第7話【異形の夕闇】
峠の風は背を押し、石畳に残った霜は昼の光にほどけていった。
馬の鼻息は白く、荷車の鈴は軽やかに響く。
昼過ぎ、隊商は予定より早く峠を抜け、街道筋の城塞都市に入った。
門番が槍の石突で石を叩き、通行証の紋を確かめる。
短いやり取りの後、重い扉が軋んで開いた。
短い挨拶が交わされるだけで、成功は行軍のリズムの延長線上に収まった。
誰も浮かれない。
浮かれないことが、ここで長く生き延びる術だった。
街路は人と声で満ちていた。
香辛料を焼く匂い、焼き菓子に溶けた砂糖の甘さ、干した革の新しい匂い。
レオンは広場の端に仲間を集め、簡潔に言った。
「二刻休む。補給と修繕を済ませろ。酒は控えろ。……戻りは鐘が二つだ」
そのとき、背後でグレッグが小袋を鳴らした。
「儲けの半分は隊に戻す。半分は俺と、弟分の糖分な」
「砂糖は高い」
リリアナは短剣の柄を叩きながら「甘やかしは敵よ」と続けた。
「敵は腹の虫だ」
グレッグは笑い、肩でルカを押し、夜の店の通りへ消えた。
彼が向かう先は、酔いと虚勢の隙間からしか出ない言葉を拾える場所。
仕事によっては必要だ。
だが、ルカにはつらい。
夜の店は過去の棘でできている。
見えてしまう彼にとっては、毒に近い空気だった。
ルカは水袋を抱え、井戸へと並んだ。
列の途中、女が幼子の頬についたパン屑を拭い、若い職人が恋人の手に薄い手袋をはめている。
老人は木陰に腰を下ろし、膝の上の猫が尻尾で埃を払っていた。
平凡。
けれど、それは祝福の名だ。
視界の端で【影】が揺れる。
街の人々の背に付いたそれは淡く、温い。
互いに許し合いながら生きる気配。
《暁の獅子》の仲間たちの影はもっと濃い。
それは鉄と死を生業にするからだ。
だが怨霊の棘は少ない。
義理と情で縫われた暗さは、街の怨みの影とは質が違う。
だからこそ、自分はここに居られる。
ルカにはそう思えた。
桶が満ち、指に水が冷たく跳ねる。
水袋を締めて立ち去る途中、路地奥から酒の笑い声が弾けた。
昼から開いた店。暖簾の向こうに濃い【影】が集まっている。
それは恨みと渇きの姿だ。
過去の怨嗟に酒を注いでは乾かし、また恨みを滲ませる者たち。
【影】は赤黒く尖り、見るだけで喉が締まった。
ルカは足を止め、顔を逸らす。
「……苦手だな」
呟きは自分にしか届かない。
肺の奥にざらりと砂鉄が降った。
代わりに、ルカは別の匂いに引かれた。
パン屋の軒先。
焼き上がった丸パンが網で鳴り、外皮が冷める音を立てる。
ひとつ買って齧ると、温かな湯気が舌に広がった。
三年前、飢えにふらつき、漂白で荒んだ少年の口に差し出されたもの。
レオンの手にあった、硬いパン。
乾いていたのに、不思議なほど甘く感じた。
あの時から、小麦の匂いが好きになった。
パンの香ばしさは、生き延びる理由と同じ味をしている。
上機嫌なグレッグが大手を振り、ルカの隣に腰を下ろした。
酒気はあるが、瞳は澄んでいる。
「顔色悪いぞ、弟分。ほら、蜂蜜を薄く塗ったやつだ」
紙袋から焼き菓子を差し出す。
「店主の愚痴が山ほど聞けた。近頃、街道で人が消えてるらしい。荷も人も跡形もなく、鈴の音だけ残るってな。怖がって足が遠のき、常連も来ない。『鍋に入れる肉が痩せていく』って嘆いてた」
グレッグは声を落とし、肩をすくめた。
ルカは眉をひそめる。
【影】のざわめきは、街の喧騒よりもよく聞こえた。
砂利の上を湿った布でこするような音が、胸の裏で続く。
「で、欠員が出た。護衛の何人かが病で倒れたらしい。そんなところへ、聖油を積んだ隊商が峠を越えちまった。遅らせるわけにはいかねえ。教会の燃料だ。羽振りもいい……レオンが逃すとは思えない」
グレッグは焼き菓子をルカの手に押し付けた。
「腹に入れろ。うなじに残ってるもんを流せ」
街の親子の笑い声は眩しい。
自分には届かない場所だ、と痛感する瞬間がある。
