第5話【仲間という絆】
朝靄は、野営地の上で白い繭のようにほどけていた。
革の匂いと獣脂の温み、鉄の冷たさ、湿った薪の煙――それらが低く混じり合って、目に見えぬ河の流れを作っている。
その流れをかきわけるように、ルカは水桶を運んだ。骨の内側まで沁みる冷たさが、かつては自分を細く震わせたが、いまは体の芯をまっすぐにしてくれる。
二年が過ぎた。誰も彼を「新入り」とは呼ばない。背負い袋は秩序を覚え、短剣の柄は掌の形を学んだ。迷いは歩幅の中に均され、呼吸は焚き火の鼓動に重なる。
「報酬は銀貨十五枚、五人で分けると……」
小太りの商人が指を折って唸る。
ルカは頭を垂れ、言葉を刃でなく匙のように使って返した。
「一人あたり三枚でございます。確認のため、受領のサインはこちらに」
「おお、計算も礼も行き届いている。助かるよ」
背で小さな咳払い。振り向けばグレッグが、朝風に栗毛を揺らしながら片眉を上げる。
「おいおい、どこでそんな上等な舌を手に入れた? ああ、分かった。セレナの修練だな。ルカの悲鳴が今も耳の奥で木霊してる」
「“グレッグも受講を希望している”と伝えておこう」
「やめろ! あいつの言葉は研ぎすぎの剣だ。触れただけで尊厳が二つに割れる」
くだらないやり取りに、商人の肩から緊張が抜ける。
銀貨は袋の底で乾いた舌打ちをし、契約は静かに結ばれた。
かつてルカは「一人三枚だな」と投げやりに言って、セレナの目が放つ冷水を浴びた。
言葉は刃――鈍らせても、やたらに切ってもいけない。
正しく研いだ刃は、敵ではなく縁を断たない。
彼はそれを二年かけて学んだ。
***
夜は森の奥から滲み出た。
野営の輪の外、黒い木々は無数の槍の穂のように天を突き、焚き火の赤に舌を出した。
火番のルカは、揺れる明暗の境に目を据える。
そこは彼の眼だけが読むことのできる文字で満ちている。
【影】たち――声にならない声、名を忘れた名。
老人の輪郭、子の背丈、女の横顔。顔はないが表情がある。
体はないが重みがある。
彼らの口許から、風に紛れて細い嘆きが流れ出る。
『寂しい……』
『帰りたい……』
『誰か……気づいて……』
二年前なら膝が勝手に土へ落ちただろう。
いまは違う。
ここに火があり、鍋があり、笑いがあり、いびきがある。
自分の背を、誰かがわざと視界の端に収めてくれている。
居場所を知った心は、他者の居場所の喪失に痛みを覚える。
ルカは胸の底でゆっくり語りかけた。
――いつか、安らぎへ辿り着ける。必ず――
黒の輪郭がわずかにほどけ、焚き火の赤がその縁をやさしく舐める。
火は化け物の舌ではなく、帰り道の合図のようだった。
「どうした、ルカ?」
グレッグの声が焚き火越しに落ちる。
心配の色はあるが、距離は保たれている。
ルカは首を横に振った。
「……何でもない」
嘘ではない。
恐怖は薄皮になり、薄皮は息の熱でいつかはがれる。
***
翌朝、街道の脇で黒い法衣の男が倒れているのを見つけた。
胸元の銀は白冠会の印を持ち、法衣の裾は長い放浪の泥を集めていた。
レオンが脈をとり、ルカは水筒を差し出す。
男はわずかに瞼を上げ、乾いた唇に水を含み、ほっとした子供のように目尻を湿らせた。
「私は……レンブラント。祓魔師です……」
オルセンは携帯粥を煮立て、斥候のリリアナは森へ薬草を、セレナは清潔な布と布地の数字を持って駆けつける。
小さな手がたくさん伸びる。
誰も英雄になろうとせず、必要な動作だけが次々に果たされる。
毛布に包まれ、体温が戻ると、祓魔師はゆっくりと言葉を取り戻した。
