狩人の詩 (4)

だんだんと握力が弱まり、弓がじわじわと下がっていく。それは、意思の力だけではどうにもならない身体の限界だった。

カタルパは、その事実を痛いほど自覚していた。自分が徐々に追い詰められている――その感覚が、まるで冷たい刃となって彼の胸を突き刺す。


目の前の剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、血を滴らせながらもなお威圧感を放ち、ゆっくりと羊歯を踏みしめながら横へと移動している。その動きには、一瞬たりとも隙を見せない獣の執念が宿っていた。



確かに、獣も深い傷を負っている。四肢はすでに十分な踏ん張りが効かず、爪を使った攻撃には精彩を欠いている――それは明らかだった。だが、カタルパが視線を鋭く注いだのは、獣の長大な牙。その牙には、傷の影響はまったく見られなかった。


「……まだ終わっていない」

カタルパはそう呟き、じっと相手を見据えた。


剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェもまた、カタルパを睨み返していた。獣の瞳には明確な本能が宿っている――この人間を倒さなければ、自分が生き延びる道はない、と。手負いの獣が持つ危険な執念。それがこの場をさらに張り詰めた空気で包んでいた。


その点では、むしろ獣が逃げようとせず、この場で決着をつけようとしているのは幸いだとカタルパは思った。手負いの獣ほど厄介なものはない。逃げようとする獣は予測不能な行動をとることが多いからだ。だが、今の剣歯獅子は違う――獣自身も「戦い抜く」覚悟を決めている。



カタルパの弓を持つ手は震え始めていた。左腕の負傷によって、弓を引く力は明らかに衰えている。威力が殺がれた矢では、剣歯獅子の厚い筋肉を貫き致命傷を与えることは難しい。


このままでは、自分がじりじりと不利になる一方だ――それは疑いようのない現実だった。だが、カタルパはその現実をただ呑み込むことはしなかった。


「絶望は愚か者の結論だ」

心の中でそう呟く。


彼は愚か者ではない。狩人として、多くの失敗や苦難を乗り越えてきた。弓矢に頼るだけでなく、自らの経験と技術、そして判断力こそが彼の最大の武器だった。



剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェが再び一歩踏み出す。その足元に落ちる血の滴が羊歯を赤く染め、葉の先に溜まる。カタルパはその光景を冷静に見つめながら、次の一手を考える。


敵は確実に疲弊している――だが、それは自分も同じだ。この戦いを制する鍵は、次の一撃にある。その一撃で獣を仕留められなければ、逆に自分が仕留められる。


「牙を使わせるな」

脳裏にその一言が浮かび、カタルパは素早く視線を巡らせた。周囲の木々、地形、足元の状態――どれもが状況を覆す手段となる可能性を秘めている。


剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、わずかに低い姿勢を取りながら、カタルパとの間合いを詰めようとしている。その動きには、次の攻撃を仕掛ける明確な意図が感じられた。


「来るか……」

カタルパは一瞬、息を止めた。


弓を引き絞ろうとするが、左腕に走る鋭い痛みが彼を苦しめる。それでも彼は諦めなかった。右手にこめた力で弓を安定させ、狙いを定める。


「最後の一撃……逃さない」


緊張が張り詰めたまま、時間が異様に伸びたように感じられる。わずかな風が羊歯を揺らし、葉の間を抜ける音が耳をかすめた。その瞬間、剣歯獅子が動いた――牙を剥き出しにし、低くうなりを上げながら一気に飛びかかる。


カタルパは反射的に矢を放つ準備をする。獣の鋭い瞳が迫り来る中、彼の精神は冷静さと極限の集中に包まれていた。



----------



「ご安心なされ、カタルパなら、確実に仕留めるはずですから」

村人はそう言いながら、再び森へ向かおうとする少年を必死に止めようとした。


「せっかく助かったのに、また危険を冒す必要はありませんぞ」

「十分戦われました。勝敗は時の運。また戦う必要なんてございません」


言葉の端々に、少年の命を惜しむような調子を込めつつも、その裏には明確な打算があった。もし少年が再び森に入り、今度は命を落とすようなことになれば、村としてどんなとばっちりを受けるか分からない。貴族の子弟――それも、どこかの領主筋の者であれば、その責任は重くのしかかるに違いない。


