心春のばあば

日光唯衣

第1話 日展

「え? ダメなの? なんで?」

 静寂したロビーに母の声が響き渡った。その声の大きさに我に返った母は、左手でスマホを覆いながら小さな声で「わかった。じゃぁ、またね」と言って電話を切った。

 わたしと雫は「何事?」と訝しげな顔をしながら母に視線を向けた。ため息まじりに肩を落とした母は「ばあばに怒られた」と不満げに呟いた。


 わたしは瀬戸心春せとこはる。進路に迷っている高校3年生である。「とりあえず大学に進学して、4年かけて自分の適性を知ればいいか」と呑気に考えている。「そろそろ進路を決めないといけない」と思っていた去年の秋に、大阪に住んでいる祖母が日展で特選を受賞したと連絡があった。

 身内の快挙は嬉しいもので、わたしは翌朝、同じクラスのしずくに自慢気に祖母の話をした。

「えー!日展で賞を取っちゃうなんて、心春のばあば凄いじゃん!わたしもばあばの絵が見たいなー」

 カバンを机に置いて教科書を引き出しにしまっていた雫に、わたしは「ねー、ビックリしたよー」と返事をした。

 雫は同じマンションに住む幼馴染だ。祖母とも小さな頃から面識があり、「心春のばあば」と呼んで慕っていた。わたしと雫が生まれた頃には祖母はすでに絵を描いていて、公園で遊ぶわたしたちの傍でよくスケッチ画を描いていたし、わたしたちをモデルにした絵も描いている。祖母が絵を描いていることは周知の事実なのだ。

「じゃぁ、雫も見に行く? 国立新美術館で展示してるんだって」

 わたしが気軽に誘うと雫はニカっと笑い、「もちろん!!」と大きな声で言った。

 日展は日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書と5部門に分けられていて、世界でも類をみない総合的な美術公募展だ。日本で最も歴史がある美術展なので規模も大きく、日本で最大級なのだという。毎年11,000点を超える応募があるそうだ。

 芸術大学に進学して美術を学んだわけではないド素人の主婦が、日展で特選を受賞するのはかなり難しく、まさに祖母の受賞は奇跡に近い快挙だった。

 その年、わたしと母、雫と雫の母の4人で日展を見に行った。会場入り口付近に展示された祖母が描いた写真のように精密な油絵の前で、「きっと心春のばあばは、若い頃から絵の才能があったんだね」と雫が雫の母に囁いていた。2人が目をキラキラさせて「すごい! すごい!」とはしゃいでいる横で、わたしと母は誇らしい気分に浸りながら特選を受賞した祖母の絵を見つめていた。


「ねぇ、心春のばあば、今年は日展に出していないの?」

 雫は年に1回開催される日展の時期を覚えていたようだ。尋ねられたわたしはドキッととして少し焦った。

「出してるよ。今年は賞が取れなかったんだって」

 平静を装って答えたが、隠し事がバレた気分だった。昨日、母から「ばあば、今年はダメだったんだって」と聞いていたからだ。

「そうか、残念だったね」

 肩を落とした雫は本当に残念そうに見えた。わたし以上に祖母の受賞を期待していたのかもしれない。連続して毎年賞が取れるような美術展じゃないと知っていても、身内びいきで期待してしまうものだ。

「賞は受賞していないけど、ばあばの絵は展示されてるよ。見に行く?」

 雫は顔を上げ、「うん、行きたい!」と笑顔になった。

 週末、わたしと母、雫の3人で国立新美術館に祖母の絵を見に行くことになったが、雫の母はパートが休めなかったらしく「楽しんできてね」と送り出してくれた。

 週末ということもあり、来場者が多い。国立新美術館では日展以外の展覧会が開催されているので、まずは日展会場を探し、それから部門別に分かれている洋画会場を探す。洋画会場に辿り着くと、キョロキョロと「ばあばの絵はどこかなぁ?」と探した。

 日展会場は油絵が展示されている洋画の会場を回るだけでも疲れてしまう広さだ。特選を受賞した去年は会場の入り口付近に祖母の絵が展示されていたので見つけやすかったが、今年は賞を受賞していないのでそうはいかない。

「ぐるっと回って探すしかないね」

 どの辺りに展示されているのかがわからないので母が先頭に立って誘導した。

 去年もそうだったが、入り口付近には受賞者や先生方の作品がずらりと並んでいて、いわば展示会の花形スペースなのだ。来場者が止まって絵を見ているので渋滞が起こる。作品の解説をしている人の前は人だかりで賑わっていた。

