波のうた

増田朋美

波のうた

その日は、冬とは思えない暖かい日で、なんだか本来は寒いはずなのに、これでいいのかなあと思われる日であった。そんなときには必ずと言っていいほどなにか起こるものである。どこかの外国では、嫌われている人物が大統領になって、大騒ぎをしているらしいし、世の中はどうなってしまうのか、検討もつかないのである。

その日。御殿場駅近くにある、小久保法律事務所では、弁護士の小久保さんが、事務所の受付のおばさんと一緒に事務所内を掃除していたところであった。さてそろそろご飯にしましょうかと小久保さんが言うと、いきなり、小久保法律事務所の玄関ドアを乱暴に叩く音がした。ちなみに、法律事務所では、誰でも依頼に来てくれるように、「こくぼほうりつじむしょ」とひらがなで書かれた貼り紙をしてある。日本の識字率は極めて高いと言われているが、実際はそうでもなく、読み書きができない人は、一定以上いることを知っているからであった。

「はいはい。どなたですか?そんな乱暴にドアを叩いて。」

と、小久保さんが言うと、

「僕だよ。この叩き方でわかるだろ。」

という声がしたので、小久保さんもすぐに誰だかわかった。

「ああ杉ちゃん。なにか相談でもありますか。寒いだろうからお入りください。」

小久保さんがそう言うと、がちゃんとドアが開いて、杉ちゃんと、一人の女性が一緒にやってきた。その女性は、おばあさんではあるのだが、なんだか年齢が不詳というか、そんな感じの女性なのである。

とりあえず、小久保さんは、車椅子の杉ちゃんをテーブルの前につかせ、女性に椅子に座ってもらうように言った。どうもすみませんと彼女が椅子に座ると、事務員のおばちゃんが、彼女の前にお茶を置いた。

「えーと、彼女は、富山彩さんだ。何でも、小久保さんに相談があるそうで、それで僕が連れてきたんだよ。」

杉ちゃんが彼女を紹介すると、

「富山彩さん。まず年齢を教えてください。」

と小久保さんが聞いた。

「83歳です。」

と彩さんは答える。杉ちゃんはすぐに、

「あれれ、そんな年には見えないな。」

という。小久保さんも、顔を一度タオルで拭いて、

「そうですね。確かに80代とは到底思えませんな。」

と、彼女に言った。

「ありがとうございます。」

彩さんは、素直に言う。

「それでは、今日は相談があるということですが、例えば借金問題とか、そういうことですか?それとも離婚問題とかですか?あるいは、あまりこういう相談は聞いたことがないんですけど、刑事事件に巻き込まれたのでしょうか?」

小久保さんがそう言うと、

「はい。実は、借金問題でも離婚問題でも刑事事件でもないんですよ。そういうことではないので、もしかしたら弁護士の先生にも話をしても意味がないと思ったのですが、杉ちゃんさんが、ここの弁護士の小久保哲哉さんであれば、なんとかしてくれるのではないかというものですから。」

と、彩さんは申し訳無さそうに言った。

「そうですか。それでは一体なんの相談で家の法律事務所に来たんですか?」

小久保さんがそうきくと、

「マイナンバーカードだよ。それを作ることができなくて、それで困ってるから一緒に来たんだ。」

と、杉ちゃんが言った。

「あれ、本人ではないと作れないじゃないか。よほど寝たきりの人でもない限り、本人が、申請に行かないとだめだろう?彼女はそれができないので、そういうことなら弁護士の先生になんとかしてもらったらどうかなって思ったわけ。」

「そうですね。基本的にマイナンバーカードは、本人が市役所などに申請に行かなければならないことになっています。それができない方は、インターネットなどで作ることが可能なはずですが?」

小久保さんが一般的なことを言うと、

「だからそのインターネットも彼女には使えないので、それでなんとかしてほしくてお前さんのところに来た。」

と、杉ちゃんは言った。

「インターネットも使えない。パソコンやスマートフォンをお持ちではないのですか?」

小久保さんがそうきくと、

「はい。持ってません。スマートフォンならあるそうですが、それも、竜宮城で40年過ごしたやつにはわからないよ。」

と、杉ちゃんが答えた。

「確かに、お年寄りでスマートフォンが使えないという方はいますけど、竜宮城で40年ということは、なにか施設に隔離された生活を送っていたのですか?」

小久保さんはそう恥ずかしそうにしている彼女に言った。

「もう、小久保さんも鈍いねえ。竜宮城って言ったらあそこだよ。それに、どんなに重い病気であっても、40年も隔離するようなことは、今の医学ではしないでしょう。それが通用しないってことは、あそこしかないじゃないか。ほら、ほら。感じたり、思ったりするところが病んでしまう人が行く所。」

