第5話

 気づいたときには〝白〟の中にいた。


 何も見えない。真っ白な景色が広がっていることしか認識できない。


 現実感のない光景にしばらく思考は止まったままだった。


 少しして、今、自分が立ち尽くしていることを認識したあとは、つま先から痺れがとれるよう徐々に感覚が戻ってくるのを感じた。


 そのあと〝ここがどこなのか〟を特定するために〝何をしていたか〟を必死に辿った。


 ――駅で――電車を待っていて――スマホを落として――腕を――。


 記憶を辿ってもなぜ、今、自分がここにいるのかがわからない。


 次に状況を確認しようとスマホを探すが〝落とした〟という記憶が探し回る手を落ち着かせた。スマホはおろか、持っていたはずの鞄すらなくなっている。


 辺り一面が真っ白、現実感の薄い空間にぽつりと一人。一見、ここが天国か何かで、〝私は死んでしまったのでは〟とさえ連想させた。


 今の状況に対する答えの一つ。


 自身の死とはけして簡単に受け入れられるはずがない。


 しかし、――死んでしまったのでは。


 それが、そんな答えが、あまりにも何とも思わなかった……。


 悲しい、とか、辛い、とか、後悔が、どこにも。それどころか、嬉しい、とか、安堵すらなかった。本当にただ、そうであるならそうなのだと。それだけ。


 ここがどこなのか、辺りを探るために歩き出してみた。


 辺りに広がる白は霧のように見える。動きのないように見えるが、ゆっくり動いているようで、少し目を凝らすと、濃い所、薄い所の濃淡(のうたん)もあった。


 あてもなく、気まぐれに薄靄(うすもや)の方へ歩いていると、しばらくして電柱らしき人工的な形を見つけた。人工物、ただ馴染みあるものを見つけただけで一気に現実感が増す、と、同時に安心感も湧いた。


 自分の生死より、まず、ここがどこなのか、ということの方が私には重要らしい。


 それから等間隔で配置された電柱らしき柱を辿ることにした。柱から柱へを繰り返すと、どこか懐かしさを思い出してしまう。実家の田んぼ道、何もない道の遊びに電柱を目印にごっこ遊びをしていた。


 人の気配がないことに少し慣れた辺りからは、ヒールを脱いで、ストッキングも丸めてポケットに突っ込んだ。


 暇を潰すように、少し駆けてみたり、大股で歩いてみたり、歩数を数えてみたり、次の電柱まで息を止めてみたり、下手なスキップの練習をしてみたり。昔みたいな空想は浮かばなかったけれど、裸足が気持ちいい。


 霧の奥、淡い灯りに照らされた建物を見つけた頃、足は棒になっていた。


 人気を感じると急に体裁が気になり、裸足を庇った。疲れを感じるほどの距離を裸足で歩いたというのに怪我や傷はどこにもない。靴を履こうと、ヒールを手に取り、足の裏を払ったが砂粒一つすら付いていなかった。


 人はいるのだろうか、なんと声をかけようか、などと頭を巡らせながら近付いていく。


 人家だと思っていた建物はどうやらお店みたい。お店なら声をかけ易いと少し安堵する。ふと、建物を見上げると『口入屋』と古めかしい看板が入口の上部に掲げられていた。格子戸の入り口の両隣には紙の燈(とう)籠(ろう)がぼんやりと暖かい明りを灯している。


 『口入屋』とは、と疑問に思ったが、きっと昔の名残やデザイン的なものだろうと結論づけた。


 それにしても何屋さんなのか全くわからない。古風で古めかしい外観からはお蕎麦屋、お寿司屋、和菓子屋さんみたいにも見える。そうであればおいしい。いや、うれしい。


 昔、似たような佇まいの和菓子屋さんが実家の近所にあったのを思い出した。


 小さい頃、よくお使いを頼まれた。お菓子を包んでもらっている間、ジュースとお団子を出してもらって食べるのが私の特権。お店の人は、小さい私に対しても大人と同じように、「ありがとうございます」と言ってくれる。それがなんだか嬉しかった。一つ一つを手作りしたお菓子は柔らかくて、甘くて、とても幸せな味がした。以来、私は甘いものには目がない。


 なんて名前のお店だったろう。名前もどこか似たような……。


 っと、財布がないことを思い出し、残念な気持ちになりながらも本来の目的に立ち返る。


 深呼吸をして、身なりを整えて、声の調子を整えるために喉を……。


 んっ……ん? んんっ! ……っえ?


 声が……出ない。


 ――音が聞こえない。


 そこでようやく思い出した。


 私の最後の記憶に音はなかったのだ。

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