第10話 ベルリン回顧
人物
唐立 エマ 47/39 :元ホテルマン、現在ホテルの施設部門で働く
Dr.Schubert 65/57:ライプツィヒ印刷博物館(兼工房)の館長
Frau Schubert 65/57:博士の奥さま
柳下 70:前職の上司、美術写真の原版と版権をもつ
Herr. Derenthal 48:ベルリンの写真美術館館長
Ms. Fustel 60:写真巡回展のメインキュレーター
※エマとDr.Schubert &Frau Schuberの会話言語はドイツ語、ならびに柳下とHerr. Derenthal & Ms. Fustelの会話言語は英語ですが、便宜上すべて日本語で書かれています。
ホテル”風雅”(フーガ)フロント事務所。壁の時計は15時を過ぎたところ。
入り口上部に据え付けられた監視カメラのモニター画面、エントランスにタクシーが滑り込むのが見える。
タクシーから降りたSchubert夫妻と、出迎えるエマの後ろ姿。握手を交わしてからそのまま二人をエレベーターに誘導する。エレベーターは閉まり、エレベーターランプはそのまま8階へ向かって順に移行してゆく。
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最上階客室802号室。夫妻は椅子に腰掛けており、ウェルカムドリンク、オードブルとして用意された皿の一品とグラスビールを楽しんでいる。エマは二人に正座で向き合っており、自ら書き込んだホテルカードを折り目に沿って折りたたみ、Dr. Schubertにお渡しする。
エマ「先程ご説明した内容は、このカードの中にまとめてあります。
お食事の時間と会場、予約された送迎車の発車時刻です」
Dr. Schubert「ありがとう」
エマ「明日の小田原での仕事のあと、もし伊東駅からお電話をいただければ迎えに行けますが」
Dr. Schubert「それは心配いらないよ。 予定がはっきりとしないんだ。
食事時間に間に合うよう、ぼくはタクシーで戻るつもりだよ」
エマ「承知しました」
もう1枚、同じホテルカードを今度は奥様にお渡しする。
エマ「奥様、明日は陶芸家の工房へご一緒に行きましょう。 私が車でお連れします。11時30分に1階エントランスまで迎えに来ます。 そこから昼食をとって、14時に工房です。よろしいですか?」
Frau.Schubert「とても楽しみにしていたの。 本当にありがとう」
エマ「明日の昼食はなにを召し上がりたいか、考えていただけますか? 朝食後にでもスタッフにお伝えいただければ、一番スムーズです。
Frau.Schubert「OK, 分かったわ」
エマ「では、この度もいつもと変わらず、ごゆっくりお過ごしください。 何かあれば、いつでもご連絡ください」
Dr. Schubert「ありがとう、エマ」
エマは立ち上がるが、正座のせいで少し足首がしびれているため、かるくよろめく。
Frau.Schubert「ちょっと待って、エマ。 あなたはまだ私たちに、あなたのことを何も話していないでしょう」
Dr. Schubert「そうだよ。 昨日は偶然、磯料理レストランで出会えたけど。
その時も君は、君の仕事の話しかぼくらに話していないよ」
エマ「はい、申し訳ありません」
恐る恐る、もういちど畳に座りなおすエマ。
Dr. Schubert「謝ることではないよ。 元気にしていたのかい?」
エマ「はい、なんとか元気です。 でも、お二人にご報告できるほど良いことがありませんでした」
Frau.Schubert「良いことでなければ話してはいけないの? そんなことはないでしょう。最近はどう?」
エマ「ええと・・・」
Frau.Schubert「半年前に会ったけど、その後あなたの生活はなにも変わっていないの?」
エマ「はい・・・色々変わったことがありまして、なにから話せばいいのか。
じつはちょうど半年前にパートナーができて、一緒に暮らしはじめたのですが、もうすぐ別れるつもりなのです」
Frau.Schubert「まあ・・・それは残念ね。 でもその人は、あなたに合わなかったのね」
Dr. Schubert「たった半年で、パートナーとしてふさわしくないことが分かったんだから、君は運がよかったんだよ」
エマ「お二人のおっしゃる通りです」
Dr. Schubert「その彼とは、誰かの紹介で知り合ったのかい?」
エマ「いいえ、紹介ではありません。すべて偶然です。はじめは神様が出会わせてくださったのだと思いました。 でも、結果は悲しいことです」
Dr. Schubert「出会いをそう思えるのは、君は純粋なんだよ」
