【不条理人情ヒューマンドラマ短編小説】「透明な、あまりに透明な」(約6,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【不条理人情ヒューマンドラマ短編小説】「透明な、あまりに透明な」(約6,200字)

 凛子は、自分の手が透明になっていくのを見た。


 それは、ある火曜日の朝のことだった。いつもどおり6時30分に目覚まし時計が鳴り、彼女は習慣的に右手を伸ばしてスヌーズボタンを押そうとした。その時だった。薄暗い部屋の中で、凛子の手が薄れていくのが見えた。


 「え……?」


 彼女は目を擦った。しかし、状況は変わらない。むしろ、腕全体が徐々に透明になっていくのが分かった。


 凛子は慌てて起き上がり、電気をつけた。明るくなった部屋の中で、彼女は自分の体を確認した。腕だけでなく、足も、胴体も、少しずつ透明になっていく。


 「どうして……」


 パニックになりかけた凛子だったが、不思議なことに痛みはなかった。ただ、自分の体が見えなくなっていくだけだった。


 彼女は深呼吸をし、冷静になろうとした。


 「大丈夫。きっと夢よ。そう、夢に違いない」


 そう自分に言い聞かせながら、凛子はいつもどおり朝の準備を始めた。歯を磨き、顔を洗い、髪をとかす。鏡に映る自分の姿は、少しずつ薄れていくのに、触覚ははっきりしていた。