「助けていただいて……本当に、感謝します」
レオンが短く頷く。
彼の頷きは「代金は不要だ」でも「恩を忘れるな」でもなく、「ここではこうする」の合図。
レンブラントは多くを語らなかった。
各地で呪霊の被害が増している。
手の足りぬところへ赴くうちに倒れた――それだけ。
使命はいつも簡潔だ。
困難の厚みは、言葉ではなく沈黙の重さに宿る。
二日で歩けるほどに回復した彼は、別れ際、躊躇ののち銀の小さな護符をルカの手に置いた。
触れた瞬間、金属は金属の温度ではなく、人の体温を記憶しているかのようなぬくみを伝えた。
「君には……霊が見えませんか?」
ルカの喉がひとつ鳴った。
これまで誰にも悟られたことのない秘密を、いとも容易く言い当てられたからだ。
「どうして……」
「霊を祓う者には、霊視の眼が備わる。聖霊の加護により、我ら祓魔師は皆その力を授かっているのです。けれど――」
レンブラントは声を落とし、敬虔な色を帯びる。
「洗礼も受けぬうちからその力を持つ者は、極めて稀です。その力で、さぞや苦労をされたことでしょう。ですが――」
彼は掌に載せた護符をルカへと差し出した。
「君の力は呪いではありません。迷える魂を導く光となるはずです。どうか、その眼を閉ざさないでください」
ルカは言葉を失い、ただ護符を受け取った。
護符は喉元で静かに冷え、肌で温まり、また冷えた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは私の方です」
祓魔師は森に消えた。
木漏れ日は銀を弾き返し、影は彼の背を柔らかく飲みこんだ。
***
帳場に戻ると、セレナは数字の海を相手に小舟を漕いでいた。
羽根ペンの先が紙の繊維を割くたびに、墨の匂いが立つ。
彼女はルカの護符に一瞬だけ視線を落とし、何も問わず、報告書へと視線を戻した。
「語尾が整っている。いい投資だったわ、あなたの教育」
「利益は出ました?」
「ええ、私が楽になったぶんだけ」
口の端がごくわずか、焚き火の火花みたいに上がる。
ルカは、礼の言い方を教わった最初の日のことを思い出した。
“言葉は刃”。
いまはその刃で、紙の紐だけを切れる。
「そういえば、セレナはどうしてここに?」
「昔、貴族の屋敷で帳簿を任されていたわ。――ある事件で、全部失った」
彼女は淡々と語り、淡々と沈黙する。
過去は長いが、説明は短い。
その短さに、重みが宿る。
「ここは破産者の集まり。でも、利益は上がる」
「俺と同じだ」
「ええ。同じ。居場所を失った者同士。だから帳尻を合わせられる」
二人は同じ数字を見て、違う記憶を思った。
けれど、見ている方向は同じだった。
***
数日後、街道を荒らす盗賊の討伐依頼が来た。
赤い点が焚き火の地図に散る。
リリアナの嗅覚が道を繋ぎ、レオンの短い号令が輪を閉じる。
夜明け、包囲は音もなく完結し、刃の出番より先に逃げ道が尽きた。
戦いは長くなかった。
だが終わり際、ルカは一人の若い盗賊の前で足を止めた。
少年と呼ぶべき年頃。
薄汚れた裾。
足に深い傷。
痛みで歪んだ顔は、いつか土の上で自分がした顔と重なる。
野盗に襲われ、両親の形見を奪われ、尊厳まで踏み躙られたあの日——
「殺さないでくれ……妹が……家で待ってる」
声が胸の壁の古いひび割れに触れ、ひびは、割れずに音だけを返した。
罪は罪だ。
襲ったのは彼らだ。
だが、追い詰められるということの匂いを、ルカは知っている。
護符が喉で静かに揺れ、レンブラントの声が蘇る。