杉ちゃんが苛立ってそう言ったので、小久保さんは、やっと富山彩さんが、長年精神病院に隔離されていた生活を送っていたんだなと言うことを知った。

「それで、病院の一部取り壊しがあって、やっとお外へ出られるようになったんだって。だけど、彼女の話だと、入院する前は黒電話があったのに、いきなりスマートフォンだ。そんなの、使いこなせると思うか?それだけじゃないぞ。銀行のATMもできない、電車の切符も買うことができない。最近ではセルフレジを操作ができなくてパニックしてしまったそうだ。そんなやつが、一人でマイナンバーカードを作りに行けるか?だから、手伝ってやってほしいんだよ。頼む、この通り!」

杉ちゃんが小久保さんに頭を下げると、彩さんも頭を下げて、

「お願いします。」

と言った。小久保さんは少し考えて、

「お話はわかりました。いずれにしても、今年の間中にマイナンバーカードは作らなければなりませんから、早速申請にいきましょう。先程も言った通り、インターネットでも申請ができるようになってますから、難しいことではありませんよ。」

と優しく言った。

「ありがとうございます。それで相談料っていくら位なんですか?」

と彩さんがいうと、

「そんなものは後々。それより、強い味方ができたんだから、善は急げで、早速申請に行こう!」

と、杉ちゃんが言った。

「まず初めに、いきなりノコノコ行っても意味がないと思いますので、オンラインで申請書をダウンロードする必要がありますね。スマートフォンを持っていますか?」

小久保さんが聞くと、彩さんは、ハイと言って、スマートフォンを取り出した。

「それで、Webブラウザを開いていただきまして、マイナンバーカード申請などと検索してみてください。」

彩さんは、Webブラウザとはなんですかというので、小久保さんは、Webブラウザのマークを指で示し、それをタップするように言った。しかし彩さんは、タップすらわからない様子だったので、杉ちゃんが彼女の手を取って、webブラウザのマークをタップさせた。

「こういうのをタップと言うんだ。こうしてアプリを押して起動させることを言う。そして、検索欄はここの虫眼鏡のところね。そこに、マイナンバーカード申請と入れてみてくれ。」

彩さんは、四苦八苦して、どうにかマイナンバーカード申請と打ち込んで、検索ボタンを押した。Webブラウザにはマイナンバーカードの申請の仕方を書いた、ページが出てきた。

「じゃあ、その中から、マイナンバーカード申請書を探してや。」

彩さんはわからない顔をする。

「はい。こちらですね。こちらを押していただきまして、申請書をダウンロードしてください。」

小久保さんの指示通り、彩さんはダウンロードボタンを押した。一応ダウンロード中という表示が出た。しかし、ダウンロードした申請書類がどこのフォルダにしまってあるか、を見つけ出すことができなかった。仕方なく、ファイルを保管するアプリをインストールさせて、もう一度ダウンロードさせ、今度はファイルを呼び出すことができた。

「ファイル名を、日本語で書いてくれたらいいのによ。アルファベットばっかりじゃ、どれが申請書か解んなくなっちまうな。」

と、杉ちゃんが言う通り、ファイルはアルファベットばかりだった。それをどうにかこうにか見つけ出して、開こうと思ったが、今度はそれを開くPDF閲覧アプリがないので、それをまたインストールさせて、やっと申請書を開くことができた。これを、メールで小久保さんのパソコンに送って、小久保さんのプリンターで印刷させた。この作業に、一時間以上かかった。

「やれれえ。こんなに時間がかかるとは思わなかった。色んなアプリをインストールしなくちゃならないなんて、ほんと面倒だねえ。」

と杉ちゃんがいうと、彩さんもそうですねと言った。とりあえず、申請書に、必要事項を記入してもらった。

「じゃあ、これからタクシーで、市役所に向かいましょうか。今日は水曜日ですから、やっていると思います。」

小久保さんはスマートフォンでタクシー会社に電話して、タクシーを一台呼び出してもらった。ワゴンタイプのタクシーを呼び出すにはやはり電話が良いと小久保さんは言った。彩さんは、それを見て、なんだか落ち着いてくれたようだ。

