第10話 多動の子どもと「よく噛むことの奇跡」

 佐藤翼は、静かな教室の中で動き回っていた。自分の席に座っていることができない。手足がうずうずして、椅子から立ち上がっては歩き回り、他の子どもたちの声が聞こえ始めると、それに反応してさらに落ち着かなくなる。先生の話も耳に入ってこない。目の前に並べられた教科書やノートを見ても、まったく集中できなかった。


 母親の美穂子は、毎日のように「もう少し静かにしていなさい」と言っていたが、翼はどうしてもそれができなかった。小さな体が次々に動き回り、心の中で何かが暴れているような感覚があった。


 家に帰ると、夕食時、母親は「もう少し食べなさい」と言いながら、食事をすすめる。しかし、翼は食事中もあまりにも落ち着きがなく、食べ物をかき込むように口に運んでしまう。そのため、美穂子はよく「しっかり噛んで食べなさい」と注意をしたが、翼はそのたびに焦ったようにただ食べるだけだった。


 ある日、美穂子は学校での様子を心配し、長年通っている心のカフェの店主、沙月に相談することにした。沙月は美穂がよく話す顔見知りで、彼女の心配をよく理解していた。


 「最近、翼がどうしてもじっとしていられないんです。食事の時も落ち着かなくて、心配で…」美穂子は肩を落としながら話した。


 沙月は穏やかな微笑みを浮かべながら、美穂子の話を聞いた。「それは辛いですね。でも、翼君が落ち着かない原因は、もしかしたら食事の仕方に関係があるかもしれませんよ。」


 美穂子は少し驚きながら尋ねた。「食事の仕方?」


 「はい。翼君のように多動的な子どもは、心が落ち着く時間を持つことが大切です。」沙月はやさしく説明を始めた。「よく噛むことは、ただ食べ物を消化しやすくするだけではなく、心を落ち着ける効果があるんですよ。」


 「どうして、よく噛むことが心を落ち着けるんですか?」美穂子は首をかしげた。


 「実は、噛むことは体にとってとてもリラックスする動作なんです。食事のとき、ゆっくりと噛むことで、自律神経が整い、リラックスを促進するんです。特に、多動傾向の子どもは、体が過剰にエネルギーを発散しようとすることがあるので、噛むことに集中することで、自然に気持ちが落ち着いてくるんですよ。」沙月は穏やかに言った。


 美穂子はその言葉に少し驚いた。「そんなに簡単なことで?」


 「はい。食事は単なるエネルギー源ではなく、心を落ち着けるための大切な手段でもあります。」沙月は自信を持って答えた。「よく噛むことで、翼君も少しずつ落ち着きが取り戻せるかもしれませんよ。」




 その後、翌日の夕食時、美穂子は翼に「今日はゆっくり噛んで食べようね」と伝えた。最初、翼は少し戸惑ったように見えたが、母親の言葉を受け入れて、食事をゆっくりと始めた。


 「ちゃんと噛んでね、翼。」美穂子は穏やかに声をかける。翼はいつものように急いで食べようとしていたが、美穂子は「一口ずつゆっくり噛んでみて」とアドバイスした。


 最初は不安そうにしていた翼も、母親の言葉を意識して、少しずつ食べ方を変えていった。最初はぎこちなく、一口ずつを大きく噛むことに集中していた。すると、次第に翼の顔に変化が現れた。最初の数分はやはり落ち着かなかったものの、少しずつ噛むことに集中することで、心が少しずつ静かになっていくのが感じられた。


 そのうち、翼の食事のペースも落ち着き、最後には満足そうに「おいしい」と言って食べ終わった。美穂子は驚きと喜びの気持ちが交錯しながら、翼の顔を見守った。




 その日の夜、翼はぐっすりと眠りについた。翌朝、学校に行くときも、以前のように落ち着きなく動き回ることはなく、静かに教室に向かっていた。その日、学校から帰宅した翼は、前よりも落ち着いた様子で帰ってきた。


 「今日はどうだった?」美穂子は尋ねた。


 「うん、今日はなんか、先生の話がちゃんと聞けた気がする。」翼は満足そうに答えた。「教室でじっとしていられたから、先生にほめられたんだ。」


 美穂子は驚きとともに微笑んだ。「本当に?」


 「うん。」翼はうなずきながら言った。「あの、食べ方を変えてから、ちょっと落ち着けるようになった気がする。」


 美穂子は胸を張って言った。「それはよかったね。食事が心に与える力って、すごいんだよ。」

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