風の日。窓が割れるんじゃないか、家が飛ぶんじゃないかと不安だった日を思い出した。
ガンガンと音をならして吹きつけてくる強い風と、叩きつけてくるようなどしゃぶりの雨。
怖くてずっとお祖母ちゃんにしがみついていた。
あのときこの曲が聴けていたら、不安や恐怖はすぐにかき消されたと思う。
最初聴いたときに感じた暖かさを再び感じた。心がじんわり温かくなって全身に広がっていく。
演奏はあっという間に終わってしまった。何度も繰り返して欲しいくらい。いつまでも聴いていたかった。
「ユリちゃんすごいよ。とってもきれい」
「ありがとう。大好きな曲なんだけど全然上手く弾けなくて」
「とっても上手だと思ったんだけど、ユリちゃんは納得してないんだ」
「ぜんぜんダメ。もっと練習しないと。柚羽ちゃんピアノ経験は?」
「ないよ。こんなすごいのユズに弾けるわけないもん」
「練習いっぱいしたらいつか弾けるようになるよ」
「無理だよ」
「わたし憧れてる曲がたくさんあるんだ。いつか弾けるようになりたいって思って、そのためにいろんな曲を練習してるの」
「こんなに上手に弾けるのに、弾けない曲があるの?」
「たくさんあるよ。難しいけどすてきな曲が。エオリアンハープだってそう。わたしのレベルじゃまだ早いんだけどね。柚羽ちゃんは音楽好き?」
「うん。好き。パパとママと一緒にコンサートに行ったよ」
「すてきな音楽を自分の手で紡ぎたいって思わない?」
「え……」
できるの? そう思ったのは初めて。演奏を聴くのは好きだけど、自分が演奏する側に回るなんて考えてもみなかった。あんなきれいな曲を奏でられたら、とてもすてきだなと思えた。でもユズにできるのかな。
「柚羽ちゃん、座って」
手招きをされるまま、ユリちゃんの隣に座った。
鍵盤の端と端はユズが精いっぱい手を伸ばしてもきっと届かない。
黒く白く光るピアノがすごく圧倒的な存在に思える。
「ドレミの歌は知ってるでしょ」
「うん」
「ここがドの場所。右手の親指で押してみて」
心臓がドキドキしてる。鍵盤を押したら、音が出るんだ。ユズが立てる音。
恐る恐る手を伸ばし、白鍵に親指を乗せた。押す。ポーンとポスンの間の弱々しい音が出た。
「出た。音が出たよ、ユリちゃん」
ユリちゃんが出す意志をもっているような音とは比べものにならないけど、テンションが上がった。
「次は隣の鍵盤を人差し指で」
「うん」
レの音、次は中指でミの音。
「この三つでドーナツのドまで演奏してみようか。弾いてみるね」
ユリちゃんが手本を見せてくれる。
「ゆっくりでいいから弾いてみて」
「う、うん」
ドレミの歌は知っている。なのに頭で考えたようには指が動かない。
「難しいよ」
「繰り返せば絶対弾けるよ」
言われるがまま、ドーナツのドだけを何度も繰り返す。そのうちに、リズム通り指が動くようになってきた。
「柚羽ちゃんすごい。弾けるようなってきたよ」
ユリちゃんに褒められたのが恥ずかしくて、だけどとても嬉しかった。
「楽しくない?」
「楽しい」
聞かれて素直に頷いた。思うように弾けないことが悔しくて、何度も何度も繰り返す。ぜんぜん嫌じゃなかった。飽きなかった。もっと上手く弾きたい。弾けるはず。そう思えた。
「上達のコツは、反復練習なんだよ。諦めない、それが大事かな」
そう言ってユリちゃんはもう一度エオリアンハープを弾いてくれた。
流れるように動く指の動きを見ながら聴くと、より一層お気に入りになった。
ユリちゃんのピアノがますます好きになった。
「あぁ、ここにいたのね」
演奏に聴き入っていると、声が聞こえた。振り返ると学童の先生が立っていた。
「冴木さん、お祖母ちゃんがお迎えにきてくれたから」
「はい」
「峯村さんも、お母さんのご用事は終わられたから、一緒に戻りましょう」
「わかりました」
ユリちゃんは鍵盤の蓋を閉じた。一緒に一階に下りる。
だけど、ユズはまだまだピアノを弾きたかった。ユリちゃんの演奏も聴きたかった。
気持ちだけ音楽室に残ったまま階段を降りていると、あ、と思い出した。
学童の教室の隅に半透明のカバーがかかった小さなピアノのようなものがあったと。
ユリちゃんとは職員室で別れた。
お祖母ちゃんは学童教室の前の廊下で待ってくれていた。
鞄を取りに行くついでに、カバーをめくってみる。
それにはピアノと同じように白鍵と黒鍵が並んでいた。
ドの鍵盤を押してみた。音が出ない。壊れているのかな。
扉の近くでユズを見ていた学童の先生に尋ねてみる。
「先生。これってピアノ?」
「電子ピアノよ。電源を差せば音は出るはずだけど」
「学童で弾いてもいい?」
「ええ、いいわよ。でも、先生がストップって言ったらすぐに終わらせること。それと大きな音は出さないこと。約束できますか」
「はい。約束します」
また弾ける。もっと上手に弾けるようになる。
わくわくが止まらなくて、明日がすごく待ち遠しくなった。
ユリちゃんと会うまで明日が不安だったのに、吹き飛んじゃうくらい。
待ち遠しすぎて家に帰ってからも、頭の中でいっぱい練習をした。
お祖母ちゃんが作ってくれたごはんを食べながら、ついているだけのテレビを見ながら、お風呂に入りながら、ベッドに入ってからも、たくさんたくさん練習した。頭の中では完璧に弾けた。
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