前略、可愛い子犬を飼うはずが、心に傷を抱えた黒髪の少女と暮らすことになりました。

kazuchi

プロローグ 僕が女の子を抱きしめられない理由。

 僕には誰にも言えない秘密の能力ちからがある。


 相手が心に抱えたもっとも悲しい記憶がえる。


 特異体質という言い方が適しているのかもしれない。初めて起こったのは僕がものごころがついた頃だった。幼稚園に入園した日の教室での出来事は今でも鮮烈に覚えている。確か四歳くらいだった。


宣人せんとくん、お友だちがたくさん出来たね!! 先生とも仲良くしてくれるかな?』


『うん、いいよ。今日からぼくとなかよしだ!! せんせいはきれいでいい匂いがするからとっても好きだよ』


 父子家庭で母のぬくもりを知らず育った僕は、若い女性の保育士から話しかけられて有頂天だった。普段、家では見せない行動に走って保育士に抱きついてしまった。きっと子供特有のはしゃぎっぷりだったのだろう。


『ええっ……!?』


 いきなり落雷に打たれたように自分の身体が硬直する。保育士の首にまわした左腕が小刻みに震えだすのを止めることが出来ない。


『ああああっ!! いやだよ。怖い顔した知らない男の人にぶたれる。ぼくは何も悪いことをしてなんかいないのに!!』


『……せ、せんとくん、どうしたの!? 誰も近くにはいないよ!! きゃあ!! そんなに腕を振り回して暴れちゃだめだよ!!』


 予期せぬ行動に激しく狼狽ろうばいする彼女。こちらを見据える表情に驚きの色が浮かぶ。


 頭の中にまるで川の濁流だくりゅうのようにいっせいに押し寄せる。見知らぬ記憶の映像だった。素人が撮影した子供の運動会みたいに視界の隅に映し出された画面上下左右に揺れまくっている。同時に頭を激しく揺さぶられる感覚に襲われた。強い不快感に己の意識が遠のきそうになる。僕は小さな握りこぶしを作って必死に耐えた。


『ちがう!! これはぼくじゃない』


 映し出された強烈な映像を自分の視点だと勘違いしていた。例えるなら球体スフィアをぐるりと反転させたように頭の中で仮想のカメラアングルが目まぐるしく変化する。


『せ、せんせいがなんで怖い男の人にほっぺたをぶたれているの!?』


『せんとくん、いったい何を言ってるの、せんせいはわけが分からないよ!!』


 見知らぬ男から頬を殴られているのは自分ではなかった。記憶の映像に映し出されていたのは保育士が嗚咽を漏らしながら男にむかって許しごいをしている光景だった。泣きはらした彼女の白い顔がとても痛々しい。


 その映像を視た直後、僕は保育士の腕の中で意識を失った。


 その出来事は当時、幼かった僕の心に女性に対しての激しい恐怖トラウマを植えつけるには充分だった。いま思えば追体験した映像は恋人同士の痴話喧嘩。それも男のほうがDV気質な糞野郎だったに違いない。


 まるで太陽の輝きのごとく明るく見えた若い女性の保育士。彼女の心の中にあるもっとも悲しい記憶を僕は不思議な能力ちからで追体験したのだろう。


 その後、成長するに伴っていくつかの実証実験テストを試してみた。そして確証が持てたのは、この能力を発動するには一定の決まりごとがあるという事実だった。


 対象の人物に抱擁ハグをすることで能力は使える。視たくないときは意識的に記憶の流入を遮断出来るすべもいつしか身につけた。


 なぜ僕が追体験した記憶が相手にとってもっとも悲しい記憶と分るのかは、実験の過程で得た結果だった。それについては説明が長くなるのでまたの機会に後述させてくれ。


 父親、ひとつ年下の妹、同居する僕の家族にはこの能力は使えなかった。いちばん抱擁する機会が多いのは家族だが、何度試しても記憶の流入は起こらず、小学生時代の妹を実験と称して抱きしめすぎて、めちゃくちゃ妹を溺愛しているシスコンの兄だと勘違いされたのも本人に真実は言えないが自分の中ではいまでもお笑い草な話だ。


 まれに抱擁ではなくて日常生活で起こる軽い身体接触で、この能力がふいに発動することもあったが、自分でもまだ解明されていない不確定マイナス要素が怖くて多用はしなかった。


 例えるならば暗い話題のテレビニュースや、webでの書き込みを見ると自分の気持ちまで引っ張られる経験は誰しもあるだろう。 僕の持つ能力は発動させるとその後で何十倍も嫌な気持ちに襲われるんだ。子供ながらの直感で精神や肉体に与えるダメージがあると考え、僕は中学校入学目前にこの能力を意識的に封印した。


 もうひとつの理由としてあまりにも使いみちのない能力だと思えたからだ。相手の心に抱えるもっとも悲しい記憶が視られたって、それを知ったところでいったい何の得になる? 僕は将来カウンセラーになるつもりはなかった。もしも秘密を誰かに打ち明けたとしても相手から気味悪がられるか、危ない奴だとレッテルを張られてしまうのが関の山だろう。


 このまま一生恋もせず、不思議な能力を使わずに平凡な日常生活を過ごしていくつもりだった。


 そう、高校一年生の冬。捨てられた子犬みたいな目をした出会うまでは……。


 ――僕は君が心に抱えたもっとも悲しい記憶なんて視たくなかった。

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