タクシーは、10分ほどしてきた。運転手さんに手伝ってもらって、まず杉ちゃんを後部座席に乗せ、小久保さんと、彩さんもタクシーに乗る。運転手さんがどちらまでと聞くと、小久保さんは、市役所までお願いしますと言った。

市役所は、街のど真ん中にある。それはどこの街でもそうだろう。でも、誰にでも使える場所なのかと聞かれたら、それはそうではないようである。とりあえず、杉ちゃんたちは、市役所の前でタクシーからおろしてもらった。そして市役所の入口へ入ろうとしたが、市役所の入口は、エスカレーターで入る形になっていて、杉ちゃんのような人は入れない。仕方なく警備員さんに背負ってもらって、市役所の中に入らせてもらうはめになった。その時も、周りの人達は、杉ちゃんたちを可哀想にというか、自分はああならなくて良かったなというような感じの顔で見ている。終いには杉ちゃんのほうが怒りだして、

「もう!僕達は見世物ではないぞ!」

と言ったくらいである。

とりあえず、エスカレーターは警備員さんに背負ってもらうことでクリアできたが、続いて杉ちゃんたちは、マイナンバーカードを作る市民課へ行くことになった。そこへ行ってみると、半券を取って、順番に呼ばれるのを待つ仕組みになっているのだが、彩さんはその半券を取るということを知らないで、待合所に座ってしまうので、小久保さんが、代わりに半券を取り、彩さんの番を待つことにした。しばらく待って、番号札30番の方という放送が流れたが、彩さんは自分が30番であるということもわからなかったようだ。小久保さんが30番と呼ばれていきましょうと行っても、なんだかわからないという顔をしていた。小久保さんは、30番という番号で呼ばれているのは彩さんであると説明し、3人は、手続きをする、市民課の窓口へ行った。

「えーと、マイナンバーカードの申請をお願いします。申請書は、オンラインでダウンロードしたものがこちらにあります。それではお願いします。」

と、小久保さんは、彩さんが書いたマイナンバーカードの申請書を見せた。

「お二人は、ご家族の方ですか?」

窓口の人はそういう。

「いえ違います。彩さんの代理人で、弁護士の小久保と申します。そしてこちらは、」

「僕杉ちゃん。彩さんの親友だい。」

杉ちゃんと小久保さんがそう言うと、

「それでは、マイナンバーカードの申請には本人の顔写真が必要になりますので、それを持って来てください。」

と、窓口の人はそういった。

「はあそうか。じゃあ、写真をどうやってとれば良いんだ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。お持ちのスマートフォンなどで写真を撮っていただくか、それだけではなく、4階に証明写真機がございますので、4階に行って、写真を撮ってきてください。」

と窓口の人はそう冷たく言った。

「それなら、4階までどうやって行くのか教えてやってくれ。彼女は、エレベーターの使い方も知らないんだ。」

杉ちゃんがそう言うと、窓口の人ははあという顔をした。

「ありえないじゃないんだよ。現にそういう人間がいるんだから、それを手伝って上げてよ。」

杉ちゃんが言うと、窓口の人は更に変な顔をする。

「そんな顔をしないで早く行動に移せ!」

「なんですか。人に命令するなんて、」

窓口の人がそう言うと、

「いいえ、障害がある人にも合理的な配慮をしなければならないのは法律で決められています。彼女は、40年間精神科に隔離されていて、その間の世の中の動きなどは全く知らない。だから、エレベーターの使いかたも知らないで当然です。手伝って上げてください。」

と、小久保さんが言った。窓口の人は、小久保さんに言われたらたまらないという顔をして、窓口から出てきて、杉ちゃんたちをエレベーターのあるところへ連れて行った。そして、3人と一緒にエレベーターに乗り、4階へ連れて行ってくれた。4階には確かに、証明写真を取る機械があって、そこで写真が撮れるようになっていた。彩さんは、その使い方さえ知らなかった。まず、写真を撮るお金を入れて、彼女を椅子の上に座らせて、画面にある枠に顔を入れてもらうようにして、機械の合図に合わせて写真を撮る。こんなことは、普通の人であれば、すぐできてしまうかもしれないが、彩さんには全く初めての経験で、どうしたら良いのかわからないという顔で、写真が写ってしまった。変な顔で写ってしまっている彩さんの写真は、なんだか彼女の状態を象徴するようだった。

