芸能界を電撃休業中の人気アイドルが、なぜか僕のウチに転がり込んできて
若菜未来
第1章 こうして僕らの新生活は始まりを告げた
第1話 プロローグ/真夜中の不審者
代々弁護士の家系に生まれた僕は、特に何不自由なく育ってきた。
中高は地元の私立校。兄妹は妹がひとりいる。
親元を離れてひとり暮らしを始めた僕は、例に漏れず弁護士を目指す、言ってしまえばどこにでもいる法学部の学生だ。この春から二回生になる。
地元から遠く離れた東海地方の大学を選んだ理由は、ただ窮屈な地元を出たかったから――それもひとつの動機だった。
そして、今。
未来に過度な期待はしていない。でも、やり残したことがないとも言いきれない僕の十九年間が、まもなく終わりを告げるかもしれない。
そんな事態が、いま、目前に迫っていた――。
◇◆
三月下旬、桜がほのかに蕾をほころばせ始めた頃。
時刻は深夜一時を少し過ぎたあたり。眠りに落ちかけていた僕は、喉の渇きを癒そうとふらりと自室を出た。
そのときだった。
真っ暗なダイニングキッチンの向こう、玄関のドアノブが、まるでこじ開けようとするかのようにガチャガチャと音を立て始めたのだ。
突然のことに、僕は寝ぼけ眼のまま硬直し、事態を静観するしかなかった。
……強盗、だろうか。
たしかにこの二階建てのアパートは、セキュリティなど皆無に等しい。言ってしまえば誰でも侵入可能な吹きさらしの構造だ。ただ、だからこそ、計画的な強盗からすれば逆に警戒するようなチープさでもある。
深呼吸して耳を澄ませてみると、どうやら鍵を抜き差ししている音が聞こえる。ただし開く気配はない。つまり、その鍵はこの部屋のものではないということだ。
ここで、僕が鍵を落としたという可能性や、父や妹が来たという線は消える。
そもそも、家族なら連絡のひとつくらい寄越してくるはずだ。こんな真夜中に、片道三時間以上もかけて来るなんて非常識にも程がある。
……まさか、お隣のOLさんが酔って間違えているとか?
顔を合わせる機会は少ないが、隣には一人暮らしの女性が住んでいる。酔っぱらいの誤爆ならまだ説明がつく。
逃げ場もない。腹を括り、僕は足音を忍ばせてドアスコープに目を近づけた。
そして、そこで見た“何か”に、僕は思わず目を細める。
フォルムは女性。しかし全身をロングコートで覆い、帽子、マスク、サングラスという、怪しさ満点の完全装備。
しかも、きょろきょろと首を振って周囲を警戒するその様子は、どう見ても普通じゃない。
(お隣さんでも、どこかの酔っ払いでもなさそうだな……)
しばらく様子を見ていたが、その女性は立ち去る気配もなく、ただドアの前で肩を落としていた。
つまり、明確にこの部屋を目的にしているということだ。
強盗ではなさそうだが、困っているようにも見える。
少し迷った末、僕はドアチェーンをかけたまま鍵を外し、そっと顔を覗かせた。
「きゃっ」
女性は肩を跳ねさせ、小さく声を上げて身を仰け反らせた。
いや、驚いているのは僕の方なのだけど……。
「あの、どちら様でしょうか?」
「あなたこそ……誰? えっ、もしかして……部屋、間違えちゃった?!」
女性はスマートフォンの画面に目を落としたが、表情からして、ここで間違いないと思っているらしい。
声の質からして、たぶん僕と歳は近い。声優と言われても納得してしまいそうな、惹き込まれる声音だった。
「わたし、今日からこの部屋に入居することになってて……でも、今ここにあなたが住んでるのよね?」
「ええ、そうですね。しかも昨日今日の話じゃなくて、けっこう前から」
「……そっか。なら、やっぱりわたしが間違ってるんだ。でも……どうしよう……ッ……⁉」
女性は言いかけて、突然身をかがめた。まるで何かから身を隠すように。
「大丈夫ですか?」
僕も思わず同じように身を屈め、声をひそめる。
「実は……わたし、追われてるの」
「追われてる?」
言葉の重みを感じ取った僕に、女性は小さく頷く。
「少しだけでいいから、匿ってくれないかな? こんなこと初対面のあなたに頼むのはお門違いだって分かってる。でも、時間がないの」
「いや、匿うって言っても……」
言いかける僕の様子を見てか、彼女はサングラスに指をかけた。
「大丈夫、怪しい者じゃないわ。ほら……見て」
少しだけサングラスをずらして覗かせたその瞳に、僕は思わず息を呑んだ。
その瞳は、美少女とも美人とも形容しがたい、誰もが目を奪われる魅力に溢れていた。
「ねっ。お願い……、行く当てがないの。それに必ず御礼もするから」
こんなふうに懇願されたなら――。
きっと、よほど困っているのだろう。女性が、こんな真夜中に男の部屋のドアを叩くリスクは計り知れない。
もちろん、それは僕も同じなのだけど。