エマ「いえ、そうではなく、多分私が幼稚(primitiv)だからだと思います」
Dr. Schubert「幼稚(primitiv)? それは違うよ。 常に気持ちが若く純粋なだけだ。
でも以前も君は、君自身をそう言っていたよ。 覚えているかい?」
Frau.Schubert「そうよ。 私たちの家で食事をとった時、テーブルであなたは全く同じことを言っていたわ」
エマ「ああ・・・そうだったかもしれません。 いつもいつも同じことを」
苦笑いをしながら額に手を当てるエマ。
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8年前、ベルリン。
写真美術館の展示室は天井が大変高く、今回はモノクロームの日本の写真家の作品が大きく展示されている。この日本近代写真家のオープニングセレモニー会場では、多くの展覧会関係者と著名人が、作品を眺めながら歓談している。
黒い上等なスーツを着てA4ファイルを抱えたエマは、会場の隅で一緒に仕事を行った写真美術館の二人のキュレーターと歓談していたが、上司である柳下に手招きされると彼らとの会話を笑顔で打ち切り、柳下のそばに戻ってくる。柳下は今展のメインキュレーターであるMs. Fuestelと英語で会話していた。
Ms. Fuestelは時折エマの方をちらちらと見ている。その視線はあまり好意的なものではなく、エマは居心地の悪さを感じて、極力二人の会話を耳に入れないよう、視線を外している。
柳下のそばに、写真美術館館長のHerr. Derenthal とDr. Schubertが近づいてくる。
柳下「おお、Derenthal館長。 この度はおめでとうございます。 素晴らしい開会式でした」
Herr. Derenthal 「ありがとうございます、ヤギシタさん。 あなたの素晴らしい作品のおかげです。 また、Ms. Fustel の作品の見せ方もとても満足のゆくものであると思っています」
Ms. Fustel「おほめにあずかり光栄ですわ」
Herr. Derenthal 「ここベルリンを皮切りに、5箇所のヨーロッパの都市で開催されるこの展覧会は、今の時代において大変意義あるものだと思っています。
ところでヤギシタさん、ご紹介させていただけますか? こちらはライプツィヒの印刷博物館からいらっしゃいました、Dr. Schubertです」
Dr. Schubertが先に手を差し伸べ、柳下と握手をする。
Dr. Schubert「はじめまして、ヤギシタさん。 今日は貴重な作品を見ることができ、大変うれしいです」
柳下「はじめまして、Dr. Schubert。 こちらは私の、助手のカラタチです」
Dr. Schubertはエマにも握手を求め、エマは無言で軽く握手と会釈をする。
彼は優しい笑顔をエマに向けている。そのあと、Ms. Fustelと握手。
Dr. Schubert「どの作品も本当に素晴らしく、感動しました。
いつか、これらの原版を見せていただきたいものです」
柳下「もちろんです、博士。ところで、あなたの博物館では、19世紀のとても古い印刷機があると聞いていますが」
Dr. Schubert「はい、あります。しかもまだ動いているんですよ」
柳下「素晴らしい。じつは日本にも、それととても近い印刷機があるんですよ。 私と彼女はその工房を持つ会社から来ましてね」
Dr. Schubert「そうなのですか? それは驚きだ。 あなたの工房でも、ゼラチンでガラス乾板を作りますか?」
エマ「Ja...Unser Lichtempfindliche Gelatine ist Gelb.(はい、私たちの感光用ゼラチンは黄色いんです)」
Dr. Schubert「Wunderbar!(すばらしい)」
Dr. Schubert は笑顔でエマにのみドイツ語で答えると、柳下とMs. Fustelに気を遣うように英語での会話に戻る。
Dr. Schubert「私たちの工房で使うゼラチンは、黄色ではなく白いんです。
ヤギシタさん、いつかご一緒に仕事ができればいいですね」
柳下「ぜひそうしましょう。 写真は時がたてば経つほど、希少性が高まりますから」
その後展示会場エントランスにて写真撮影が行われる。 柳下とDr. Schubertにはさまれるように写真に収まるエマ。 Ms. Fustelはそこには居ない。
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腕の時計は19時。タクシーが “Paris Bar” の前に停まった。
