ピアニスト ~愛の夢~
猫柳 楽代
光と陰
『プロローグ』
〝愛しうる限り 愛せよ
愛したいと思う限り 愛せよ
墓場に
第一章
二〇二一年七月 オランダ・アムステルダム
コンセルトヘボウ。それは、ボストンのシンフォニーホール、ウィーン
その座席の最前列十八番。ほぼ中央に、サングラスをかけた四十歳前後の女性が座っていた。サングラスという出で立ちが、この場に似つかわしくなかったが、内面から
その女性をステージの袖から見守る青年がいる。
十年か・・・。長い道のりだった。
青年は、そっと目を閉じて十年の年月を振り返っていた。そして、その年月を遡ってみても、これ以上ない最高の舞台が整えられたと感じていた。世界的なコンセルトヘボウで、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がバックオーケストラを
青年は閉じていた目を開けると、大きく息を吸い込み、ステージへ大きな一歩を踏み出した。たくさんの拍手が彼をステージに迎え入れた。そこは光り輝く世界だ。
二〇一一年四月 オランダ・アムステルダム
目の前を、白衣を着たドクターやナースたちが忙しそうに通り過ぎて行く。受付を済ませて待合室の椅子に座ってから、もうどれぐらいが経っただろう。椅子に座っている女は、膝に置いた楽譜の上で細長い綺麗な指をせわしなく動かしながら、一点を見つめていた。
女は、翌週から始まるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との協演コンサートのことで、頭が一杯だった。お抱えのマネージャーに目の調子が悪いと言ったばかりに、忙しい時期に病院にいる羽目になったのだ。自分の発言に後悔しつつも、最近ピアノを演奏していてミスタッチが目立つようになったのは確かだ。だからといってこんな病院で長い時間を費やすことは無駄な時間に思えてならなかった。
早く家に帰って練習をしなくては。女はそう考えていた。
まあ、いいわ。あんなに気の遠くなるような検査をしたのだから、ここに来るのは今日で最後になるでしょう。
女は、心の中でそう言い聞かせて落ち着き払おうとした。
「ミス・マグワイア。診察室にお入りください」
診察室から出てきたナースにやっと名前を呼ばれ、女は立ち上がり診察室に入った。
「キャサリン、待たせたな」
診察室に入ると、ふくよかな男性ドクターがそう言って、キャサリンに空いた椅子に座るよう手招きした。
「ほんとに。マーティン。あなたでなかったら、今頃私は黙ってなんかいられないわ。病院に来るスケジュールを開けるのも一苦労よ」
キャサリンはそう言いながら椅子に腰かけた。
普段ならそこで笑ってくれる男だったが、マーティンは
「ちょっと失礼するよ。遠くを見て」
マーティンはそう言いながら、ペンライトの光をキャサリンの両目片方ずつに当てて、入念にチェックし始めた。
チェックを終えると、マーティンはペンライトを再び胸ポケットにしまった。
「キャサリン、君は過去に
「私はピアニストよ。昔から視力には気を遣っているし、目が理由で病院に
マーティンは、キャサリンの言うとおりだと言わんばかりに
キャサリンという女は昔から気の強いところがあった。マーティンとキャサリンが出会ったのは小学校七年生の時。日本でいうところの五年生だ。
キャサリンのいるクラスに、転校生として入学してきた少年がいた。
その少年は、毎週水曜日の朝がくることを憂鬱な気持ちで迎えていた。
オランダの教育は、世界一と言われているほど充実している。義務教育は基本的に学費が無料で、教育の機会均等を誰にでも与えられており、さらに、小学生のころから英語教育を受けている。非英語圏では英語力世界一と言われる所以がここに存在する。
少年も例に漏れることなく毎日英語の授業を受けていた。英語の授業については、支障はなかった。もともと頭の良かった少年は、めきめきと英語を自分のものにしていった。しかし、水曜の英語の授業だけは苦痛だった。
水曜の英語の授業は、ピアノの伴奏に合わせて英語の歌を歌いながら英語を楽しむ、というカリキュラムだった。少年は歌が下手で、毎週クラスメイトの笑い者になっていた。
だが、何回目かの水曜の授業では様子が違っていた。なぜだか周りのクラスメイトが音程を狂わせていた。むしろ少年だけが
いつも伴奏を弾いている少女が、わざと少年に合わせて音程を変えてくれていたのだ。そして、ピアノを弾き終えると、少女はクラスメイト全員を相手に、こう言ってのけたのだ。
「真に音楽を愛する人は、音楽やそれに関わる人たちを馬鹿にしたりしない」と。
この少女がのちのキャサリンであり、少年がマーティンである。
「じゃあ、もう一つ。これが最後の検査。僕の人差し指を右から左に動かすから、見えた時にストップと言ってほしい」
そう言って、マーティンは、自分の人差し指をキャサリンの顔の、向かって左斜め四十五度の位置に突き立てた。それから、ゆっくりと指をキャサリンの顔の前を横切るように動かし始めた。
マーティンの指がキャサリンの右頬の前に来た時、キャサリンはマーティンの指示通り指を止めるよう言った。
キャサリンは動揺した。今までは無自覚だったが、改めてこのような診察を受けたことで、自分の視界の両端が白く、もやがかっていることに気付いたのだ。
だがそれでもなお、彼女は何かストレスが原因でこうなっているのではないかと軽く考えていた。
マーティンはうなだれた。昔ピアノで自分を救ってくれて、ピアノを生きがいとしているキャサリンに、今から自分が言う事は、あまりにも過酷なものになると容易に想像ができたからだ。
「キャサリン。診断結果だがね。冷静に聞いてもらいたいのだが・・・。君はおそらく
「
聞きなれない病名とマーティンの話しぶりに、キャサリンは緊張を覚えた。
「そうだ。さっき指を見てもらったが、普通は最初の開始地点で見えているはずだ。だが、君は見えていなかった。視野狭窄だ。それから、網膜に白色から黄色の斑点が確認できた。おそらく、斑点については幼少期からあったはずだ。網膜電図の
「・・・・・・私はどうすればいいの?」
キャサリンはおそるおそる聞いた。診察室に入ってきた時の勢いの陰りもない。
マーティンは
「・・・君にこんなことを言うのは酷かもしれないが、いずれ、何年先になるかは分からないが、君は視力を失うことになるはずだ」
キャサリンは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。マーティンの発言が何を意味しているのか理解することに時間がかかった。突然の告知に、涙さえ出てこなかった。
「つまり、それは・・・ピアニストを諦めろということ・・・?」
「残念だが・・・」
一瞬の沈黙の後マーティンは答えた。
「あなたがそう言うという事は、治療法はないということね・・・」
キャサリンはそう呟くと、どこともなく一点を見つめ、やがてすっと立ち上がり気丈に言った。
「マーティン。あなたの口から聞けて良かったわ」
キャサリンはマーティンに背中を向けて診察室から出て行った。
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