伊勢物語異聞3
兵藤晴佳
第1話 交野の桜
ルイーズ・マルタンはフランスからの留学生だ。
日本文学を専攻していて、日本語も恐ろしく達者だ。
10歳の頃から篤志家からの奨学金で、猛勉強していたらしい。
僕は大学の文学部3回生で、ひとつ年下になる。
なんとなく大学に入って、なんとなく勉強している。
もう冬になり、桜の花が咲く頃になれば就職も考えなければならないのに、この先、どうしたいのかは自分でも分からない。
目の前は、まるで花曇りの空のようだ。
そんなところを見抜かれたのだろうか
同じゼミに入っているだけなのに、どうしたわけか彼女に目を付けられ、ことあるごとに議論を吹っ掛けられて困っている。
今日も講義の後、ラウンジで議論を吹っ掛けられた。
「伊勢物語のここ、分からない」
ルイーズは片手でテキストを開いた
むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。
もう一方の手は、ポケットに伸びかかった僕の手を抑えている。
いつもの、「スマホ検索禁止」のサインだ。
もっとも、そう来るだろうと予測して、講義の前に調べてあった。
「文徳天皇の第一皇子。母親の後ろ盾が弱いので天皇になれなかった、悲運の御子だよ」
先手を打たれて面白くないのか、ルイーズは栗色の長い髪をかきあげて、次の文を指した。
山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。
それも確認済みだ。
「お坊さんになってここに隠居したんだよ」
指の細いきれいな手が打ち鳴らされた。
驚いて見開いた僕の目の前には、まじまじと見つめ返す緑色の瞳がある。
「そこ! 何で、桜の盛りじゃないといけないの?」
「いや、今でも花見するでしょ」
ルイーズは真顔で尋ねた。
「それが分からない」
日本人の僕には当たり前のことが、フランス人のルイーズには不思議でも仕方がない。
ちょっとでも歩み寄ろうと思って、聞き返してみた。
「じゃあ、何ならわかるの?」
「薔薇」
それが、石造りの古城の庭いっぱいに咲き誇る光景が頭に浮かんだところで、口を挟んできたヤツがいた。
「ああ、ヨーロッパの感覚はそうかもしれへん」
西洋史学専攻の同期、有野常彦だ。
ルイーズが僕にツッコミ入れていると、必ず割り込んできて同調する。
ちなみに出身は和歌山県である。
大学の劇団で役者もやっていて、記憶力は抜群だ。
ルイーズはルイーズで、どうだと言わんばかりの顔で返事をするのだった。
「でしょう?」
あとはお決まりのパターンだ。
常彦が上手にルイーズをエスコートして、僕は議論から解放される。
だが、ルイーズが何かに疑問を持ち始めると止まらない。
次の日は、別の講義が終わった後の教室で捕まった。
「なんでわざわざこんなこと書くの?」
その時右馬頭なりける人を常に率ておはしましけり。時世へて久しくなりにぬれば、その人の名忘れにけり。
名前が分からないなら、親王に仕える右馬頭でいいのではないかというのだ。
そう来るとは思わなかったので、思い付きで答えておく。
「実話っぽくなるからじゃない?」
またツッコんでくるかと思ったら、妙に納得した。
「いるよね、実話じゃないと気が済まない人」
何でも、フランスにいたときの友人がそうだったらしい。
とにかく、ドラマや映画は嘘っぽいと言って見なかったらしい。
「ああ、じゃあアニメもダメなんだ」
僕も見ないほうなのだが、そこで話が合うかと思ったらルイーズはかぶりを振った。
「いや、すっごくOTAKUだった」
オタクは世界共通語らしい。
ルイーズも日本に興味を持つようになったが、その影響を受けるのが嫌で、古典文学に傾倒するようになったらしい。
アニメへのアンチでそこまで、と思ったが、ともあれ、話は弾んだ。
狩は懇にもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。
とりあえず、僕は思いつきで話題を振る。
「いい加減だな」
「いや、お酒飲みたかっただけじゃない?」
古典文学のキャラクターだけでなく、その振舞いにもルイーズのツッコミは厳しかった。
いま狩する交野の渚の家、その院の桜いとおもしろし。
「狩りする気ないでしょ、この人たち」
そこで今度は、僕がルイーズにツッコんだ。
「これ、薔薇だったらどうなる?」
その場の雰囲気には絶対に合わないと思ったのだが、ルイーズのイメージはなかなかに豊かだった。
「郊外の別荘にある薔薇の庭園で昼から飲んだんじゃない」
なるほど、羽帽子をかぶった貴族たちが、狩りの帰りに石造りの屋敷でガーデンパーティを開いていてもおかしくない。
それならと、僕は次の文を指し示した。