ベルリンの街中にありながら、パリをイメージしたにぎやかな雰囲気の店内とフランス音楽のBGMが掛かるレストラン。 店内で歩き回るギャルソンは、皆フランス語で注文をとったり、客と会話をしている。
窓際の席に座るエマと柳下。 やがて二人のテーブルに、大きなムール貝が山盛りに乗った皿と、まるでアイスペールのような大きな銀の器に入ったブイヤベース、取り皿がやってくる。
白ワインがグラスに注がれ、乾杯をする二人。
柳下「さあ、食べよう」
エマ「こんな素晴らしいお料理、初めてです。 日本ではありえない量ですね」
柳下「そうだね」
エマ「本当に、ありがとうございます。 ベルリンに来て、さらにこんなおいしいお料理をいただいたことが分かれば、ますます課長たちに嫌われてしまいそうです」
柳下「なに、課長? 君のことをねたんでいるのかい?」
エマ「いえ、多分そうではないと思うのですが、私があなたの助手として、このベルリンの展覧会設営に同行する理由が分からない、と言っていました」
柳下「はは、それは君がキュレーターなのだから仕方ないだろう」
エマ「私はキュレーションのお手伝いができ、さらに式典にも参加させていただいて、とても光栄な気持ちでおりますが、課長が疑問に思うのはもっともだと思います。
なぜなら、課長もキュレーターの資格を持っているからです」
柳下「だってここでは、ドイツ語ができないと仕事がはかどらないよ。 実際君は、現地のキュレーターたちとうまくいっていたじゃないか」
エマ「はい、彼らはとても親切で、彼らの準備の仕方は独特でしたし勉強になりました」
柳下「それに僕は、君のドイツ語を聞くのが好きなんだ。 もっと君を応援したいと思っているんだよ」
視線を小さく宙に泳がせるエマ。ことり、と、ムール貝が皿の上におちる。
エマ「ありがとうございます。 ですが、私があなたから贔屓されている、という声が聞こえていました」
柳下「気にすることはないよ。 君には才能があるのだから」
エマ「自分になにか才能があるとは思えませんが、これからもできる限り努力してゆきたいと思います」
柳下「ああ、大丈夫だ。 今度は赤ワインにしよう」
新しいフルボトルとグラスが運ばれてくる。注がれるまま、ワインを次々と飲み干すエマ。その様子を見ながらブイヤベースを食す柳下。
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タクシーが静かにホテルのエントランスに到着し、ドアが開く。
エマは少しふらついた様子でタクシーを降り、柳下がそれに続く。
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エレベーターが7階で止まり、降りる二人。
えんじ色の絨毯を歩き、隣り合ったそれぞれの部屋に向かうところだが、自室の扉を開けようとした時、ふいに柳下が背中から抱きついてくる。
恐怖でぎょっとするエマ。
エマ「す、すみません、お酒を飲みすぎて、気持ちが悪いんです」
柳下「大丈夫かい? 少し横になった方がいいね」
エマ「本当に、食べたものがあがってきそうで」
それでも離れない柳下。 エマは本当におええ、と吐きそうな声をあげてうずくまろうとする。
そこでようやく柳下が離れる。 エマはうずくまりかけながら、何度も柳下に頭を下げる。
エマ「すみません、本当に、お酒弱くてすみません」
柳下「分かった、すこし休みなさい。 また後でね」
エマ「はい、本当に、すみません」
カードキーをかざして、謝りながら後ろ手にドアを開けて、部屋にすべりこむエマ。
扉が閉まるとふらふらとベッドに倒れ込み、声を殺して泣く。 涙が止まらない。
エマ「才能とか何だとか、全部、嘘だったんだ。
どうして今まで、気づかなかったんだろう。
柳下さんの本心も、みんなが怪しく思う気持ちも、なにもかも気づかなかった。
こんなに遠いところに来てしまって、もうだれも頼れない」
トランクを開けて、中からパスポートや貴重品の入った袋を取り出し、ショルダーバッグに詰め始める。着替えだけが入ったトランクのカギを閉めて床に置き、ショルダーバッグを抱えてそっと玄関の扉を開ける。
廊下はだれもいなかった。カードキーも持たず、音を立てずに扉を閉め、足早にエレベーターへと向かう。幸いすぐにエレベーターが開き、エマは中に滑り込む。
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腕時計は21時を過ぎている。街灯に照らされた夜の街並みはとても美しかったが、どの通りを歩いているのかもわからない。
道に立つ、方角を示す看板がSabigny Platz と書かれている。エマはそこから大通りへ吸い寄せられてゆく。
