起床後の取り引き
マイロが人狼とまともに会話できたのは、出会って二日後のことだった。
人狼を部屋に運び込んでもらった後、マイロはそれまで取り掛かっていた作品を大急ぎで終わらせて、気絶するように机で眠る。そして目が覚めて、ココアを作っている最中に、ベッドに寝かせていた人狼が起き上がった。
『お目覚めのようだね。その枕、寝心地最高でしょう? 奮発して高いやつを買ったんだよ』
『……』
顔の赤みは引いていたが、寝起きの人狼は酔っていた時と同様に寡黙だった。布団の中で盛り上がっている尻尾も、頭頂部に生えた獣耳も沈黙している。ただただ静かに、澄んだ青い瞳でマイロを見ていた。
マイロは苦笑しながら、自分が飲むはずだったココアを彼に手渡す。
『まだ口は付けてないから、これでも飲みなよ』
『……』
『毒とか入ってないから、さあ、取り敢えず』
『……頂こう』
人狼は低い声でそう言うと、一息にココアを飲み干した。美味しかったか訊く間もなく、人狼の顔は一瞬で真っ赤に染まり、カップを床に落として、勢い良くベッドに倒れ込んだ。
突然のことに多少焦りながら、大丈夫かと声を掛け、人狼の身体を慎重に揺するマイロ。しばらくすると、規則正しい寝息が聴こえてきて、取り敢えず大丈夫かと布団を掛けてやり、眠る前に書き上げた原稿を持って出版社に出掛けた。
人狼は夜になっても目を覚まさず、マイロは大家から寝袋を借り、床の上で丸まって眠る。
そして起きたら、ベッドの人狼は先に目を覚ましており、前日と同様にマイロを見つめていた。
「やあ、おはよう」
「……おはよう」
「よっぽど疲れていたようだね。この二日でベッドとは仲良くなれたみたいだ」
「……申し訳ないが、水を一杯くれないか。頭が少し痛むんだ」
人狼の雄々しい顔は寝起きにしては涼やかなものだが、マイロに断る理由はないので、キッチンに向かい水をグラスに注ぎ、人狼の元に向かう。
手渡す時に短くありがとうと礼を言われ、マイロは柔らかな笑みを浮かべながら、気にしないでと返事をした。
人狼が水を飲んでいる間に、椅子を持ってきて彼の傍に座るマイロ。ただの水だから昏倒することもない。これでようやく会話ができる。
「僕はマイロ・アッシュベリー。君はどうして僕の部屋にいるか分かっているのかい?」
「……俺は何か、あんたに迷惑を掛けたのか?」
「何故そう思う」
「眠る前の最後の記憶が、店でワッフルを食べた所で終わっている。選ぶのが面倒でおすすめを頼んだんだが、あれ、チョコレートを使っているんだな」
「あの店の目玉商品だよ。チョコレートは苦手?」
「いや、好きだ。だが、酔ってしまう」
「ん?」
マイロが首を傾げると、人狼は再び、酔ってしまうんだと答えた。
「酔うって、チョコに?」
「そうだ。ほんのちょっとなら平気だが、食べ過ぎると酔ってしまう。そういう種族なんだ」
「君、半分くらいしかワッフル食べてなかったよ」
「……たまたま、たまたま半分で酔ったんだ」
そうか、と返事をしながら、マイロは手を動かしていく。胸ポケットに入れていた万年筆を取り、スラックスのポケットに仕舞っていたメモ帳を出す。そして今聞いたことを素早く記していった。
部屋で物語を紡ぐ時はガラスペンだが、何かメモをする時は万年筆でマイロは書いている。どちらも書き心地の良さを楽しみながら使用していた。
「それで……えっと、君の名前を訊いてもいいかい?」
「……シルヴェストロ・グリードだ」
「なら、シルヴェストロ。君がここにいるのはね、君が僕の仕事に協力すると快く引き受けてくれたからなんだ」
「あんたの仕事?」
「僕は物書きをしている。カフェで君の姿を目にした瞬間、君をモデルに物語を書きたくなってね。だからここに連れてきた」
シルヴェストロは真顔でじっとマイロを見つめ、そして静かに言葉を紡ぐ。
「酔っている時に無責任にも返事をしてすまなかった。できればその協力、断りたい」
「何故?」
「俺はそんな、モデルにされるような大層な男じゃないし、何より、人狼という種族をあまり見せ物にしたくはない」
「そう言われると何も言えなくなるな」
などと、苦笑いを浮かべながら口にするマイロだが、それで本当に黙る彼ではない。
「道化にして笑い者にしたいわけじゃない。純粋に人狼という種族に興味があるし、それを知った上でどんな物語を僕は書けるのか、自分の腕を試したいんだ」
「そうか」
「君をモデルに書かれるのが嫌なら、そこは諦めよう。ただ……君をこの部屋に運ぶのに何人もの人に協力してもらって、そのお礼を僕はした。君が払い損ねたワッフル代も立て替えてあげたし、そうそう、二日ほど僕のベッドを気持ち良く占領したよね?」
「……金なら少しは持っている」
そうしてシルヴェストロが口にした金額に、マイロは少し考えた後、首を横に振った。
「ちょっと足りないな。足りない分は是非とも他のことで補ってほしい。例えば、僕の知りたいことを教えるとか」
「……」
「駄目かな?」
身体を前のめりにして訊ねるマイロ。シルヴェストロは微動だにせずマイロの葡萄色の瞳を眺めた後、分かったと、諦めたように呟いた。
「あんたの知りたいことで、言えることは教えよう。あまり長く拘束はしないでもらえると助かる」
「先を急ぐ身なのかい?」
シルヴェストロの口角が僅かに上がる。うっすらと彼が浮かべる笑みは、たっぷりと寝た後だというのに、ひどく疲れているようにマイロには見えた。
「どうだろうな。取り敢えず、よろしく」
「よろしく、シルヴェストロ。じゃあ、話もまとまったことだし、朝ご飯にしようか。今日は近所のパン屋でロールパンをたくさん買ってあるから、遠慮せずに食べるといい」
「悪いな。……それの代金も含まれるのか」
「いいね、そうしようか」
「余計なことを言ったようだな」
シルヴェストロの舌打ちを、マイロは笑い、ロールパンとついでにミルクを用意しに、キッチンへと向かった。
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