気づけない苦しみ1

 オリエンテーションが終わって、二週間。夜八時頃、自室で勉強していると私のスマホに菅谷くんから連絡が入っていた。

 オリエンテーションで班になった時に四人で連絡先を交換したが、グループで連絡を取ることはあっても菅谷くんから個別で連絡が来たのは初めてだった。


「俺、病院に行こうと思う」


 その一文を送るのにどれだけ勇気がいったのだろう。私では想像もつかないほど悩んだに決まっている。

 なんて返すのが正解か分からないまま、私は「そっか。話を聞くことは出来るから、いつでも頼ってね」と文字を打っていく。私はそのまま送信ボタンを押そうとしたが「頼ってね」を最後に「頼ってほしい」に変えて、送信ボタンを押した。

 そんな小さな語尾の違いなんて何も変わらないことは分かっている。それでも、「頼ってほしい」と思ったのだ。菅谷くんの力に少しでもなりたかった。

 しばらくして、スマホがピコンっとなった。私はすぐにスマホを開いた。


「ありがと。今週の土曜日に病院に行くからまた連絡するかも」


 私はなんて返すかしばらく悩んだが、無難な「OK」と書かれているスタンプを送った。だってきっとどんな文字を送っても、今の菅谷くんを助ける言葉はかけられない。この後また私に連絡するかは菅谷くんが決めることだ。

 私は机にスマホを置いて、勉強を再開した。


 その週の土曜日は朝からどこか落ち着かなくて、スマホを何度も開いてしまう。

 時計の針が11時半を過ぎた頃。菅谷くんからメッセージが入った。


「頻発性哀愁症候群だった」


 その短い一文を見ただけで、私は息が苦しくなるのが分かった。

 言葉は見つからないのに、菅谷くんの話を聞きたくて……ただの私の自己満足かもしれないと分かっているのに気のきいた言葉を探してしまう。

 それでも言葉が思いつかない。菅谷くんが今、何を考えているのか分からない。何を感じているのか知らない。

 既読をつけたまま、しばらく返信を返せない私より先に菅谷くんから次のメッセージが届く。


「川崎さん、今何してる?」


 菅谷くんの言葉の意図が分からないまま、私は「家でゆっくりしてた」と返した。


「今から川崎さんの家の近くに行ったら、会える?」


 空気が読めて、周りを気遣ってばかりの菅谷くんが「急に会いたい」と誰かに言うことは珍しいだろう。それほどまでに今は苦しいのだろうか。

 私はすぐに「会える」と返して、家の近くの公園を集合場所に指定した。

 菅谷くんが来るまでまだ時間はかかると分かっているのに、私は気づいたらすぐに家を飛び出していた。


 公園につくと、日陰に置かれているベンチに座る。スマホで時間を潰しながら菅谷くんを待とうと思っていたのに、集中出来なくて画面を閉じてしまう。

 どこか心が落ち着かないまま菅谷くんを待っていると、私が思っていたより早く菅谷くんが公園に走ってくる。私はすぐに立ち上がって菅谷くんの元へ駆け寄った。


「ごめん、川崎さん!待った?」

「全然待ってないよ。走ってきたの?」

「そんなに走ってないから大丈夫」


 そんなに走っていないという菅谷くんの額や首には汗が流れてきている。きっといつも通り相手を気遣って嘘をついてくれている。

 菅谷くんは走って乱れている息を整えながら、私の座っていたベンチに腰掛ける。


「……川崎さんも座ろ。急に呼び出してごめん」

「ううん、全然」


 菅谷くんの隣に腰掛けたが、上手く言葉が出てこない。菅谷くんは少しだけ私の顔に視線を向けた後、ゆっくりと今日のことを話してくれる。


「……三日前くらいにさ、この病気のこと親に話したんだよ。両親は驚いてたけど、その日にすぐに色々調べてくれた……それで、今週末に病院に行こうって言ってくれて。今日、母親と病院に行ったら……あとはさっき送ったメッセージの通り」


 先ほどの菅谷くんからの短いメッセージが頭をよぎる。


「頻発性哀愁症候群だった」


 菅谷くんは公園を走り回る小学生を眺めながら話を続けた。


「母親は覚悟が出来てたみたいで、先生に色々聞きながらこれからのことを考えてた。それで、俺に『これからどうする?少し学校をお休みする?』って聞くんだ。何にもおかしなことは言われてないのに、なんか苦しくて……俺の方が覚悟出来ていなかったんだと思う」


 私は菅谷くんの話をただ静かに聞くことしか出来なかった。


「なんかさ、馬鹿みたいだけど俺は無理が当たり前になってたから、人に気遣われることに慣れてなくて……なんて言っていいか分からないけど、覚悟出来てたつもりだったのに……いざ病院で先生に言われたら苦しかった」


 こんなに苦しい話を菅谷くんは表情を変えずに話していく。

 それでも、菅谷くんは私を呼んでくれた。それはきっとそれだけ苦しかったということだろう。


「……ああ、これからどうしたらいいんだろうって分からないくて……気づいたら俺の症状のことを知ってる川崎さんに連絡を送ってた」


 菅谷くんが私の方を見て、申し訳なさそうに笑う。


「本当にごめんね。こんな意味分からないことで呼びだして」


 「菅谷くんが謝ることじゃない」とか「気にしないで」とか色んな言葉が頭をよぎるのに、どの言葉が正しいのか分からなくて……結局何が正しいか分からないまま、言葉を選んだ。


「私は……連絡をくれて嬉しかった……」


 絞り出した言葉が合っているか分からないけれど、菅谷くんの顔が少し柔らかくなって、そのことにとても安心した。


「ねぇ、川崎さん。川崎さんは症状が出た時、どうやって収めてる?」

「……私はお母さんに手を繋いでもらうのが一番安心する。でも高校とかじゃそんなこと出来ないから、基本的にはぬいぐるみと手を繋いでる。あと、一番は『寂しくない。大丈夫』と心の中で唱えることかな……でも、人それぞれだから菅谷くんもゆっくり自分に合った方法を探していけばいいと思う」

「そっか。ありがと」


 菅谷くんはそう言って、立ち上がった。


「今日はごめんね。急に呼び出して」


 その菅谷くんの言葉はきっと解散の言葉で……分かっているのに、心配で離れることが出来ない。


「川崎さん?」

「あ、あの!私、今日一日とっても暇だから!」


 私の勇気を出した言葉に菅谷くんは「ありがと」ともう一度お礼を言う。

 違うよ。私、何もお礼を言われることをしていない。何も菅谷くんの力になれていない。


「ごめん、菅谷くん」

「え……?」

「いや、私、全然役に立ってないから……」


 私がそう小さく呟くと、菅谷くんが私に一歩だけ近づいた。


「川崎さん、俺が一番症状が辛かった日、いつだと思う?」

「……?」

「オリエンテーションの一日目の夜、川崎さんと宿舎の庭で会った日。あの日、川崎さんがいてくれたから、あの後に部屋に戻っても眠ることが出来たんだ」


 菅谷くんはそう言って、いつもクラスの中心にいる時のような明るい笑顔を見せてくれる。


「川崎さんは役に立ってるよ。大役立ち」


 菅谷くんに元気をあげたいのに、いつも私ばかり元気を貰ってしまう。今だって、結局私が嬉しいと思う言葉を菅谷くんはくれるのだ。


「こちらこそありがとう、菅谷くん」


 言えることはお礼だけで、それが無性に悲しく感じた。

 公園を出て菅谷くんと解散した後も、その日は菅谷くんのことが頭から離れなかった。

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