だからこそ、村人たちは少しでも少年を落ち着かせようと動いた。板金鎧を脱がせる手伝いをし、胴着姿になった少年を何とかその場に留めようと世話を焼く。


「どうぞ、これでも飲んで落ち着いてください」

村の女の一人が薬草茶ハーブティーを差し出すと、少年は一瞬だけ顔を上げ、軽く頭を下げて受け取った。木製の茶碗カップに口をつけ、音を立ててすすりながらその液体を飲み干す。


その一連の動作を見て、村人たちは驚いた。少年が軽くとはいえ礼をしたこと――それは、彼のような身分の者が滅多に見せない行動だった。

「本当に気が動転しているのだろう」

村人たちはそう理解した。



そのとき、村人の一人が少年の剣に目を留め、そっと声をかけた。

「その剣も預かりましょう。少しお休みになられては?」


少年は何も言わず、剣を握る手を見つめた。その一瞬の沈黙に、村人たちはわずかな安堵を覚えた――だが、それもつかの間のことだった。


少年は剣を腰に纏い直すと、静かに「ありがとう」と一言だけ礼を述べた。そして、壁に掛けられていた革製の上着ケープを手に取ると、突然踵を返し、村人たちを置き去りにして森の奥へと駆け出していった。



一瞬の出来事に、村人たちは唖然とした。


「な、なんだ……」

「まさか、また森へ……?」


村長らしき人物が少年の背中を見つめ、ゆっくりと首を振った。彼の表情には困惑と、それを超えた微かな敬意が入り混じっていた。


「追いかけてあげなさい」

村長はそう言うと、数人の男たちに目で指示を出した。


男たちは何も言わず、自分の家に戻ると、森に入るための身支度を整え始めた。

「跡は残っている。たどるのは簡単だろう」

村人たちはそう確信していた。重い板金鎧を纏った少年が友を引きずりながら歩いた道は、草を踏み倒し、枝を折り、地面にくっきりと刻まれている。その痕跡は、まるで道標のように目立つものだった。少年に追いつくことも、カタルパのもとへ向かうことも可能だろう。



恥辱と悔恨の渦巻く混沌から少年が醒めたとき、自分がどこにいるのか、まったく理解できなかった。


「……俺は……」


確かに先ほどまでは友を背負い、村を目指していたはずだ。だが、目の前にその友はいない。重く新調した板金鎧も、いつの間にか身から失われていた。


代わりにあったのは、剣が一振り――それは、もはや身体の一部のように馴染んでいた。そして、板金鎧の下に着込んでいた胴巻き《プールポワン》と、狩人が夜露をしのぐために着る動きやすい革の上着。それらを身に纏った自分の姿を見て、少年は一瞬、不思議そうに眉を寄せた。


「どうして……」


しかし、次の瞬間にはっとしたように顔を上げ、自分の成すべきことを思い出した。



「こんなに分かりやすい跡を残して……俺みたいな間抜けでも簡単にたどれる」


少年は自嘲気味に笑った。地面に残る足跡、折れた枝、それらははっきりとした道のように村へと続いていた。


「もう倒されているかな……いや、きっと倒されているだろう」


そう思いながらも、彼は足を止めなかった。むしろ、その思いが彼を急がせた。


「だからこそ、行かなくてはならない。……約束くらい、守らなきゃ……」


少年は自分の中で何かを結論づけると、力強く前に歩み出した。もはや夢遊病者のようにさまよう足取りではない。しっかりと大地を踏みしめる、確かな歩みだった。


少年は愚か者だったかもしれない――だが、絶望だけはしていなかった。



----------


いつの間にか、手に汗をかいている。

ふるえる手を伝って雫が一滴、ポタリと落ちたのを見て、ようやくその事実に気づいた。危険な兆候だ。本来なら、森で鍛えられた彼がそう簡単に汗をかくことはない。少々の運動や緊張で汗ばむ感覚こそあれ、したたるような汗が手に滲むことなどあり得ない。ましてや、弓を握る手に汗をかくなど――まるで初めて森に入った頃の未熟者のようではないか。


「隙を見せれば殺られる。」

その緊迫感は、普段なら彼を冷静に保たせるはずのものだった。だが、今のカタルパには、それが逆に自分を追い詰める鎖のように思えた。視線の端で弓がわずかに震えているのが見える。それを止められない自分――それがさらに危険を告げていた。