 「おかしいわ。こんなはずじゃ……」


 凛子は、自分の声が震えているのに気づいた。


 時計を見ると、もう7時15分。会社に遅刻するわけにはいかない。彼女は、半ば透明になった自分の体に服を着せた。不思議なことに、服は透明にならない。


 「よかった。これなら、気づかれないかも」


 そう思いながら、凛子は家を出た。


 * * *


 電車の中は、いつもどおり混んでいた。


 凛子は、周りの人々の様子をうかがった。誰も彼女のことを気にしていない。みんな、スマートフォンを見たり、本を読んだりしている。


 「やっぱり、私だけの問題なのね」


 その時、隣に立っていた小学生くらいの男の子が、凛子の方を見た。


 「ねえ、お母さん。あのお姉さん、なんか変だよ」


 男の子の母親は、慌てて息子の口を押さえた。


 「ごめんなさい。失礼なことを」


 母親は凛子に頭を下げた。


 凛子は、動揺を隠すように微笑んだ。


 「いいえ、気にしないでください」


 電車を降りて会社に向かう途中、凛子は自分の姿を確認するために、ショーウィンドウに映る自分を見た。そこには、服だけが宙に浮いているような奇妙な姿が映っていた。


 「大変なことになったわ……」


 凛子は、深いため息をついた。


 会社に着くと、同僚たちは普段どおりに彼女に挨拶した。どうやら、誰も彼女の異変に気づいていないようだった。


 「おはよう、高野さん」


 隣の席の山田が、いつものように声をかけてきた。


 「あ、おはよう」


 凛子は、できるだけ普段どおりに振る舞おうとした。


 「あれ? 高野さん、今日何か違うね。化粧変えた?」


 山田の言葉に、凛子は一瞬凍りついた。


 「え、そう? 別に……」


 「うーん、でも何か違う気がする。まあいいや」


 山田は肩をすくめ、自分の仕事に戻った。


 凛子は、ほっと胸をなでおろした。


 その日の仕事は、いつも以上に長く感じられた。凛子は、自分の体が見えないことに慣れようとしていた。キーボードを打つ時、ペンを持つ時、少し集中すれば問題なくできた。


 しかし、同僚との会話は辛かった。相手の目を見ることができず、自分の表情がどう見えているのかも分からない。凛子は、できるだけ会話を避けるようにした。


 昼食の時間、凛子は一人で屋上に上がった。透明な手で、おにぎりを口に運ぶ。


 「なんで私だけ……」


 彼女は、空に向かってつぶやいた。


 その時、ドアが開く音がした。


 「あれ、高野さん?」


 振り返ると、同じ部署の佐藤が立っていた。


 「こんなところにいたんだ。探したよ」


 凛子は慌てて立ち上がった。


 「あ、ごめん。ちょっと一人になりたくて」


 佐藤は、少し困惑した表情を浮かべた。


 「大丈夫? 最近、元気ないように見えるけど」


 「え?」


 凛子は驚いた。自分が透明になっていることには気づかないのに、元気がないことには気づくんだ。


 「別に……大丈夫よ」


 「そう? でも、何かあったら言ってね。みんな心配してるんだ」


 佐藤の言葉に、凛子は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 「ありがとう。でも本当に大丈夫」


 佐藤は、まだ少し心配そうな表情を浮かべたまま、屋上を後にした。


 凛子は、再び空を見上げた。


 「みんな心配してる……か」


 その言葉が、妙に重く感じられた。


 * * *


 その日の夜、凛子は久しぶりに母親に電話をかけた。


 「もしもし、お母さん?」


 「あら、凛子。珍しいわね」


 母の声に、凛子は少し安心感を覚えた。


 「うん、ちょっと話したくなって」


 「どうしたの? 何かあったの?」


 凛子は、一瞬言葉に詰まった。透明になったことを話すべきか迷った。


 「別に……ただ、最近ちょっと疲れてて」


 「そう。無理しないでね」


 母の優しい声に、凛子は涙がこみ上げてくるのを感じた。


 「お母さん、私……本当は……」


 「ん? 何?」


 凛子は、深呼吸をした。


 「私、見えなくなってるの」


 「え? 何が見えないの?」


 「私自身が。体が透明になってるの」


 電話の向こうで、母が息を呑む音が聞こえた。


 「凛子、大丈夫? 熱でもあるの?」


 「違うの! 本当なの!」


 凛子の声が、少し高くなった。


 「落ち着いて、凛子。今すぐ病院に行きなさい。私も今から東京に向かうわ」


 「お母さん、違うの。病気じゃないの。本当に透明になってるの」


 しかし、母はもう凛子の言葉を聞いていなかった。


 「すぐに連絡するわね。それまで動かないで」


 電話が切れた。


 凛子は、ため息をついた。


 「やっぱり、誰にも分かってもらえない」


 彼女は、自分の姿を確認するために鏡の前に立った。そこには、パジャマだけが宙に浮いているような奇妙な光景が映っていた。


 「なんで、こんなことに……」


 凛子は、ベッドに横たわった。天井を見つめながら、彼女は考えた。


 なぜ自分だけがこんなことになったのか。

 

 どうすれば元に戻れるのか。

 

