お題小説

第六感

矢印は指さない(お題:ナチョス)

 サユリさんが連れてきてくれた店はナチョスが有名だとかで、テーブルには僕とサユリさんしかいないっていうのに、机の半分をも占めそうなくらいの大皿がサーブされた時はびっくりしてしまった。“僕”はサユリさんの前で格好つけるのも忘れて小さく歓声を上げる。平たい白い皿の真ん中に盛られた、とろけたチーズのかかったナチョス。その周りをトッピングの入った小皿が囲んでいる。“僕”はこういう小洒落た店に来ることなんか、サユリさんに誘って貰わなければほんとんどないから、サルサソースをつけるのにも、ワカモレをディップするのにも、一々サユリさんにこれってなんですか、あれってなんですか、と訊いてまわるので、ついにサユリさんは声をあげて笑った。

 “僕”は少し恥ずかしくなったけど、サユリさんのその笑い方がなんの屈託もなかったので、ちっとも嫌な感じはしなかった。それに、サユリさんが笑うと、ぷっくりした涙袋がきゅっと盛り上がって目が猫みたいに細まるのを、好ましく思っていたのもある。サユリさんは僕よりいくつか年上なだけのはずなのに、実際の年の差よりもずっと大人びたお姉さんと話してるみたいな気分になることが、結構あった。サユリさんは童顔で、僕と同じくらいか、もしかしたら年下みたいに見えることもあるのに、僕は時たま少年みたいにドギマギさせられてしまう。

 この時もそうだった。サユリさんは目を細めたまま僕を見ていて、そのままちっとも目を逸さなかった。ともすると、かち合った視線がいつまでもそのままになりそうなほど長い一瞬を、僕らは見つめ合うような形になった。根負けしたのは当然僕の方が先で、サユリさんから目を逸らした僕は心を落ち着けるために、慌ててビールを一口含んだ。綺麗な泡が傾いで、するする喉へ滑っていく。たぶん、美味しいのだと思う。味はよくわからない。ただきっと、“僕”が普段飲んでいるビールよりは上等なんだろうってことはわかる。グラスもジョッキじゃなくて、縦に長い曲線の綺麗なグラスだ。僕は表面が結露したグラスを取り落とさないように気を配った。テーブルの上にそれを戻す時にも、コルクのコースターに染みた円形の水滴の跡とずれないように、そっとグラスの底を重ねるようにした。

 サユリさんは“僕”のそういう一挙手一投足を目に留めては、何かとにこにこしている。元々愛想のない人ではないけれど、こんなに雰囲気のやわらかいのは珍しい。サユリさんは職場だと頼り甲斐があり、つまりデキる女という感じなので、どちらかというとクールな印象を抱くことが多い。だから、こんなふうに少女みたいに笑うサユリさんはちょっと見慣れない。店の照明の下では、笑うサユリさんが童顔なのが殊更目立った。口元を隠すサユリさんの丸いネイルが、淡いピンクに光っている。

 僕は、それでなんだか気が抜けてしまった。緊張が酒でぬるんできたのもあるかもしれない。僕はナチョスをつまんでは、他愛もない話をすることができた。サユリさんも、ハラペーニョやサワークリームをトルティーヤに乗せては、家で飼ってるハムスターの話とか、趣味の料理の話だとか、一体職場の何人の人がこんなサユリさんのことを知ってるだろうってことを話してくれた。僕らはお互いの話題の一つひとつに頷き返して、そうしているうちに、微睡の中にいるみたいに熱っぽい心地よさに包まれていた。サユリさんの声音も、酔いも手伝ってか随分とまどろっこく舌足らずになって来ている。

 会話のテンポはだんだんと遅くなっていた。時たま二人の間には沈黙が横たわって、でもやっぱり“僕”はそれを気まずいとは思わなかった。二人の言葉の応酬が店内のBGMと同じくらいゆったりとしてきて、それが遂に途切れそうになったとき、サユリさんはグラスの中のそれを飲み干して言った。

「次のは君に選んで欲しい」

強いやつでも構わないから、と付け足して、サユリさんは半ば机に突っ伏すようになりながらグラスを置いた。サユリさんはそれらの台詞を何気なく言ったようでいて、実際のところ何気なさを装うのに失敗していた。たぶん、サユリさんは今、何か心の中にあるものを勇気を以って乗り超えて、それを口にしたのだと思う。言葉の中に、酔いのためではないぎこちなさがほんの一瞬混ざったのがわかった。

