第9話【影祓う炎】


炎が沈み、夜の闇が再び街道を支配した。


そこに立っているのは、もはやグレッグではなかった。


炭のようにひび割れた皮膚から、黒い靄が糸のように吹き出し、背骨は操り人形のようにぎこちなく軋んだ。

焦げた匂いと聖油の甘香が入り混じり、喉の奥に澱のような苦味を残す。

闇の只中、グレッグの頭上へ、異形が再び輪郭を結ぶ。

欠け落ちた鎌の片袖、割れた胴、胸の前で交差した細い腕。


その腕の抱えたグレッグの【影】が、夜の底で鈍く明滅した。


『ルカ……ルカ……』


かすれた呼び声が、空気ではなく骨へ響く。

声はやがて異形の中へ吸い込まれ、沈む石のように消えていく。


同時に、グレッグの身にさらなる変化が兆した。

炭のように脆くなった皮膚は、朽木の青紫の染みに変じ、溶け落ちた眼窩には夜そのものが沈殿する。

胡桃でも噛み砕きそうだった歯は、一本残らず抜け落ち、口の縁は乾いた黒に縮れた。


そこに、かつての親友の面影は欠片もない。


人であることを忘れた殻――ただそれだけが立っていた。


変わり果てたグレッグが跳ねる。

その身体から噴き出した異形が、残された鎌を振り下ろす。

鉄の匂いが一段濃くなる。


「こりゃどうなってるんだ!」


ダリルとジェスがほとんど同時にルカの前へ躍り出た。

ダリルの剣が鞭のようにしなる腕を叩き伏せた。


その刹那。


見えない斬撃が、彼の胸に縦の裂け目を穿つ。


血の代わりに、無色の炎が吹き上がった。

音もなく燃えるその火は、肉を一息に焦がし、骨まで乾かし、ダリルを脆い灰に変えた。

崩れ落ちる灰の雨を間近に見たジェスは、腰を抜かし喉を裂く。

だが叫びが終わるより早く、復元し始めた異形の欠けた鎌が、横一文字に走った。

ジェスの首が軽く跳ね、身体は失われたものを求めて宙を掻き、朽ちて塵となった。


「ダリル……ジェス……!」


レオンの声が、熱に歪んだ夜気の中で千切れた。

灰の中から、二人の【影】がふわりと立ち上がる。

レオンは一歩を出しかけて、出せない。

次々と奪われる仲間、理解を越えた死に、足は石のように鈍い。


ルカは足元に転がったダリルの剣を拾う。


柄はまだ温かい。


布を裂き、聖油をたっぷり含ませ、震える指で火を点けた。

橙の舌が音もなく膨らみ、彼はそれを迷わずグレッグへ叩きつける。

鉄を打つ鈍く甲高い音が闇を割り、火はグレッグの殻を押し込み、その向こうの異形へ届いた。


『※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!』


炎は悶えを引き出す。

黒くひび割れた肉から、泡立つような煙が吹き、異形の割れ目に白が走る。


だが、倒れない。


刃が燃え、皮が剥けても、二つの存在はぎりぎりの均衡で踏みとどまっていた。


——そんな生半可な攻撃じゃ効かないぞ?——


焚き火の席で肩を小突き合いながら、笑って吐いた言葉が、不意に蘇る。


——全体重でぶっ叩いてびくともしないのなんて、グレッグくらいだからね?——


冗談めかして言い合った夕暮れが、焼けた匂いの向こうで霞む。


奥歯を食いしばり、ルカは炎ごとグレッグを押さえつける。

振り回される鎌を弾き、身をずらし、息を合わせて圧をかける。


「レオン、お前は団長だろ! さっさとみんなを避難させろ!」


惚けていたレオンの眼に、一気に血が戻った。

わずかな逡巡ののち、彼は頷き、残った者たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばす。

退くべき者は退き、援けるべき者は引き際を見よ。

叫びが秩序の骨格を取り戻す。


『※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!』


『ル…………は……く……け……ろ……』


「あぁ、分かってるよ……」


異形の胴から伸びた細い腕に捕えられた【影】が、震えながら言葉を押し出す。


痛み、恐怖、焼ける匂い、骨の軋み、細胞の一つずつが剝がれていく感覚――


それらが、異形の内部から管を通して、ルカの胸へ流し込まれてくる。

つま先から紙やすりで擦られ続けるような絶望。

グレッグは、その地獄のただ中からなお、ルカへ叫んでいる。


『ルカ……はやく……はやく……』


三つ穴の開いた貌が、じっとこちらを見ている。

焦げた腕が伸び、ルカの胸倉を掴む。

押し返す力は弱い。

だが、退けという意思だけが確かだった。

服越しに伝わる冷たさに、死人の温度が宿る。






『ルカ……早く……逃げろ……』






かすれる声が、消え入りながらも反響する。

炎に炙られ、刃に裂かれ、それでも彼は親友だけは遠ざけようとしていた。

生前の顔が、一瞬だけ重なる。


笑って、罵って、肩を貸して、いつも背中で護ってくれていた男の顔。


『※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!』


異形の胴に走ったひびが、また開く。

そこから、言葉にならない叫びがルカの心へ叩き付けられる。


『痛い』

『怖い』

『助けて』


万の怨嗟が重なる。

呻きは濁流となり、理性の堤を削る。

異形に囚われた魂の声か、あるいは異形そのものが嘆く群体なのか。

判じかねたまま、しかし確かに、恐ろしさの輪郭だけが薄くなった。

声は、祈りと痛みの境で震えている。


——罪には赦しを。彷徨えるものに導きを——


レンブラントの言葉が胸の護符を熱くした。


助けた盗賊の顔が脳裏をよぎる。


赦しは刃ではない。

だが刃を導く。


手負いの獣が最後の力を振り絞るように、異形の鎌が再び襲いかかる。

受けるたび、体のどこかがごっそりと抜け落ちていく。

筋力でも血でもない、もっと深い何かの重量が剥がれる。


(このまま続ければ、よくて相打ちかな……)