 そもそも、これは現実なのか、それとも夢なのか。


 考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。


 「もう、寝よう」


 凛子は目を閉じた。しかし、なかなか眠れない。


 翌朝、目覚めると、状況は変わっていなかった。凛子の体は、相変わらず透明だった。


 「また始まるのね」


 彼女は、重い気持ちで朝の準備を始めた。


 会社に向かう電車の中で、凛子はふと思った。


 「そういえば、昨日から誰とも目を合わせていない」


 彼女は、意識して周りの人々の目を見るようにした。しかし、誰も彼女と目を合わせようとしない。みんな、彼女の存在を避けているかのようだった。


 「まるで、本当に透明人間みたい」


 その言葉が、凛子の心に深く突き刺さった。


 会社に着くと、同僚たちはいつものように挨拶をしてきた。しかし、凛子には彼らの声が遠く感じられた。


 「高野さん、この資料をコピーしてもらえる?」


 上司の田中が、凛子に声をかけてきた。


 「はい、分かりました」


 凛子は、資料を受け取った。しかし、田中は彼女の顔を見ようとしない。


 コピー機の前で、凛子は思わず呟いた。


 「私、本当に存在してるの?」


 その瞬間、彼女の手から資料が滑り落ちた。紙が床一面に散らばる。


 「あっ……」


 凛子は慌てて紙を拾い始めた。その時、誰かが助けに来てくれるかと思ったが、誰も近づいてこない。


 「やっぱり……誰も私のことなんて」


 彼女の目に、涙が浮かんだ。


 その日の帰り道、凛子は電車に乗らずに歩くことにした。東京の喧騒の中を、彼女は透明なまま歩いていく。


 「こんなに人がいるのに、誰も私に気づかない」


 その感覚が、凛子の心を締め付けた。


 ふと、彼女は立ち止まった。目の前には、大きな橋が架かっていた。


 凛子は、橋の上に立った。下を流れる川を見下ろす。


 「もし、ここから飛び降りても、誰も気づかないんだろうな」


 そんな考えが、ふと頭をよぎった。


 しかし、その時だった。


 「お姉さん、大丈夫?」


 小さな声がした。振り返ると、そこには小学生くらいの女の子が立っていた。


 「え?」


 凛子は驚いた。女の子は、はっきりと彼女を見ていた。


 「なんだか悲しそうだったから」


 女の子の純粋な眼差しに、凛子は言葉を失った。


 「私が……見えるの?」


 「うん、見えるよ。でも、なんだか薄く見えるかな」


 凛子は、思わず涙があふれそうになった。


 「ありがとう。私、大丈夫よ」


 女の子は、にっこりと笑った。


 「よかった。じゃあね」


 そう言って、女の子は走り去っていった。


 凛子は、その後ろ姿を見送った。


 「私、見えてたんだ」


 その言葉が、彼女の心に暖かさを広げた。


 凛子は、ゆっくりと歩き始めた。家に向かって歩きながら、彼女は考えた。


 「私、本当に透明になってるの? それとも、みんなが私を見ようとしていないだけ?」


 その疑問が、凛子の頭の中でぐるぐると回り続けた。


 家に着いた凛子は、玄関で立ち止まった。靴を脱ぐ時、彼女は自分の足を見つめた。確かに透明だ。しかし、触れば確かな実体がある。


 「これって、私の心が作り出した幻なのかもしれない」


 そう思いながら、凛子はリビングに向かった。テーブルの上には、朝出かける前に置いていったコーヒーカップがそのままだった。


 「ああ、洗うの忘れてた」


 彼女はカップを手に取った。その時、不思議なことに気がついた。カップを持つ彼女の手は、透明ではあるものの、カップの向こう側がゆがんで見える。まるで、ガラスを通して見ているかのように。


