はい、質問です! 続きはいつ出るのでしょう?
ええ、ここで終わるからこその、この余韻であることは、重々承知しているのです。ずばん、と断ち切ることで、彼らのフレッシュさとこれからの伸びしろを最大限に魅せられるのですよね。見事だなあと見惚れました。
まさに、始まりのおはなし。これからの「私」たち。まだ、挫折といえるだけの失望や屈辱や絶望に塗れたこともなく、世界を手にしたかのような高揚感に震えたこともなく。砂漠の骨への衝撃に生まれた嫉妬は、その製作者との再会の喜びにさらりと溶けてしまうほどの淡いもので。彼女と彼の柔らかくてみずみずしい感性をまさに体現していて。
これから、打たれ、こねられ、盛られ、なでつけられ、また崩されて、鍛え上げられていくのでしょうね。彼と彼女なら、とんでもなく高いところまで上っていけそうな、そんな予感がするのです。それを見てみたいと思います。
続きを待っています!
自分は五歳のとき事故で左目を失明していて、そのせいか風景を「平面」としてとらえる癖がついている。
風景の奥行きを感じ取れないのである。
こんなこといわないほうがいいのだが、美学生だったヒトラーの絵を見たとき
「この人あんまり風景に奥行きを感じてないな(自分と同じで風景を平面的に見ている)」
と思ったこともある。
そんな人間にとって立体美術を造形する人はほとんど魔法使いに見える。
現代詩を読むときと同じように、絵を見て「わかる」ことはほとんどない。
自分にとって世界を理解する最大の手掛かりは「言葉」だから。
この小説でも志桜吏やファービー君の作った立体をイメージするのは正直難しかった。
がそこに
「砂漠に転がる骨は美しい」
という言葉が突然現れ、それでなんとなく作品をイメージできた。
ちょっとパウル・クレーみたいだとも思った。
短いけれど奥行きの深い小説だ。
まぎれもない青春小説なのに現代詩や前衛美術に通じる面もある。
美大生や美大を志す若者が読んだら、きっとたまらないと思います。