赦しと導き。
彼は腰袋から薬草を取り出し、傷を洗い、包帯を巻いた。
手はためらわず、心は震えず、しかし震えが去った痕の冷たさだけが残る。
「やり直せ――妹のために」
少年は何度も頷いた。頷き方は拙かったが、拙い誓いのほうが長持ちすることもある。
背でグレッグが腕を組み、顔だけルカに向けた。
「優しいな、お前は」
「これでいいのかな」
「いいさ。それがお前だ」
そして、少年に向き直ると声色を低く落とした。
「聞け。信頼は金貨より重い。もし俺の家族を裏切ったら――対価はお前の全部だ」
脅しは短く、効果は長い。
少年は首がもげるほど頷いた。
ルカの胸で護符が、焚き火と同じ温度になった気がした。
***
帰路。
夕陽は血のようだが、血よりも清潔に地平線を染める。
雲は金と紫のあいだで迷子になり、リリアナは鼻歌で道案内をする。
オルセンは夕餉の献立を三つ同時に考え、セレナは分配表に余白の美を与え、グレッグは相変わらず重要でない提案を重要そうに述べる。
レオンが馬の歩度を落とし、ルカの横に並んだ。
彼の沈黙は言葉を準備する沈黙ではなく、言葉の居場所を整える沈黙だ。
「お前は変わった」
「どういう意味?」
「最初は、風に吹かれそうな子供だった。誰も信じられず、何にも凭れられなかった。だがいまは違う。仲間を守る男になった。敵にも手を差し出す男になった」
胸の奥で何かがほどけ、その空いた場所に火の匂いが満ちる。
「でも、まだまだだよ」
「謙遜は要らん。成長は見れば分かる」
レオンは空を見上げた。眼差しは厳しいのに、言葉はやさしい。
「人は一人で強くはなれない。どれほど腕が立っても、孤独は刃を鈍らせる。仲間がいれば、刃は刃のまま、鞘にもなる」
ルカは深く頷いた。
この二年、彼は守られることで守ることを覚え、与えられることで返すことを覚えた。
いつの間にか、《暁の獅子》の輪は、彼の歩幅に合わせて少しだけ形を変えていた。
それは彼ひとりの功績ではない。
けれど、彼がいなければ起きなかった変化でもある。
「これからも、よろしくね」
「あぁ、こちらこそな」
短い言葉が、長い約束になった。
***
野営地に戻ると、焚き火はいつもより赤く見えた。
オルセンの鍋は寡黙に泡を割り、セレナは端から端まで数字を渡し、リリアナは失敗談を自慢げに披露し、グレッグは犬もいないのに骨を振り回す真似をした。
笑いが重なり、影は薄くなり、薄くなった影は逆に輪郭を得る。
ルカは護符を指でなぞった。
銀は夜気で冷え、肌で温まり、また冷えた。
【影】は焚き火の外で立ち、声なき声を持ち寄っている。
恐ろしいのではない。
ただ、居場所を探しているのだ。
いつか必ず、手をとって導く。
祓魔師という道の先に、それがあるかもしれない。
だが今は、ここにいる。
大きすぎない笑い、短い罵声、間の抜けた失敗、小さな成功。
それらの雑音は一つの鼓動になって、彼の胸の内側を叩いた。
「平和だな」
誰かが言い、誰かが「言うと壊れる」と返し、皆が笑った。
空には鈍い星がにじみ、風は幕の継ぎ目を撫でていく。
その夜、ルカは火のそばで膝を抱え、ゆっくりと目を閉じた。
眠りは浅く、けれど温かかった。
彼はまだ知らない。
この平安がどれほど貴いかを。
そして、いつかこの平安が試される日が来ることを。
けれど、知らなくていい夜もある。
眠りの底で、護符の冷たさが心臓の鼓動と歩調を合わせた。
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