「根比べだ……厳しい戦いになるな。」

そう考えた瞬間、カタルパは首を横に振る。いや、なるのではない――もう既に厳しい戦いが始まっているのだ。


目の前の剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェを凝視しながら、彼は状況を冷静に分析する。獣の四肢から流れ出ていた血は徐々に収まりつつある。出血が減ったことで獣の体力が戻り始めているのだろう。足元の踏み込みこそまだ甘いが、最大の武器である長大な牙には傷一つ見えない。そして何より、あの鋭い瞳にはいまだ衰えの色が見えない。


「どちらが先に仕掛けるか――それが勝負を決める。」

カタルパは自分に言い聞かせるように、弓を握り直した。



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道をたどるのは、驚くほど容易だった。

いや、容易すぎたと言ってもいい。重い板金鎧をまとい、傷ついた友を引きずりながら歩いた痕跡は、まるで道そのもののように森に刻まれていた。草は踏み倒され、枝は折れ、足跡が地面にくっきりと刻み込まれている。


「……なんて愚かしい」

少年は思わず呟いた。

自分が残した道のあまりの分かりやすさに気づき、恥ずかしさすら覚えた。周囲への警戒などまるで欠けていた自分――それは、あまりに無防備で、あまりに幼稚だった。


やがて少年は、その道の端でカタルパを見つけた。

剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェと対峙する彼の姿は、木漏れ日が舞い落ちる中、汗と疲労に覆われていた。周囲の枯れ葉は散らばり、踏みつけられて輝きを失っている。


カタルパの負傷は一目で分かった。肩口に滲む血、疲れ切った表情――そして何より、動きの鈍さ。対する剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェも慎重になっている。恐らく、弓矢の恐ろしい威力を一度身をもって体験したのだろう。その右前足には、抜き取られた鏃の傷跡が残り、血は固まり始めていた。だが、その鋭い瞳と牙には、まだ十分な脅威が宿っている。


「……助けなくては」

少年の心がそう囁いた。約束を果たさなければならない――恩人を見捨てるわけにはいかない。



カタルパと剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、互いに自分の最適位置ベストポジションを取ろうと動いていた。その結果、獣の背は偶然にも少年に向けられていた。少年は、目の前のチャンスを本能で理解した。だが……足が動かない。


剣を握る手は震え、心臓の鼓動が耳の奥で響く。冷たい汗が首筋を伝うのを感じた。剣を抜いたまま、少年はその場に立ち尽くしていた。


「動け……動け……動いて……!」

心の中で叫び続ける。だが、身体は言うことを聞かない。恐怖に縛られたように、足は地面に根を張ったかのように動かなかった。


「……かっこよく助けるんだ。あの狩人に勇ましい姿を見せて、見返してやるんだ」

その言葉が、思わず口をついて出た。声にして初めて、自分が何を考えているのかを知る。


『格好良く』

『勇ましく』

『見返して』


――その言葉に、彼はびくりと震えた。

「……格好良く……? そんなの、できるわけないじゃないか」


自分の浅ましい虚栄心に気づいた瞬間、全身が痛むほど羞恥に襲われた。あの情けない姿を晒しておいて、いまさら取り繕おうだなんて――そんなことを考える自分が、無性に恥ずかしかった。だが、その恥に気づいたことで、少年の心に一つの確信が生まれた。


「そうだ……なら、さらに恥をかいたって、何の問題もないじゃないか」

恩人を見捨てるくらいなら――恥なんて、取るに足らないものだ。



それでも、足は動かない。幾度も自分を叱咤し、不甲斐なさを嘆き、臆病さを詰り続けても、体は石のように硬直していた。


「無理でも……何でもいい……兎に角、一歩でも……!」


少年は肺の奥から声を絞り出した。

「うわあぁぁ!」

それは言葉というよりも、絶叫だった。自分自身を鼓舞するための、ただの音――それでも、足は重い一歩を踏み出した。そして、二歩目、三歩目……気がつけば、少年は剣を構えたまま走り出していた。


奇声を上げながら走る自分が、いかに愚かで滑稽で情け無いかは分かっていた。それでも、止まるわけにはいかない。



剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェがこちらに顔を向ける。その鋭い瞳が、少年を射抜く。

「睨んでいる……!」

その瞬間、心臓が鷲掴みにされたような恐怖が襲った。脚がすくみそうになる――だが、なぜか足は動き続けていた。


「怖い……怖い……怖い……!」

心の中で繰り返すその言葉は、確かに恐怖そのものだった。だが、奇妙なことに、少年の足はその恐怖に反して動き続けた。自分自身でさえ、なぜ動いているのか分からない。ただ一つ確かなのは――彼の心が、もう逃げないと決めていたということだった。

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