炎の熱の奥で、心は冷えていた。

だが、その冷たさの底に、赤い一点が灯っている。


(今度こそ、“家族”を安らかに終わらせる……)


何もできず、父と母を失った夜。


尊厳と共に形見を奪われ、地を舐めるように生き延びた日々。


喉の奥に煤のように残った苦渋が、いまようやく燃料へ変わる。


鎌の一撃が、剣を半ばから砕いた。

金属の泣き声が空へ消える。

身体が鉛のように重く、膝が落ちる。

グレッグの腕が絡み、立て直す前に視界が揺れた。


胸の護符が、灼熱に弾けた。

白い奔流が鎌を正面から受け、異形の胴を横薙ぎに弾き飛ばす。

衝撃が夜を震わせ、耳の奥で鐘の縁が割れたような音がした。

光がみるみる褪せ、護符は黒い灰へ崩れ落ちる。


『※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!』


悲鳴が、闇の膜を裂いた。

その時、ひどく優しいものがルカの肩に触れる。


熱を持たない掌。


風のように軽い重み。


『ルカ……負けんじゃねぇぞ……』


『オレたちのカタキ……頼むな……』


ダリルとジェスの【影】が、静かな微笑で頷いた。

二人は両側からルカの手を包み、砕けた剣へそっと添える。

金属は銀色の炎に包まれ、欠けた刃が光で満たされる。


音もなく、だが確かな熱を持つ銀炎。


聖句のように静謐で、炉のように温かい。


『※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!』


異形が怯えた。

面の裏側で鐘が打たれ、鎌が焦燥にきしむ。

ルカは銀炎の剣を構え、地を蹴った。


刃が薙がれる。


炎が鎌を包み、金属音は出ず、代わりに霞がほどけるように武器が消えた。

返す刃で、ルカはグレッグの身体ごと、異形を正面から切り上げる。


高く、銀が昇る。

天へ吸い上げられるような炎柱。

異形の身が裂け、黒い霧が内から噴き出す。

霧は星明かりを飲み込み、次いで銀に染まって消えた。

限界まで燃えた剣が、光の粒となってぱらぱらと砕け、風にさらわれる。

その粒が触れた場所から、凍える感覚が退き、痛みの音色が一つずつ小さくなっていった。


「またな、グレッグ……次はあの世で大儲けしよう……」


力を使い切った身体が、意思より先に膝をつく。

視界が遠のき、音が水の底のように鈍る。

月明かりが一筋、裂け目から差し込み、その光の中に、いつもの陽気な笑顔が浮かんだ。


『弟分……ありがとうな……』


グレッグの【影】が手を振る。

惨劇の跡に似つかわしくないほど穏やかな仕草で。

彼は光の方へゆっくりと踵を返す。


ダリルとジェスの【影】も並び、肩をぶつけ合って笑った。


『また、どこかで会おうぜ……』


『今度は、もっと楽しくやろうな……』


三つの【影】が光に融け、夜空へ昇る。

星屑が三つ、並んで瞬いた。

異形の断面からも、遅れて複数の光がふくらみ、水疱のように静かに弾ける。

鈍い色の粒が崩れ、形を失い、光へ変わる。


それはやがて人の形を結び――

誰かの面影を掠め――

そして声になる。


『温かい』

『ありがとう』

『もう痛くない』


鎖の切れる音がし、重石の落ちる気配がした。

解かれた魂たちは、三人のあとを追って天へ還る。

ルカは地に膝をつき、泥と灰の中でそっと手を合わせた。


「生きる意味が……分からなくて迷ってた……」


闇が喉を満たし、地上にいながら窒息するような苦しさ。

涙が一粒、土に落ちる。


「でも、家族を正しく送ることができた今日だけは……」


言葉はそこで途切れた。

だが心の中で、続きははっきりとしている。


苦しく、辛く、悲しい。


そのすべてに触れ続けてきた手の意味を、やっと掴めたのだと。


夜は静まり返る。

風が燃え跡を撫で、焦げと聖油と血の匂いを薄めていく。

遠く、撤退を終えた仲間たちの気配。

レオンの短い号令が、以前よりも深く落ち着いて聞こえた。

彼もまた、背負い直したのだ。


空には三つの星。

互いを見守るように、慎ましく灯っている。

街道には、ようやく平穏が戻ろうとしていた。

長い戦いは、ひと区切りの終章を閉じる。


ルカは静かに目を閉じた。

脚は震え、掌にはまだ熱の残滓が疼く。


それでも、歩ける。


月の光が肩に落ち、祝福のように淡く輝いた。


もう少しすれば、また明日という痛みが訪れる。


それでも、今日だけは——


その痛みが怖くないと思えた。

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