骨と塵 ―感情管理社会、3分間だけの偽りの幸福―
ソコニ
第1話 覚醒
プロローグ
「3分間。それだけあれば、人は変われる」
新宿オフィス群の233階。窓からは雲が流れ、その下に無数の超高層ビルが林立している。朝7時、仕事始めの時間だ。
オフィスフロアに整然と並ぶデスクの前で、スーツ姿の男女が一斉に小さな青いカプセルを取り出す。3分間高揚食品"ハピネス"の朝の服用時間である。カプセルを飲み込むと同時に、全員の瞳に埋め込まれたARシステムが起動する。
「おはようございます。今日も素晴らしい一日の始まりです」
響き渡る清々しい声に合わせ、社員たちの表情が一斉に明るく変わっていく。瞳には青い光が宿り、デスク上のホログラム画面に映る業務目標に向かって、まるで機械のように正確な動きで仕事を始める。
これが、高度感情管理社会の朝である。
233階の最上階にあるエグゼクティブフロアでは、骨と呼ばれる上級幹部たちが、透明な壁越しに下層階を見下ろしていた。
「今週の生産性指数は過去最高です。新型ハピネスの効果は予想以上ですね」
「ええ、彼ら塵たちは実に良く働いてくれる。教育的教育省の新プログラムとの相性も抜群です」
彼らの瞳には管理者用の特別なARが埋め込まれており、フロア全体の生産性データをリアルタイムで確認できる。その表示は、まるで人間の魂を数値化したかのようだ。
しかし、233階の片隅。一人の社員の瞳の中で、青い光が一瞬だけ揺らめいた。そして、彼の机の引き出しの中では、未開封の青いカプセルが、静かに置かれていた。
変化は、既に始まっていたのだ。
第1章:覚醒
青いカプセルを見つめる手が、わずかに震えた。
「南野さん、まだハピネスを服用していないようですね」
背後から声がした時、南野歩夢は咄嗟に引き出しを閉めた。振り向くと、そこには課長の井上が立っていた。彼女の瞳には既に青い光が点っている。
「申し訳ありません。今、服用します」
歩夢は机の上に置かれた水に手を伸ばした。しかし、その動きは普段より明らかにぎこちない。
「どうかしましたか?」
「いいえ、何も」
歩夢は井上の視線を避けながら、別のカプセルを取り出した。それは昨日、こっそりと保管室から持ち出した偽薬だ。本物のハピネスは引き出しの中で、今日も未開封のまま眠ることになる。
カプセルを飲み込んで3分。歩夢は意識的に、周囲の社員と同じように明るい表情を作り、仕事を始めた。ARディスプレイには次々と数字が流れる。生産性。効率。達成率。すべてが数値化され、管理される世界。
「素晴らしい業績ですね、南野さん」
井上が満足げに言った。画面上の数値は確かに良好だった。しかし歩夢には、その数字が空虚に見えてならない。
いつからだろう。この違和感を覚え始めたのは。
それは、3ヶ月前の出来事がきっかけだった。システムの不具合で高揚食品の投与が15分遅れた日のこと。その僅かな「覚めた」時間の中で、歩夢は気づいてしまった。自分たちの感情が、完全にコントロールされているという事実に。
以来、彼は密かに実験を続けていた。偽薬を服用し、ARの信号を巧妙に欺きながら、「覚めた」状態で仕事を続ける日々。そして次第に、より深い真実が見えてきた。
この233階には、「骨」と呼ばれる支配者たちがいる。彼らは決して高揚食品を服用することはない。ただ「塵」と蔑まれる労働者たちを、上から見下ろしているだけだ。
「今日も良い一日になりますように」
社内放送が流れる中、歩夢はさりげなく233階の最上階を見上げた。ガラス張りのフロアでは、「骨」たちが会議を始めようとしている。
歩夢の心の中で、ある決意が固まりつつあった。この嘘の幸福に、終止符を打たなければならない。
だが、どうすれば良いのか。
考えに沈む歩夢の元に、一通のメッセージが届いた。差出人不明。開くと、そこには衝撃的な言葉が記されていた。
『あなたは、目覚めていますか?』
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