黙々と歩く。しかし歩いてはいるものの、人ごみの中で目の前がだんだんと回りはじめ、よろめいてバッグを抱えたまま地面に尻もちをつく。
背後から舌打ちをして通り過ぎてゆく男。じろじろこちらを見ながら歩く女。
聞き取りづらいドイツ語で近寄ってくる女がいたが、その目を見ると薬物中毒特有のどんよりとしたまなざし。
エマは気を引き締めて立ち上がり、その女を振り払って歩き去る。すると次第に見覚えのある風景が。鉄橋、いかがわしいコスチュームのショーウインドーと、その隣にある、写真美術館。
ここまできて、足がよろめいてまた転んでしまう。膝のストッキングが破れてしまった。すりむいた膝をさすりながら、不安げな表情でどことなく宙を見ていると、背後から聞き覚えのある声が話しかけてくる。
Dr. Schubert 「Entschuldigung, Freulein(失礼、お嬢さん)・・・あ、やっぱりそうだ」
エマ「あ」
Dr. Schubert 「あなたはヤギシタさんの助手の・・・こんな時間にここでなにを?」
エマ「・・・nn nichts mehr」
Dr. Schubert 「え?」
エマ「Ich kann nichts mehr zurück(もう帰れないです)」
目から涙があふれ、持っていたハンカチを取り出して目を押えるエマ。
Dr. Schubert 「どこへ帰れないんですか? 泣かずに、さあ立って」
エマ「ごめんなさい、ごめんなさい」
Dr. Schubert 「謝らないで、すこし落ち着いて、お茶を飲みましょう」
Dr. Schubertに腕を引かれて、道沿いのインビスに入る。エマは椅子に座らされ、冷たい水の入ったグラスが目の前に置かれる。彼の前にはコーヒーカップ。
Dr. Schubert 「お腹はすいていますか?」
エマは首を振り、水の入ったグラスを一気に飲み干す。
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テーブルの上に、フライドポテトの皿とアイスコーヒー。
マスカラが落ちて幾分パンダめいた目元のエマは、アイスコーヒーに手を伸ばす。
悲しそうな表情のDr. Schubert 。
Dr. Schubert 「全部理解しましたよ、エマさん。 君の上司のヤギシタさんには、がっかりだ。
だが、人はそんなもんです。 特に大きな権力を持つ者は、それだけ大きく人を振り回す傾向にある」
エマ「博士は、人を振り回すように見えません」
Dr. Schubert 「僕は、単に施設の代表なだけで、ヤギシタさんのような貴重な美術品の所有者ではないからね、そんなことはしない」
エマ「博士のおかげで、心が少し楽になりました。 ありがとうございます」
Dr. Schubert 「いいえ、君に笑顔がもどってよかった」
エマ「私、宿を探します」
Dr. Schubert 「何だって?! 今から宿を探す?」
エマ「はい、ウェブで」
Dr. Schubert 「ああ、そうか・・・ちょっと待っててくださいね。 ここを決して動かずに」
エマが携帯電話をいじり始めると、席を外して店の外に出るDr. Schubert 。
ポケットから取り出した携帯電話を耳に当てる。
Dr. Schubert 「Angelika? 僕だよ」
Frau Schubert「Walter、何時に家につくの?」
Dr. Schubert 「じつは、出発が遅くなってね。 まだベルリンにいるんだ」
Frau Schubert「そう、大変なのね」
Dr. Schubert 「突然ですまないが、相談があるんだけどいいかい?」
Frau Schubert「ええ、どうしたの?」
Dr. Schubert 「ひとり、日本人の女性を家に連れてきたいと思っているんだ。
取引先のお嬢さんでね、悪い状況に取り乱してしまっている。 一緒に来た上司からひどい目に合いそうになったそうで、宿泊先から逃げて、一人ぼっちで街をふらついている状態なんだよ」
Frau Schubert「まあ・・・」
Dr. Schubert 「彼女には、僕の助けと、君の助けも必要だと思うんだ。 どうだろう、数日彼女を家に泊めてあげても?」
Frau Schubert「もちろん、構わないわ。 こんな時間に外国で一人きりなんてとても恐ろしいことよ。 早くその人を連れてきてちょうだい」
Dr. Schubert 「ありがとう、Angelika」
Frau Schubert「夜の運転は、くれぐれも気を付けてね」
電話を切りながら、窓越しに店内をのぞくDr. Schubert。
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