「先生かな?」

 雫はわたしに小さく耳打ちした。わたしは古事記の神話をモチーフにした作品の前で足が止まった。

「先生たちの絵は、やっぱり圧巻だね」

 ため息まじりに呟くと、「これ、ばあばの先生の絵だ」と母が言った。

 祖母の絵を探しながら会場を巡る。11,000点を超える応募の中から厳選された作品が並んでいるといっても花形スペースから離れるにつれ、展示されている絵は徐々に精細さが欠けていく。やはり実力の差が浮き彫りになるようだ。時折引き込まれるように目に留まる作品もあるが、そういうのは過去の受賞者の作品だったりするのだろう。

 1点1点をじっくり見るのに疲れてくると、わたしは他の来場者の様子が気になった。

「○○さんの絵、今年はいい線までいったらしいね」

「惜しかったのにね」

 井戸端会議のように集団化している人たちから噂話が聞こえてくる。「いい線までいった」というのは内部事情なので、それを知っているということは一般の来場者ではない。きっと花形スペースの先生から教わっている集団なのだろうと思った。

 日展のような由緒ある大きな美術展の審査基準は良くわからないが、「音楽や美術のように数字化できないものの採点には私情も渦巻くし、政治活動も必要になる」と美術の先生が言っていたので、期末テストのように単純な採点方法ではないのだろう。それゆえに噂話は大きく育っていくものだ。

 井戸端会議の脇をすり抜け、行き止まりのコーナーを曲がると、雫が「こっちだよ」と手招きをした。

「心春のばあばの絵、あれじゃない?」

 雫が指さす絵の下にネームプレートがあり、「田坂澄たさかすみ」と祖母の名前が記載されていた。母は雫と合流していたが、祖母の絵の前には男女の来場者が陣取っていて真正面から絵を見ることができない。雫が「どいてくれないかな」と口パクでふざけて言った。

「わたしね、この絵を見るのは3回目なの。昨日も見に来たのよ」

 祖母と同じくらいの年齢の女性の声が聞こえてきた。彼女は絵の中の風景に溶け込むような視線を送っている。

「とても精密な絵ですね。まるで写真みたいだ」

 一緒にいた男性は感嘆のため息をつきながら絵に見入っていて、わたしたちには気づいていない。「それ、ばあばの絵なんです」と言いたげな表情を浮かべて立っていたわたしたちだったが、母が抜け駆けして「あの……、ありがとうございます。それ、母の絵なんです」と言った。

 母は祖母が絵を始めた頃の「本当にヘタクソだった」という絵を知っている娘として、女性の言葉が嬉しく、祖母の努力が誇らしくてたまらなかったようだ。

 女性がビックリした様子で振り返り、それに倣って男性も振り向いた。

「そうなの、娘さん……、わたしね、この絵が好きなの。この絵を見ていると涙が出てきて……」

 女性は涙ぐみ、わたしはギョッとして「だ、大丈夫ですか?」と慌てて声を掛けた。「大丈夫よ、ありがとうね」と女性は微笑み、2人は軽く頭を下げてその場を後にした。

 呆気に取られたわたしたちは、それぞれの胸に今の出来事を刻みながら祖母の絵を無言で見つめた。

 その絵は賞を受賞していない絵だ。花形スペースでもない会場の端っこにひっそりと展示されている絵なのだ。写真のように精密な都会の風景画に彼女は何を思い、なぜ涙したのだろうとわたしは思った。

 見ず知らずの祖母が描いた風景画は彼女に何度も見たいと思わせる力があった。彼女の涙が意味するものは彼女にしかわからないが、その絵の何かが彼女の心の琴線に触れたのだ。

「ねぇ、心春ママ、このこと、ばあばに知らせようよ」

 雫が静かに提案した。目にした出来事に雫の心も動いたのだろう。

 わたしも祖母に「ばあばの絵は賞なんか取らなくても、見た人が涙するくらい、心を動かす力がある絵だよ」と伝えたいと思った。母も同じ想いだったようで「そうね」と頷き、わたしたちは会場を後にした。

 母はたった今起きた出来事を祖母に伝えるために静かなロビーで電話をした。

 その結果、「もう!そんなところでそんな話しないで!誰が聞いてるかわからないんだから!」と、母は電話口で祖母に怒られたのである。

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