「はい写真がとれましたね。じゃあ、また2階に来ていただいて、お手続きの続きをさせていただきましょう。」

小久保さんがそう言うと、窓口の職員は、また整理番号を取って椅子に座ってくださいといい、そそくさと逃げるように、2階に戻ってしまった。杉ちゃんたちは、ちょっと年を取った警備員に手伝ってもらいながら2階に戻り、また半券を取って、2階の待合室で待つ。またしばらく待って、番号で呼び出されると、今度の窓口の職員は、ちょっと年配の女性だった。今度は、冷たい表情をされることもなく、マイナンバーカードの手続きをすることができた。大変面倒くさい作業が続いたが、必要事項を書き込んで、顔写真も提出する。これだけでも大変時間がかかるものだが、今度の係員は何も文句を言わずに手伝ってくれた。そして、完成したマイナンバーカードは、郵送で、彩さんの自宅に届くということになった。

「ありがとうございました。」

三人は丁寧に挨拶した。

「いいえ、またなにか困ったことがあったら来てくださいね。」

優しい窓口の職員だった。そういう人が市役所の職員になってくれればいいのになと、杉ちゃんも小久保さんもそう言い合った。取り合えず、手続きは済んだので、杉ちゃんたちは帰ることになった。

小久保さんたちは、まっすぐ事務所へ帰るつもりであったが、杉ちゃんのほうが、いきなりちょっと、海でも眺めていかないかと誘った。杉ちゃんという人は、必ずこうして余計なことをするんだと小久保さんは言ったが、威圧的な、窓口職員と対峙して、疲れてしまっていたので、一緒に行くことにした。

行き先を変更して、杉ちゃんたちのタクシーは田子の浦みなと公園に到着した。運転手に手伝ってもらって、タクシーを降り、港公園を歩いて回った。ちょうどいいお天気で、富士山もよく見えていた。

「いやあやはり、富士山は素晴らしくよく見えますな、ここは。」

小久保さんがそう言うと、

「でしょ。僕も不条理とか、窮屈とか、そういうところにぶち当たると、ここへ来たくなるんだよ。」

杉ちゃんがそういった。

「ここは波のうたが聞こえるんですね。富士山に、波のうた。本当に美しいわ。きっと、人間には作り出せないうたなんでしょうね。」

と彩さんが言うのだった。小久保さんはなるほどねと思った。そういうことを感じられる彩さんは、他の人にはない感性を持っているのだろう。だけどそれが、社会には適合することができなくて、精神病院に、40年も閉じ込められてしまったのだ。

「そうだなあ。まあ、誰にも作り出すことのできない、富士山と海の名物だ。」

杉ちゃんも彩さんに合わせていった。彩さんはしばらく波のうたと、富士山を感じていたいと言った。そこで二人は黙って彼女がそうなれるように待ってあげた。そういうことができる杉ちゃんと小久保さんも、別の意味で、また普通の人とは違うんだろうなと言うことがわかった。

やがて、海風が吹いてきた。昔は、ものやお金などに執着する地の時代と呼ばれていた時代だったという。今は、そうではなく心や他のものに視線を向ける風の時代。どんな時代になっても、海や風は変わらない。変わるのは、人間が作ったものだけだろう。彩さんが適応できなかった、スマートフォンやエレベーターなども、結局は人間が作ったものであるが、すべての人が使えるようになっているとは限らないと小久保さんはなんとなく感じ取った。

「結局、いろんなものがあるけれど、すべての人の使いこなせるようにはならないんですね。必ず誰か使えない人が出る。そうならないものを作り出すのは、まず、無理なんでしょうね。」

「ホントだなあ。」

小久保さんが小さな声でそう言うと、杉ちゃんもそれはすぐに肯定した。彩さんの方を見ると、よほど風に吹かれて、あるいは波のうたを聞いて気持ちがいいのか、市役所で見せたときとは偉い違いの表情をしていた。そういう表情で過ごしてくれれば良いのだが、それは無理な話だった。

やがて、日差しが少し傾いてきた。

「彩さん、帰ろう。」

杉ちゃんが言うと、

「ああ、ええ。長居してごめんなさい。」

と彩さんはそう言って帰り支度を始めた。小久保さんはまたタクシーの待ち賃が増えるなあと思いながら、杉ちゃんといっしょに、タクシー乗り場に戻っていった。彩さんはそれについてきた。またもう一度波のうたを聞きたいという、美しい表情をして。

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波のうた 増田朋美 @masubuchi4996

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