あなたのくれた勇気、もう聴けないのかな。

　大学二年生の秋、親友の香菜が交通事故で亡くなった。激しい事故だったらしい。葬儀に並んだ時には、香菜の綺麗な顔はもう見られなかった。

　涙を流す彼女の両親、暗い色のハンカチで口元を覆い、『小さい時から、ずっとありがとうね』、そんな言葉を聞いた気がする。曖昧に返事した私がどんな顔をしていたのか、もう思い出すことができない。

　履き慣れないパンプスを脱ぎ散らかし、下宿先へと帰ってきた。もう使われなくなった大きめのワードローブ。かかった洋服を優しく手でなぞらえた。

　匂いの残ったベッドにうつ伏せで横たわり、喪服のまま静かに目を閉じる。路線が近く、交通の便が良いだけの安いマンション。列車の横切る音が窓を閉めていても聞こえてくる。いつもは気にならなかったその音が、今はより大きく感じた。

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　香菜と出会ったのは高校三年生の夏だった。

　中々煮え切らない私へ、母は受験勉強の為と半ば押し付けるように学習塾のパンフレットを渡してきた。今までそんなもの微塵も感じさせなかったというのに、どうして今更。

　ふと見上げた私は久々に両親の顔を見た気がする。いつのまにか歳を重ねて増えていくシワとシミ。

　人の事はとんと無頓着で、それは肉親にも当てはまる。心配そうに私を見つめる瞳が、少々苛立っているようにも見えた。

　夏休みだけの短期間だと知りながらも重い足取りで家を出る。蝉の鳴き声を耳にいれたくなくて、蓋をするようにイヤホンで耳を塞いだ。

　電車を降りてすぐの雑居ビルに大きな看板が見えた。CMでも何度か見たことのある大手の学習塾。同じような受験生が吸い込まれるようにして入口に歩を進める。

　始業の合図、耳から抜ける英文と数学の解説。何度も何度も蛍光色の線をのばし、ルーズリーフを煩雑に埋めていく。書き付けられた授業の板書が歪な羅列に見え始め、私は目頭をぎゅっと抑えた。手元の時計を一瞥し、進まない針と徒労感に圧倒される。

　ノートに書かれた自分の汚い数列を眺めながら、この夏期講習がどのくらい続くのか無意味な計算をした。シャーペンをノックする指と思考を止める。馬鹿馬鹿しい、こんなこと。

　手洗いだと偽って席を立つ。狭い廊下の先、階段横の化粧室へと入った。講師の声すら届かない静かな空間。女子トイレの鏡面の前で止まり、私は自分の仏頂面を眺める。

　やりたいことなんてないし、何かになりたいという目標もない。ただ勉強だけやってる今の私って、一体何なのだろう。

　好きなことや夢中になれるものが無いわけじゃない、だけどどこか自分自身は上の空、興味関心が繋がっているような感じがしないのだ。

　青い春と呼ばれる輝かしい学校生活は遠く、真っ青で窮屈な未来がぽっかりと口を開けて待っているようだった。

　突然、キィ、と扉が開く音がして私はトイレの奥を見遣る。内開きの個室から人がでてきた。水の流れる音が今更ながら耳に入る。

　奥から歩いてきた子は利発そうな眉に長い睫毛、大きな瞳が特徴的だった。バランスのとれた鼻筋に繋がる血色のいい唇。ショートカットが良く似合う、いや、ああいうタイプはどんな髪型でも似合うだろう。Tシャツにジーンズ、着飾らないスニーカー姿なのに、すれ違えば二度見してしまうような楚々とした魅力が感じられた。

　私は慌てて目線をそらしスマホをだす。アプリの並んだ画面の中で視線を必死に泳がせ、何の意味もないフリック操作を繰り返した。

　近づいてくる彼女の気配を意識しつつも、さっさと個室に入ればよかったと後悔する。彼女が横に立ち、手を洗い始めた。水音を聞きながら、私はこの子が早く過ぎ去ってくれるよう祈った。

「ねぇ」

　彼女が声をかけてきた。反射的に目を上げた私は鏡越しに彼女と目を合わせる。驚きを隠しつつぶっきらぼうな口で返事をする。

「………なに？」

　彼女は怖気づく様子もなく鏡面の目を横に向け、私の本体を見て尋ねた。

「………もしかして、サボり？」

　私も本体と目が合った。間近でみる彼女の瞳に吸い込まれそうで、たじたじになりながらスマホの画面を消した。