 「これって……」


 凛子は急いで鏡の前に立った。そこには、確かに彼女の姿があった。透明ではあるが、輪郭ははっきりと見える。


 「私、本当に存在してる」


 その認識が、彼女の心に安堵をもたらした。


 凛子は深呼吸をし、冷蔵庫から水を取り出した。コップに水を注ぎ、一気に飲み干す。喉を通る水の感覚が、彼女に現実感を与えた。


 「よし、落ち着こう。これは現実だ。でも、どうしてこんなことになったんだろう」


 凛子は、ソファに腰を下ろした。そして、ここ数日の出来事を思い返してみた。


 仕事のストレス、人間関係の悩み、将来への不安。どれも普通のことばかりだ。特別なことは何も起きていない。


 「でも、どこかで私は……」


 言葉が途切れた。凛子は、自分の心の奥底に何かがあることに気がついた。


 「そうか、私……」


 彼女は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。


 「私、逃げてたんだ」


 その言葉が、部屋に響いた。


 「仕事のプレッシャーから、人間関係の複雑さから、そして何より……自分自身から」


 凛子は、窓の外を見た。夜の街が、いつもと変わらない喧騒を見せている。


 「私、透明になりたかったんだ」


 その瞬間、凛子の体から光が放たれた。まるで、ガラスが砕け散るように、透明だった体が元に戻っていく。


 「あ……」


 凛子は、自分の手を見つめた。もう透明ではない。普通の、血の通った手だ。


 彼女は鏡の前に駆け寄った。そこには、いつもの凛子の姿があった。


 「戻った……」


 安堵の涙が、頬を伝う。


 しかし、すぐに凛子は我に返った。


 「でも、これで終わりじゃない」


 彼女は、自分の心と向き合う決意をした。


 翌朝、凛子は早めに会社に向かった。オフィスには、まだ数人しか来ていない。


 「おはよう、高野さん」


 田中上司が、驚いた様子で凛子に声をかけた。


 「珍しいね、こんな早くに」


 凛子は、真っ直ぐに田中の目を見た。


 「はい。田中さん、少しお話できますか?」


 「ああ、いいよ。どうしたの?」


 二人は会議室に入った。凛子は深呼吸をし、話し始めた。


 「実は、最近の仕事のことで……」


 凛子は、自分の悩みや不安を率直に話した。プロジェクトの難しさ、チームとのコミュニケーションの問題、そして自分の能力への不安。


 田中は、黙って聞いていた。


 「なるほど。正直に話してくれてありがとう」


 田中の声に、意外な優しさがあった。


 「高野さん、君は十分やれてるよ。ただ、もっと自信を持っていいんだ」


 「え?」


 「君の仕事、みんな評価してるんだ。ただ、君があまりにも控えめだから、伝わってないだけかもしれない」


 凛子は、驚きとともに少し恥ずかしさを感じた。


 「私、もっと積極的コミュニケーションを取るべきでしたね」


 「そうだね。でも、今からでも遅くないよ」


 田中は優しく微笑んだ。


 「これからは、もっとオープンに話し合おう。君の意見も、どんどん聞かせてほしい」


 凛子は、心から安堵の笑顔を浮かべた。


 「ありがとうございます。頑張ります」


 その日から、凛子の会社生活は少しずつ変わっていった。


 彼女は、積極的に同僚とコミュニケーションを取るようになった。自分の意見を述べることにも恐れを感じなくなった。


 「高野さん、この企画いいね!」


 「ありがとうございます。もっと改善できると思うので、みんなの意見も聞きたいです」


 そんな会話が、日常的に交わされるようになった。


 休憩時間には、同僚とおしゃべりを楽しむこともあった。


 「高野さん、最近明るくなったね」


 山田が、にこやかに声をかけてきた。


 「そう? ありがとう」


 凛子は、心からの笑顔を返した。


 仕事の後は、時々同僚と飲みに行くこともあった。


 「高野さん、今日は珍しいね」


 佐藤が、驚いた様子で言った。


 「うん、たまにはいいかなって」


 凛子は、少し照れくさそうに答えた。


 酔いが回ってくると、凛子は思わず本音を漏らした。


 「みんな、私のこと見えてるよね?」


 「え? 何言ってるの? 当たり前じゃん」


 周りの同僚が、不思議そうに凛子を見た。


 「ごめん、ちょっとした冗談」


 凛子は、苦笑いを浮かべた。


 その夜、家に帰った凛子は、久しぶりに母親に電話をかけた。


 「もしもし、お母さん?」


 「あら、凛子。どうしたの?」


 「うん、ちょっと話したくなって」


 凛子は、最近の出来事を母親に話した。透明になった話は黙っていたが、仕事のこと、人間関係のことを率直に話した。


 「そう。良かったわね、凛子」


 母の声に、温かさが感じられた。


 「うん。お母さん、ありがとう」


 「何のお礼?」


 「ずっと私のこと、見守ってくれてたでしょ?」


 電話の向こうで、母が少し驚いたような声をあげた。


 「当たり前よ。あなたは私の大切な娘だもの」


 凛子は、思わず涙ぐんでしまった。


 「ごめんね、今まであまり連絡取らなくて」


 「いいのよ。これからは、たまには顔を見せに来てね」


 「うん、約束する」


 電話を切った後、凛子は窓の外を見た。夜空に、星が輝いている。


 「私、もう透明じゃない」


 そう呟いて、凛子は微笑んだ。


 それから数ヶ月後、凛子は会社のプロジェクトリーダーに抜擢された。


 「高野さん、このプロジェクト、君に任せたい」


 田中の言葉に、凛子は驚きながらも、しっかりと応えた。


 「はい、頑張ります」


 プロジェクトは簡単ではなかった。困難な場面も多々あった。しかし、凛子はもう逃げなかった。


 「みんな、意見を聞かせて」


 「この問題、一緒に解決しよう」


 凛子の言葉に、チームメンバーたちも応えてくれた。


 プロジェクトが成功した日、オフィスで小さなパーティーが開かれた。


 「高野さん、本当にお疲れ様」


 同僚たちが、凛子を取り囲んだ。


 「みんなのおかげよ。ありがとう」


 凛子は、心からの笑顔で応えた。


 その夜、凛子は一人で近くの公園に立ち寄った。ベンチに座り、夜空を見上げる。


 「私、ここにいるんだ」


 その言葉に、深い実感が込められていた。


 凛子は、自分の手を見つめた。透明ではない。しかし、以前とは違う。


 「透明な壁」


 彼女は、ふとそう呟いた。


 「私たちの周りには、目に見えない壁がある。でも、その壁は自分で作り出しているんだ」


 凛子は立ち上がり、家路についた。


 街灯に照らされた彼女の影が、はっきりと地面に映っている。


 「私は、ここにいる」


 その言葉を、凛子は心の中で繰り返した。


 そして、明日への期待を胸に、彼女は歩み続けた。


                 (終)

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【不条理人情ヒューマンドラマ短編小説】「透明な、あまりに透明な」(約6,200字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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