でも、慎重な僕にしては珍しく、そのときは思ったのだ。
利用されるかもしれないリスクよりも、信用されたことの方が嬉しかった――と。
「……分かりました。ただし、少しだけですからね」
「うんっ!」
女性はこくこくと頷き、僕がチェーンを外してドアを開けると、さっと素早く中に滑り込み、内側からすぐに鍵をかけた。
ドアに手をついて、小さくない溜息をひとつ。
「ありがとう」
振り向いた彼女の服装は、春らしいデニムジャケットに、花柄のロングスカート。けれど、キャップとサングラス、マスクという完全防備のアンバランスな装いには、誰もが疑問を抱かずにはいられないだろう。
僕は部屋の電気を点けた。
「さすがにサングラスは失礼よね」
そう言って彼女はそれを外し、僕は改めて彼女の素顔と向き合うことになる。直後、試すような目を向けられた気がしたが、彼女はすぐに視線を外した。
「誰かに……追われてるんですか?」
深夜。散らかった部屋。言いたいことはいくらでもあるはずなのに、最初に出てきたのはそんな言葉だった。
「うん。ちょっと……ね」
言いにくそうにしながらも、彼女はそれ以上を語ろうとはしなかった。
ならばと質問を変える。
「さっき、鍵を開けようとしてましたよね」
「あ、そうそう。実はわたし、当面の間この部屋に引っ越すことになってて」
「……こんな深夜に入居ですか?」
「こんな深夜だからこそ、なの。ちょっと事情があって。でも、結果的には良かったわ」
「でも、部屋を間違えてたわけですよね。良くなかったんじゃ」
「そうかも。でも……とりあえずは良かったみたい」
彼女が言う“とりあえずは良かった”の真意は分からないが。試しに気になったことを訊ねてみる。
「ちなみに、住所はどこですか?」
「これよ」
彼女がスマホを差し出してくる。表示された住所は――
なるほど、そういうことか。
「……ちょっと見てもらえますか」
僕はスマホの地図アプリを開きながら、住所の表記を指差した。
“○○市桜町三丁目十二 アメニティコーポ203”——それがこの部屋の住所。
一方、彼女が見せてきた紙に書かれていたのは、
“○○市東桜町三丁目十二 アメニティコーポ203”。
「……ほんとだ。ちょっと違う」
彼女は目をぱちくりさせてから頷いた。
その顔に、悪びれた様子や策略めいたものは感じない。ならこれは事故だ。到底怒る気にはなれなかった。
夜も遅い。状況もよくわからない。
しかも、彼女はさっきからどこか落ち着きなく、たまにドアの方を振り返っている。追われているというワードが引っかかったが話したくもなさそうだ。
「……とにかく、間違いってことでいいんですね?」
「うん……」
そう言ったあと、彼女のバッグからバイブ音が聞こえてくる。電話のようだ。彼女はごめんねと断りを入れると小声で電話に出た。
「うそっ。じゃあそっちに行ってたら待ち伏せされてたってこと?」
よほど驚いたのか一瞬声が大きくなったが、すぐにまた小声で話し始める。
待ち伏せなんて、また物騒なワードだ。
僕は言葉に詰まった。
何がどうなっているのか詳細は不明だが、少なくとも彼女が本気で困っているのは確からしかった。
この時間に、ひとりで放り出すわけにもいかない、か。
つまり僕的に詰んでるというわけだ。
「……わかりました。とりあえず今日は泊まっていってください」
「ほんとにっ?」
ぱあっと顔を明るくして、彼女はぴょんと立ち上がる。
「ちなみに、お腹は空いてますか?」
「え? ううん、空いてない」
首を横に振る彼女に「着替えは?」と、続けざまに問いかける。するとボストンバッグを抱きかかえ、「何日間かは大丈夫」だそうだ。
「じゃあ——ちょっと待っててください」
僕は立ち上がると、給湯パネルのスイッチを入れた。
今日はシャワーを浴びただけ。風呂は昨日洗ったままのはずだ。
「お風呂、沸かしておきます。入ってる間にあなたの布団をここに敷いておきますから。飲み物とかは冷蔵庫にあるんで、ご自由にどうぞ」
「……えっ。いいの? えっと――」
「小野寺です」
「そっか。小野寺くんってすごく優しいのね。あ、私は脇坂、脇坂瑠香っていいます」
名前を名乗った瞬間、また窺うような目を向けてきた気もするが、よく分からないからリアクションの取りようもない。まあ追われてるくらいだから有名人なのかも知れないが、良くない方の可能性を考慮すれば今すぐに調べようとも思えない。
「そうですか。……じゃあ、おやすみなさい」
「うん、……おやすみ」
廊下に向け歩き出した僕は自分の部屋へと戻る。
背後で、風呂が湧き始める音が、かすかに響いていた。
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