その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみ、なか、しも、みな歌よみけり。
「薔薇かぶったら痛いでしょ」
ルイーズはちょっと言葉に詰まったが、すぐに理屈をひねくりだした。
「イエスはいばらの冠を」
僕は呆れ顔をしてみせる。
「みんなマゾですか」
ちょっと追い詰められて面白くなかったのか、ルイーズはさらに文句をつける。
馬頭なりける人のよめる。
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
となむよみたる。
「名前ないくせに歌なんか」
そこで、またやってきたのはヤツだった。
「在原業平やろ?」
常彦が、僕の勉強不足を遠回しに指摘する。
ルイーズはというと、好奇心を剥き出しにした。
「誰それ」
常彦はさらりと、僕も聞いたことのある歌を一首詠みあげた。
ちはやぶる 神代も聞かず竜田川から紅に水くくるとは
ルイーズが首をかしげる。
「ちはやさんがどうかしたの?」
話を横取りされまいと、僕は混ぜっ返した。
「落語じゃあるまいし」
だが、それはルイーズをさらに混乱させた。
「言ってることがよく分からない」
すかさず、常彦は誘いにかかる。
「知りたいんやったら、かるた部の正月イベントに来ん? 百人一首」
ルイーズは目を輝かせた。
「やってみたかった、それ」
クイーン目指そうよ、と囁いた常彦は、またしてもエスコートについた。
それが気になっていた僕は、次の日、一日中ルイーズを探したが見つからなかった。
夕方になって、ラウンジのテーブルで帰りがけのルイーズに声をかけることができた。
「どうだった? 昨日の百人一首」
今さら、と思いながら尋ねてみると、ルイーズは口を尖らせる。
「なんかみんな歌聞いてない」
それはそうだろう。
上の句の決まり字である「むすめふさほせ」その他を聞いた瞬間、下の句を素早く弾き飛ばすゲームなのだから。
だが、競技ルールを説明する前に、ルイーズはテキストを開いていた。
また、人の歌、
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
やはり、桜の歌だった。
ルイーズは、身を寄せるようにして聞いてくる。
「誰の歌?」
そのとき、初めて気づいた。
身体に当たるセーターの胸は、けっこう大きい。
「……分からない」
うろたえながら答えて、邪念を悟られたかと焦ったが、ルイーズは割とマシなほうに誤解してくれた。
「勉強足りないだけじゃない」
「ほ、本当に分からないんだって」
とりあえず笑ってごまかしたが、ルイーズは真剣に考えていた。
「散るのがいいっていうのが分かんない、桜」
そのあたりは理屈抜きにわかるのだが、それは言葉にできないということだ。
「はかないのがいいんだけど……」
僕には、この程度の説明が限界だった。
返ってきたのは厳しいツッコミではなく、まじめな問いかけだった。
「それでいいの? 人生って」
今度は、僕が答えに詰まる番だった。
だから、いつもは邪魔な、ヤツの登場が今日ほどありがたいと思ったことはない。
「人生は薔薇色の方がええな」
口ごもる僕に退屈していたのか、ルイーズは満面の笑顔で立ち上がる。
「Oui,La vie en rose.」
薔薇色の人生。
並んでその場を立ち去る二人は、なんだか追いかけられない雰囲気だった。
残された僕は、普段は考えたことのない人生のことなどをとめどなく考えて、その日を過ごす羽目になった。
テキストの、続く文章を何とはなしに読み返しながら。
……とて、その木の下はたちてかへるに、日暮になりぬ。
面白くなかったので、その晩は飲みに出た。
冬の空は晴れ上がって、街中でも深夜は暗い空を満たす一面の星を見上げることができる。
ダウンジャケットの懐に手を突っ込んで下宿への道をふらふら歩いていると、街頭に照らされた道の向こうから聞こえてくる声がある。
御供なる人、酒をもたせて、野より出できたり。
この酒を飲みてむとて、よき所を求め行くに、天の河といふ所にいたりぬ。
僕の方へ歩み寄ってくるのは、長いコートを着たルイーズだった。
「あいつと一緒じゃなかったの?」
よく考えればものすごい思い込みだ。
ルイーズも怪訝そうに答える、
「そういう仲じゃないから」
僕たちはそのまま、なんとなく冬の空の下を歩いた。
ルイーズは白く凍った息を吐きながら暗唱する。
親王に馬頭おほみきまゐる。
親王ののたまひける、「交野を狩りて、天の河のほとりにいたる題にて、歌よみて杯はさせ」とのたまうければ、かの馬頭よみて奉りける。
続く歌は、僕もあれから続きを何度も読んで覚えていた。
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ 天の河原に我は来にけり