けれど、自分に届く甘さは、傭兵団と結びついている。
だから彼らは家族だ。
唯一の居場所だ。
「……ありがとう」
「礼はいらねえ。弟分が食えば、それで俺の腹も落ち着く」
グレッグは立ち上がり、空の色を見た。
やがて鐘が二つ鳴り、広場に再び集う。
レオンの前には教会の使者が立っていた。
白衣の胸に燭台の紋章が鈍く光る。
「聖油を積んだ隊商が峠を越えました。護衛が病で減り、手が足りぬ。遅らせれば祭儀に支障をきたします。どうか、すぐに」
押し殺した声の中に、切迫の棘が見えた。
レオンは地図を折り、迷いなく頷く。
「受ける。本隊は街に残す。俺とグレッグ、ルカ、ダリル、ジェスで護衛に就く」
即断に異論はない。
小隊は軽装に切り替え、城門をくぐった。
空はすでに薄灰に沈み、雲は低い。
風は湿りを帯び、肌に布のように貼りつく。
積まれた樽からは、松脂を煮詰めたような乾いた甘さがわずかに漏れていた。
夕刻の街道は、昼の喧騒が嘘のように静かだ。
刈り終えた麦の残り茎が風に揺れ、遠くで烏が地面を突く。
犬が一声だけ吠え、やがて声は途絶えた。音の膜が一枚剝がれ、世界がわずかに軽くなる。
軽くなったはずの耳に、鈴が鳴った。
ルカは歩幅を変えず、肺に冷気を満たして吐息を細く伸ばした。
視界の膜の向こうで【影】が沈む。
濃く、重く、こちらを見ている。
仲間たちは異様な空気を察した。
ジェスが息を止め、ダリルは槍を握り直す。
レオンは首だけで空を見上げ、風の向きを量る。
誰も「何か」を見てはいない。
ただ、危機が近いと本能が告げている。
靄が集まり、骨のような節をつくる。
肉のない腕が地面を擦り、闇の眼窩が虚空を睨んだ。
耳の奥で、死者の声が一斉に叫ぶ。
『痛い』
『寒い』
『帰りたい』
『許して』
群れの声は、こちら側に歩いて来る。
喉が震え、声にならない息が漏れた。
その一瞬、靄の腕が地面を滑り、グレッグの肩口へためらいなく薙ぎつける。
乾いた衝撃、遅れて湿った音。
血の匂いが夜気を裂いた。
鋼が地面で高く鳴り、刃が転がる。
腕が、ない。
視界が一拍遅れて意味を獲る。
グレッグの歯の軋みが、ルカの胸の奥に直接響いた。
足は意思より先に前へ出る。
死者の声が重なる。
『痛い』
『痛い』
『行かないで』
生きては痛み、死んでもなお呻く。
ならば、なぜ生まれるのか。
背後でレオンの声が低く飛ぶ。
「列を崩すな!荷から離れるな!」
戦うためではない、守るための声だ。
ジェスが包帯をほどき、ダリルは槍を水平にして荷の脇に壁を作る。
見えない敵に突っ込むことはしない。
ただ、崩れない。
荷と命を、ここで落とさないために。
ルカは肺の奥まで冷えた夜気を吸い込み、吐いた。
視界の膜に走るひびの先で、異形の輪郭が一瞬だけ濃くなる。
靄の節と節の間――言葉が骨になり、憎しみが腱になった場所。
そこが脈打つのが見えた。
聖油の樽が、微かに鳴る。
乾いた甘さの匂いが風にちぎれて運ばれ、闇の表面で揺れた。
「グレッグ!」
ルカは一歩踏み込み、彼の体を支える。
熱いものが袖を伝い、指先に集まっていく。
グレッグは唇を噛み、笑いとも呻きともつかない息を漏らした。
「大丈夫だ。弟分は俺の背から離れるな」
夕闇は音を呑み込み、【影】は形を増して群れた。
街道の石が、ひとつ赤く濡れる。
鈴の幻聴はなお遠くで鳴り、風は聖油の甘さを抱いて巡る。
世界はまだ落ちていない。
ここで、落とさせない。
夜が完全に降り切る前、空の裂け目でわずかに星が瞬いた。
ルカは問いを胸の奥に抱えたまま、前へ出る。
生きては痛み、死んでもなお呻く。
ならば、なぜ生まれるのか。
答えはない。
けれどいまは、答えの前に、守るべきものがある。
街道の彼方から、誰かの足音ではない音が、もう一度だけ近づいてきた。
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