第8話 恢復
近所のお寺で座禅会が開かれているのを知った。「悟り」という状態に興味があった。
一切の苦悩を取り去ることができるのだとすれば、うつ病と悟りは対極に位置するような気がする。妻と付き合い始めた頃、夏の夕暮れの寺で座禅をしたときの静けさ、涼しさ、あの感覚が心地よかった。一回の座禅で悟りを開けるわけがないのだが、とにかく微かな興味が惹かれ、行ってみることにしたのだ。
朝6時。体は重いが、久々に興味が出たことだ。無理を押して家を出る。
自転車を走らせ、寺へ向かう。風が涼しい。道路を行きかう人も車もまだ少ない。夏の朝に自転車で疾走するこの瞬間、うつ病特有の朝の重苦しい倦怠感がなければ、最高だろうに。昔、自転車に乗って、遠くまで行くのが好きだった。夏の夜明け前から家を出発し、朝の街を走る。それがとても好きだったことをふと思い出した。
寺に着くと、既に8人ほど集まっている。住職から説明をいただき、座禅が始まる。
丸く盛り上がったボールのような形の座布団に腰掛け、壁に向かってひたすら座禅を行う。―只管打坐。ひたすら座禅に打ち込むこと。何も考えず、ひたすら壁に向かう。
静かな時間が流れる。簡単に無になれるわけではない。うつ病者の自分は、煩悩というより、自傷的な感情と戦わねばならない。
「妻が家事・育児を一人でする中、一人呑気に座禅なんていい気なものだ。」
そんな感情が流れる。雑念から意識を離し、呼吸に意識を戻す。
「自転車を朝から飛ばして元気なものだ。そんな元気ならとっとと会社に復帰して、今までの迷惑を取り返した方がいいのではないか。」
意識を呼吸へ戻す。その繰り返し―。
取り払っても取り払っても、ハエのようにつきまとうこの思考。自分自身の声なのに、自分自身が最も望まない、呪詛のような言葉。この言葉と距離を取らないといけない。
意識が少しずつ奥へ引っ込み、眠る前の微睡みのような感覚が前に出てくる。望ましい状態なのかはよく分からないが、そのまま眠ってしまいそうなこの感覚が心地よい。
これでいい。そう、これでいいのだ。
座禅の後、おかゆをいただく。永平寺の僧たちは、数百年の昔から長い時間を自身の修行に取り組んできた。ほんの数時間の修行ではあったが、自分自身のために、自分自身に向き合うこと、そのために自分自身の時間を使うこと、それはかけがえのないことだと感じた。四十年近く生きてきて、自分と向き合うことって、そういえばあまりなかったように思う。
認知行動療法というものも、独学であるが始めた。物事の心の受け止め方を正す方法だ。ある出来事にショックを受けたとする。それには完璧主義や、ネガティブな物事の捉え方が影響しており、それを内省し、考え方を変えることで、自分
の精神へのダメージを緩和していく方法である。手帳に何か辛いことがあるたびに。出来事と、それよって受けた心境、ゆがんだ考え方と、それを正した時の感情を書き留めた。意外と単純な仕組みだ。ただ、単純な技術や、仕組みで、高尚なる(そう考えていた)人間の思考というものが変わっていくのだから不思議なものだ。テクニックで
人格が変わることに違和感を感じつつも、ストレスの多い現代社会において、必要なものなのかもしれない。
復帰は近い。そんな予感がする。働いていた日々が戻ってくる。それはどういうことなのだろうか。出世は遅れた。以前のように無理はできないだろう。それでも生きていく、それはどういうことなのだろうか。まだその結論は出せていない。
ただ、この1年の日々で失ったものも大きいが、得たものもある。そんな気がしている。自分の中でそれが整理できていないが、それを探しながら、とにかく働けるようにしていこう。
職場復帰は、季節が夏から秋に入る頃のことであった。
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