その続きは、こうだ。
親王歌をかへすがへす誦じ給うて返しえし給はず。
だが、僕たちは二人で歌を繰り返した。
気がつくと、下宿が見えてきた。
ひとり用のワンルームマンションだ。
じゃあね、とルイーズがつぶやく。
だが、夜も遅い。
ルイーズひとりで帰すわけにもいかなかった。
僕の下宿は、別に人が泊まっても大家にうるさいことは言われない。
胸が高鳴り、寒い風の中でも身体が熱くなる。
すぐ隣を、ルイーズがぴったり寄り添って歩いている。
下宿に帰る前に、決断しなくてはならなかった。
だが、それはいらぬ心配に変わった。
常彦が、僕の下宿の前で待っていたのだ。
ルイーズが、再びつぶやいた。
紀有常御供に仕うまつれり。それがかへし。
それを受けて、常彦が暗唱した。
一年にひとたび来ます君まてば 宿かす人もあらじとぞ思ふ
僕が泊めるまでもない、ルイーズは送っていくから、と言うことなのだろう。
それが面白くなくて、僕は二人を部屋に招いた。
「飲み明かすぞ!」
おー、とノリと勢いの返事で始まった宴会は、ルイーズが文学談義を始めたために討論の場となった。
かへりて宮に入らせ給ひぬ。夜ふくるまで酒飲み物語して、あるじの親王、ゑひて入り給ひなむとす。
もっとも、酒が入っているのに真面目な議論などできるはずもない。
僕は茶化しにかかった。
「飲んでばっかりだな、この話」
言い出しっぺのルイーズも、いい加減、酔いが回っていたらしい。
物語の内容にかこつけて、とんでもないことを言い出した。
「私も寝る……」
目はもう、とろんとしていた。
眠気で身体が揺れると、豊かな胸もそれに従う。
思わず見とれて、はっと気づいた。
おい、ちょっと待て!
酒の入った男2人の前で?
そりゃ、いくら何でも危険じゃないのか?
だが、それを口にしたら、下心があると誤解されても文句は言えない。
とっさに、僕はテキストを手に取った。
十一日の月もかくれなむとすれば、かの馬頭のよめる。
あかなくにまだきも月のかくるるか 山の端にげて入れずもあらなむ
寝るな、と言いたかったのだが、ルイーズはそのまま、しどけない姿で横たわる。
まずい。
このまま朝を迎えるしかないが、それで何もなかったとしても、僕たちを見る目が変わりはしないだろうか。
僕にしても、常彦を信じないわけではないが、一抹の不安と警戒心から、眠ることもできないのだった。
常彦はどうだろうか。
ちらりと様子をうかがうと、それに気づいたのか気付かないのか、まるで芝居の一場面を演じるかのように、続きを暗唱しながら立ちあがった。
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峯もたひらになりななむ 山の端なくは月もいらじを
そのまま、酔いに任せるかのようにふらりと外へ出る。
引き留めようとした僕に、常彦は教えてくれた。
ルイーズが10歳で奨学金を得たのは、もちろん優秀だったからだ。
だが、篤志家の目に留まったのは、その境遇による。
あの、パリで起こったテロによる犠牲者の中に、彼女の両親もいたのだ。
爆発と銃撃によって家族を失ったルイーズは施設に引き取られた。
その不幸な境遇を補うかのように、その才能は文化芸術の方面に著しく発揮される。
だが、敢えて日本の古典文学に興味を持ったのには理由があった。
僕は、心のどこかに引っかかっていたことを尋ねてみた。
「オタクが嫌いだからじゃない、とすると?」
ちょっと飛躍しすぎていたルイーズの理屈を、常彦は解き明かしてみせた。
「あのテロは、文化の衝突の結果だったと彼女は思っている。薔薇へのこだわりは、西洋への疑問そのものといえるかもしれんなあ」
だから、桜だったのだ。
未だ衝突を知らない、日本の文化の象徴ともいうべき……。
「お前の、その何かぼんやりしたところが、桜みたいなんだとよ」
そう言い残して、常彦は出て行った。
こうして、僕はルイーズと二人きりになる。
まんじりともしないで迎えた朝の光の中で、目覚めたルイーズは微笑した。
挨拶の代わりに、囁きかける。
「Oui,La vie en rose.」
そのとき、僕の心の中で、花曇りの空が晴れたような気がした。
伊勢物語異聞3 兵藤晴佳 @hyoudo
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作者
兵藤晴佳 @hyoudo
ファンタジーを書き始めてからどれくらいになるでしょうか。 HPを立ち上げて始めた『水と剣の物語』をブログに移してから、次の場所で作品を掲載させていただきました。 ライトノベル研究所 …もっと見る
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