赤薔薇の秘密

いちじょうこうや

 私が引っ越してきたとき、隣には一軒の洋館があった。まだ小学生の私にはテーブルが置いても広さがまだあるそこはまるで絵本やアニメで見た洋館のようだったので、洋館と呼んでいるだけだ。

 実際我が家よりも広いが、富豪などの洋館と比べるとまだ狭い部類だったのかもしれない。

 そこは植木鉢とフェンスに這わせた赤い薔薇が綺麗な花を咲かせている家だった。

 四人家族の私たち家族が住む家より少し大きい洋館の住人は女性ただ一人。

 年齢は分からない。引っ越しの挨拶をした当時、綺麗な女性と思ってからまるでその人だけ時を止めたように見た目が全然変わらないように私には見えていたからだ。


 隣家だから回覧板を回したりする際などに話をすることがあり、薔薇に惹かれた小学生の私が色々と声をかけ女主人からたまに招いてもらうような関係になっていた。

 女性の一人暮らしであること。薔薇が咲くと庭のテーブルでお茶を楽しんでいること。薔薇の手入れは一人で丁寧に行っていること。全て本人から教えてもらった。

 「ここ毎年綺麗に咲きますね」

 中学生になっても交友を続けてもらって、お茶に招かれたある日。

 私はふと女性に尋ねた。

 深い理由はない。この洋館の薔薇に惹かれた母が自分でも育てようとして、枯らしたり虫がついたりと四苦八苦しているのを見ていたからの疑問、くらいの感覚。

 「二年くらい前から“お隣さんみたいに薔薇を綺麗に育ててみたい”って母が言っていて」

 「あら」

 「ただ、虫がついたり植木鉢のは枯れてしまったりしちゃうみたいで。何かコツとかあるんですか?」

 「コツ…そうね…」

 女性がフェンスを彩る薔薇を見た時の哀しそうな笑顔は今でも忘れられない。子どもながらに哀しい思い出があるのだと、その表情で察せられたくらいだった。

 「私もね、ひどく苦労したの」

 テーブルに飾ってある一輪の薔薇を、女性の白い指がなぞる。薔薇の手入れでついたのかもしれない小さな傷跡が綺麗な女性についているのがアンバランスに見えた。

 「お母さまが苦労されているようなことを私も経験したのよ。虫はまだ虫除けでどうにかなったのだけど、枯らしてしまうことやうまく花が咲かないことがあってね」

 「最初からうまくここまでされたと思っていました」

 「あなたにはそう見えていたのね。そう思ってもらえるのは嬉しいわ。でも、ここまで安定して毎年花を咲かせるようになったのは、私の力じゃないの」


 この洋館と薔薇について、女性は親切に話してくれた。

 「ここはね私の両親が建てたものなの。両親は花が好きだったのだけど、私と同じでうまく育てることが苦手な人たちでね。フェンスの薔薇をここまでしてくれたのは、私の婚約者だった人なの」

 「婚約者、の方がいらっしゃるんですね」

 その時の私はただ“お金持ちの人には本当に婚約者がいるんだ”という安直な感想。この感想は即座に変わったのは今でも記憶から消えない。

 「ううん。もうね、いなくなっちゃったの」

 家同士が決めた婚約であったらしい。それでも女性は婚約者が好きだったという。お互いの家に行き来も年単位で重ねていてその際に婚約者がフェンスの薔薇を整えたと。

「鉢植えの薔薇は彼から色々とアドバイスをもらって、私が初めてちゃんとずっと咲かせられるようになったものなの」

 鉢植えの薔薇が定着して数年。当事者の年齢も法律的に問題なくなり、あとは結婚の日取りを決める、までいっていたある日。

 「いなくなったの。彼のご両親も何も理由を知らなくて。捜索願まで出して。それでも全然見つからなくて」

 以降、結婚などを考えられなくなった女性に残ったのは慰謝料と両親の遺した洋館。そして、この綺麗な赤い薔薇だけという。

 「ごめんなさい…無神経に聞きました…」

 「違うわ。薔薇の話になったから、つい私の口が滑ってしまっただけ。あなたは何も悪くない。こちらこそ変な話をしてごめんなさい。えっと元々は何の話をしてたのだっけ。ああ、薔薇を育てるコツでしたね」

