ジンベエザメはあぶくとなった

アオウミ

これは、私が中学生の頃のお話です。

 当時私のクラスには、木村優摩と言う男の子がおりました。彼は普通よりちょっと背が低く、女の子みたいに髪が長かったものですから、クラスメイト達からは、たびたび、いじめの標的にされていました。いじめと言っても、そんな大層なものでは無くて、体育の時にグループに入れてもらえないだとか、話しかけても無視されるだとか、その程度のものです。


 そんなこんなで、一学期の終わりには、彼はすっかり空気のような存在になってしまっていました。


 ——私が、そんな彼と親しくなったきっかけは、本当に些細なものです。


 彼はいつもひとりぼっち、自分の席で、家から持って来ているであろうボロボロの図鑑を読んでいました。


 ある日、私はふと気になって、さりげなく彼の手元を覗き込んでみました。


『小学生の図鑑”魚”——サメ目——』


 すっかりよれて折れ目のついたそのページを、彼は静かに眺めていました。


「サメ、好きなの?」


 彼に話しかけたのは、ほんの好奇心からです。彼は少し驚いたような顔でこちらを振り向き、本のページを撫でながら小さく答えました。


「……うん。かっこいいから」


 か細く、消えてしまいそうな、それでいて透き通った声でした。


 この時の彼の表情は、今となっても忘れられません。虚ろな瞳に感情は無く、私はなぜか、彼をガラスのようだと感じました。


「他に好きな魚はいるの?」


「へぇ、こんなサメもいるんだ」


「このサメとか、かわいい顔してるね」


 それから数日、私は昼休みに彼の席を訪れては、こんな会話をするようになりました。


 はじめは全く笑わなかった彼も、しだいに私に心を開いてきてくれたのか、二週間もすると笑顔を見せるようになってくれました。


 そして私は、そんな彼にだんだんと惹かれるようになりました。


「さめまる、聞いて聞いて」


「さめまる、昨日ラブカってサメが……」


 『さめまる』、親しくなるにつれて、私が彼につけたあだ名です。サメが大好きで、丸いガラス玉みたいに綺麗な印象をしているから『さめまる』。初めてそう呼んだ時、彼は、”なんだよ、その雑なあだ名”とか言って笑っていましたが、特に嫌がるそぶりも無く受け入れてくれました。


 さめまると会話をするのがあたりまえとなってからしばらくの事、


「僕ね、大阪の大きい水族館で、ジンベエザメを見るのが夢なんだ」


 夏休み直前、さめまるはそう私に告げました。


 この頃になると、私はもう胸が締めつけられるくらいさめまるに惹かれきっていたので、数秒口に出すか思い悩んだ後、思い切ってこう答えました。


「……じ、じゃあさ、夏休み、私と一緒に見に行かない? ジンベエザメ」


するとさめまるは一緒丸く目を見開き、やがて少しだけ頬を赤らめ、顔をくしゃっとして笑いました。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 八月中旬、私はさめまると、例の大阪にある水族館へ行きました。かわいいワンピースにお気に入りのポーチを持って、さめまると一緒に東京から大阪まで、新幹線に乗りました。


 彼と一緒にいる時間は、何もしていなくても幸せでした。さめまるはどうだったのでしょうか? 今となっては、もう分かりません。


 水族館に到着すると、他の魚達やイルカ、ペンギンを見るのはほどほどに、私達はまっすぐ大水槽へと向かいました。


 人の波をかき分け、手を繋いで辿り着いたその先。大きな大きなアクリルガラスの向こうで、二頭のジンベエザメがゆうゆうと泳いでいました。


 青い水玉模様の巨大なサメは、それはそれは大層美しく、私は時を忘れてうっとりと見入っていたものです。


 しばらくして、私は、さめまるの手が震えているのを感じました。はっとして隣を見ると、さめまるは静かに泣いていました。ジンベエザメを見つめ、肩を震わせ泣いていました。


 ポーチからハンカチを取り出し彼に渡すと、彼は涙声で”ありがとう”と言い、キラキラとこぼれる涙をそれで拭いました。


 帰りの新幹線、東京に着くまで、私は穏やかに寝息を立てるさめまるを見つめていました。閉じた目から時々流れる涙を、何度も、何度も、私はハンカチで優しく拭いました。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 時は流れ九月一日、一学期の始まりです。私は淡い期待を胸に秘め、いつも通り学校に向かいました。


 しかしどこかおかしいのです。いつも朝早くから来ているはずの、さめまるの姿がどこにもありません。


(風邪でもひいたのかな?)


 そんなことを考えながら教室で待っていると、あっという間に朝のホームルームの時間になり、教室に担任の先生が入ってきました。


 先生を見て、私は(あれ?)と思いました。いつもだらしなくシワのついた服を着ている先生が、今日に限って、黒いスーツとネクタイをきちんと着こなしているのです。


 それを見て、私は、だんだんと血の気が引いていくのを感じました。一体何があったのか、先生の態度と雰囲気で、私は漠然と理解しました。


「今日はみなさんに悲しいお知らせがあります。木村優摩君が亡くなりました。自殺だったそうです。」


(ああ、やっぱりそうなんだ。)


 先生の言葉を聞き、私は目の前が真っ暗になりました。


 後の事はあまり覚えていません。家に帰ってからも、私はずっと泣いていたような気がします。


(あの時私が、話を聞いていれば。たった一言、何で泣いているの? って聞いていれば)


 私はさめまるを思い出しては、何度も後悔しました。何で何も知らないふりをしていたのだろうかと。


 そう、私は気づいていたのです。理屈はありません。二人でジンベエザメを見に行ったあの時、さめまるはもうすでに、死ぬ事を決意していたのです。


 ですがいくら後悔したところで、もう遅いのです。何で死んじゃったの? 辛いなら何で相談してくれなかったの? そんな事考えたところで、今更答えなんか返って来ません。さめまるも、帰っては来ません。


 それでも私は、あの日彼の涙を拭ったハンカチを握り締め、いつまでいつまでも泣いていました。


 涙が枯れ果てるその時まで。


 これで私とさめまるの、淡い恋の物語はお終いです。

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ジンベエザメはあぶくとなった アオウミ @aoumi_blue

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