 僕は咄嗟には何も言えなかった。サユリさんも顔を伏せたままでいる。“僕”の返事を、サユリさんはじっと待っている。その胸の鼓動が、今どのくらいの速さなのかが気になって、こっちの心臓まで脈打つのを感じていた。僕は最近のサユリさんのことを思い出していた。たまにサユリさんに誘われてランチを食べたときのこととか、僕の所為で残業する羽目になって、誰もいない会社の戸締りを二人でしたこととか。サユリさんはいつでも優しい。

 最初は、仕事のできる人だな、とか、頼りになる人だなとかそれだけだった。けれど、甘いものが極端に好きなところとか(本人は気づかれていないと思ってるけれど)、地方のよくわからないゆるキャラを推しているところとか、サユリさんのことを知っていくうちに、可愛い人だなって思うこともあったような気がする。

 そんなサユリさんが今、自分が次に飲むお酒を“僕”に選んで欲しいと言っている。サユリさんは顔を伏せたままだから、表情まではわからない。でも、髪の間から覗いた耳が真っ赤だ。それが酒によるものか、それ以外の理由があるのかわからないけど、どっちだってたぶん同じことだ。だけどサユリさんの真意に気づかないふりをすることだってできる。――僕はどうする?


 

 ――携帯のアラームが鳴って、液晶を窺うと先輩からの着信だった。薫はセーブもせずにゲーム機の電源を落とすと、腕を組んで大きく伸びをした。ふと時計をみると、もう宵の口と言って良い時刻だ。そういえば部屋の中にも随分薄闇が侵入している。夜の暗さを吸ったみたいに青く沈んだ窓硝子が、外の冷気を伝えてくるようで、薫はコントローラーを半ばベッドに投げるように置くと、カーテンを引いて閉めた。立ち上がったついでに、着信音が鳴りっぱなしのスマートフォンを手に取り、画面をスライドして耳に寄せる。

「薫、起きてる?」

 予想通りのハキハキとした声音に、薫はやや辟易とした。先輩は今もまだバレー部だったころを引きずっているみたいに、大きく明瞭な発声をする。普段なら好ましく思うその声も、日がな一日ゲームをしてぼやけた頭ではちょっと面食らってしまう。

「起きてますよ。寝てたら出られないでしょ」

言った薫の声は少し嗄れていた。丸一日働いていなかった声帯がかろうじて震えて出した音だ。先輩は、「その割には寝起きみたいな声だね」と呆れたみたいに笑う。

「まあいいや。報告したいことがあってさ、暇なら飲み行こうよ」

先輩の鷹揚な誘いを、薫は訝しんだ。報告したいこと?薫は漠然と天井を眺めながら逡巡して、大体の当たりをつけた。――まあ、大方結婚するだとか、そんな話だろう。先輩は今の彼氏とはそこそこ長かったはずだ。同棲を始めたのだって随分前のことだし、年齢から鑑みてもそろそろと言ったところだろう。別れたという可能性もなくはないけど、さっきの先輩の口調はいつにも増して明るかったし、まあないだろうな。それならやっぱり、結婚か。

 そんなことをぐるぐる考えながら、結局、薫は先輩の誘いに乗ることにした。薫の返事を聞いて、先輩が電話越しに微笑んだ気配がする。店の名前と概ねの集合時間を簡潔に告げると、先輩は颯爽と電話を切ってしまった。

 薫は、初めから一人だったのに、通話が切れると途端に淋しい、心許ない気分になった。ベッドに仰向けに寝転がりながら、カーテンとカーテンレールの隙間から溢れる街灯の灯りを眺めていた。人が人のために作った明かりのはずなのに、蛍光灯の白々した光はどうしてこんなに冷たく感じるのだろう。窓の外は無音のようでいて、しっかり耳を澄ましていればかすかに風の音がしているのが聞き取れた。しばらくそうしたあとで、ようやっと薫は立ち上がる。先輩の指定した店はそう遠くはないけれど、メイクし、着替えなければならないのなら、そろそろ支度をしなくては間に合わない。


 先輩はタートルネックとグレーのパンツに細身のコートという出立ちで現れた。シンプルな服装だが、元々の高身長に加えて化粧をしっかりとしているので、それなりに様になっている。対して薫はトラックジャケットにデニムというカジュアルな格好だ。先輩と会うのに身綺麗にしすぎるのはなんだか面映いし、身構えているように思われるのは嫌だったのだ。いつものことなので、先輩は薫のラフな格好には特に言及せずに軽く挨拶を交わしながら、店の敷居を跨ぐ。