 女性がテーブルから離れて植木鉢を一つ持ってくる。

 綺麗な赤薔薇の下。湿った土と、無造作に土の上に置かれた白い幾つかの小さな塊。


 「あの人がね教えてくれたの」

 「植物を育てるには、それぞれに合った肥料が大事なんですって。温度管理が必要なものもあるけれど、肥料が大事って。」

 「肥料ですか?」

 「あの人がいうにはね。専門の方が聞いたら他にも大事なものはあるって言われそうだけども」

 「こちらの肥料は何か特別なのが?」

 どんなものを使っているか分かれば、母の薔薇も花をつけるくらいには育つかもしれない。そう思った私は女主人に肥料の質問をした。

 「肥料は適当なものよ。こだわっているのはリンって成分くらいかしら。与えすぎも少なすぎもだめなのがリン、ってあの人が言っていたの」

 これだけ綺麗に薔薇を咲かせ続けている人が肥料を気にしないことがあるのか。

 とはいえ元々植物をうまく育てることが苦手と言っている人だから、うまくいった肥料と同じものや似たものをずっと買っているのだろう。

 もしくは私が見えていないだけで肥料を色々試して、合わずに咲けなかった薔薇もあったのかもしれない。

 「肥料の話、母に伝えてもいいですか?結構苦労しているみたいで」

 「ええ。全然構わないわ。ただ薔薇の種類にもよるから参考くらいで聞いてもらえると嬉しいわ」

 「わかりました。ちなみにこちらの薔薇の種類って…」

 女主人が首を横に振った。

 「あの人が私の誕生日に、って植えてくれたから実は私も種類がちゃんと分かっていなくて…お母さまのお力になれなくてごめんなさい」

 「大丈夫です!肥料に気を付けているってお話を聞けただけでも!」

 鉢植えの赤薔薇の花びらが一枚。ひらりと土に落ちる。


 「一つだけお願いがあるの。お母さまに肥料の話は構わないのだけど、婚約者の話とかはせずに伝えてほしいの」

 当時の私はただ女性が隣近所に変な噂が立つことを気にしているだけだと思っていた。実際それもあったのかもしれない。

 まだまだ子どもだった私はそれくらいしか考えられなかったし、何より女性の家に招かれなくことがあるのが嫌なことだった。

 「婚約者のことは母には言いません。大丈夫です、信じてください」

 「ありがとう。このことは私たち二人の秘密ね」

 「秘密」

 「アンダー・ザ・ローズ」

 落ちた花びらが風に舞った。

 「薔薇の下には秘密が眠っているのよ」



 あれから数年後。私は大学進学をし、実家を離れた。入学する頃にはまた綺麗な赤を咲かせたあの洋館が火事になったと、母から連絡があった。

 火は奇跡的に洋館と庭だけを焼くだけで済み、飛び火などなく実家は何事もなかったようだった。しかしながら洋館の女主人は火事に巻き込まれて亡くなってしまった。あれだけ良くしてもらった人が亡くなった知らせに私はどうしもない悲しみが押し寄せた。

 母は電話の向こうで続けた。

 「あんた、あそこの人と仲良かったでしょ」

 「うん」

 「あそこってあの人の一人暮らしだったわよね?」

 「そうだよ。高校卒業の時にも挨拶行ったけど、一人暮らしだったよ」

 「そうよね…」

 「何かあったの?」

 「火事の焼け跡からね。女性のご遺体と、もう一人分。誰のか分からない白骨が出てきたんですって…。うちは隣でしょ?警察が何か知らないかって聞きに来たのよ」

 「もう一人分の骨…」

 「しかもね。もう一人分の骨、欠けている部分や無くなっている部分があったんだって」


 母からの言葉を聞いて私は気づいた。

 中学の頃に見せてもらった鉢植えにあった白い小さな塊。あれはその何者かの骨だったのだと。人骨にはリンが含まれている。土に置かれた白い塊はリンの補給のために置かれた人骨だったと。

 アンダー・ザ・ローズ。薔薇の下に眠る秘密。あの綺麗な赤い薔薇の下に眠っていた秘密とは、いなくなった婚約者に関する秘密であったと。

 何らかの理由で婚約者は女性の前からいなくなった。そのあと、何らかの事情で女性は婚約者の骨を手元に置くことになった。確保したその骨をあの人は肥料としてきっと使用していたのだ。赤い薔薇の花言葉は“愛情”や“情熱”。失っても消えない熱が女性にそのような行動を取らせたに違いない。

 あの日、あの女主人が見せた哀しい笑顔は忘れられない過去に身を焦がされている人の笑顔。今になって分かった。今だから分かった。

 まさしく薔薇の下には誰にも言えない秘密を埋めて、その秘密があれほどに綺麗な赤い薔薇を咲かせていた。

 「ちょっと聞いてる?」

 思考を飛ばしていたせいで、電話の向こうの母の言葉を聞き流してしまっていたことを咎められた。

 あの日聞いた話を今伝えることもできる。

 けれども、私の口は秘密を掘るのを拒んでしまった。あの日の約束は私の中で明かしてはいけないものになっていたのだ。

 「聞いてる聞いてるよ。ちょっと誰かいたりしたか思い出してただけ。でも私がお邪魔した時はいつも一人だったし、誰かと一緒にいた記憶はやっぱりないや」

 「そうよね…あんたも火の取り扱いには気を付けてよね」

 電話が切れてもまだ実感が湧かなかった。これまでの思い出。気づいてしまった赤い薔薇の秘密。

 どうやって女性は骨を手に入れたのか。そもそも最初に手に入れたのは骨だったのか。

 妄想ばかり進むけれども、今たった一つだけ分かることがある。

 もう女性は赤い薔薇を見るのが辛くなってしまったのだと。だから熱で身を焼く愛と赤い情熱を焼いて、秘密までも消してしまおうとしたのだろうと。


 そして。洋館火事から一年が経った。春休み帰れなかったので五月の連休に合わせて帰省した時、まだ洋館があった敷地は売地のままで残っていた。

 当然だろう。火事だけでなく、誰のか分からない骨まで出てきた土地と知っている近隣の住民は誰も買わない。買おうとも思わない。

 焼けた建物だけは撤去されて鉢植えやフェンスはそのまま残っていたそこは、焼けずに残った薔薇が今年も綺麗な赤い花を咲かせていた。今はあの花が炎より高い熱を持っているように感じられた。



 あの人が消したかった秘密は今もまだ赤い花の下で眠っている。

 いつか埋められた秘密が尽きる日に洋館の赤い薔薇は花を咲かせ続けるのだろう。

 身を焦がした熱が消えるその日まで。


〈終〉

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