 店の中は暗かった。かなり照明を落としているが、その分温かみのある色の明かりが心地よい。木枯らしで冷えた身体が、暖房と人いきれとでじんわり表面から温まっていく。二人掛けのテーブルに案内され、薫が入口側の席に座り、先輩は奥の席に座った。テキパキとコートを脱いだ先輩は、早速適当なアルコールとつまみ、サラダなんかを注文する。薫はなんとなくメニューを眺めていたが、そこにナチョスの文字を発見して思わず小さな声を上げた。あ、ナチョスだ。さっきも食べたな。ゲームの中でだけど。それを聞いた先輩はちょっと笑って、ナチョスを追加注文する。別に食べたいわけではなかったのだけど、と薫はやや気恥ずかしく思った。

 ほどなくドリンクが運ばれてきて、それから幾ばくもせずにサラダの類が届いた。ナチョスはさっき薫がプレイしていたゲームの中のものよりずっと少なく、チープですらあった。駄菓子みたいなトルティーヤチップスに、サルサソースとチーズの小鉢が申し訳程度に添えられている。初めてきた店という訳でもないからわかっていたけれど、かなり気軽な店だ。今日流れている音楽も、流行りに疎い薫ですら聞いたことのあるようなポップスだった。まあ先輩と飲むのにそんな洒落た店である必要もない。デートじゃあるまいし。それでも店内はそれなりに混みいっていて賑やかだった。客層は学生みたいな若者から中年まで様々だが、男女客はやや少ないように見える。料金もリーズナブルだし、人入りの割には商品の提供も早いので、薫はこの店をまあまあ気に入っている。

 立て続けに料理が運ばれてきたので、二人掛けテーブルはあっという間に狭苦しくなった。薫はなんとなく肩をきゅっと寄せながらビールのジョッキを掴むと、先輩のそれと打ち合わせる。冷たいガラスの縁に口をつけ、流し込めば、ヴァーチャルでは味わえないいつもの味だ。先輩も美味しそうに喉を鳴らしている。乾杯してしばらくしても、先輩は例の“報告”の件を切り出しては来なかった。会話はじれったく何度も遠回りをし、薫は話したくもない仕事の近況や最近のゲーム浸りの休日について話すことになった。

 二杯目のグラスが空いたときになって、会話の間がもたず沈黙が訪れた時、先輩はようやく観念したようだった。報告したいって言ったことなんだけどさ、と、切り出した口調がいつになくまごついていて、薫はうん、と頷きながら、焦らされているようで落ち着かなく思った。先輩らしからぬ様子に動揺する。なんとなく結婚報告だと思っていたけれど、なんか先輩言いづらそうだし、違うのかな。破局したのだったらどうしよう。お祝いの言葉の準備はしているけれど、慰めの準備はしていないぞ。と言ったふうに。しかし先輩は、そんな薫の動揺も知らずに勝手に腹を決めたような眼差しをして、満を持して言った。

「実はね、結婚することになった」

 一瞬、薫の心の中に静寂が訪れた。奇妙な凪だった。

 ――なんだ、やっぱり結婚するんだ。

 理解が追いついたそのとき、胸に込み上げた感情の正体を、薫は自分で嫌になるくらい明確に把握した。口を開けば何を口走ってしまうかわからない、と反射的に察して口を固く噤む。少なくとも、準備していたお祝いの言葉ではないのは確かだ。

 喉元まで出かかった言葉を押さえつけるために、薫は唾を飲み込もうとして、自分の口内が渇き切っているのに気がついた。ジョッキを掴んで、ビールを流し込む。喉奥からアルコールを飲んだ時に特有のひりついた呼気が上がってくる。薫は、吐き出した息をもう一度吸って、かろうじておめでとうございます、の十文字を発音した。先輩は薫の違和に気がついた様子もなく、それだけ?と言って笑う。一応ながら返された祝いの言葉に安堵したようだった。薫は、先輩の満足そうな笑顔を見て、鼻の奥が重たくなるのを感じた。酔いが回ったのかと思ったが、違う。泣きそうなんだ。

「薫に聞いてもらってよかったよ。最初に言ったのは親だったけど、本当は薫に一番に聞いて欲しかった」

 薫は呼吸が震えてしまわないように気をつけながら、遠慮の塊のように数枚残っていたトルティーヤチップスを一枚口に放り込み、噛み砕いた。すぐそこまで迫っている嗚咽を誤魔化すためだった。口の中でばらばらになったそれの先端があちこちに当たって痛い。先輩は酔いのためか、照れ臭さのためか、熱を持って赤い頬にグラスを当てて冷やしている。薫の無言を不思議に思ったふうもない。先輩の中ではもう結婚報告は済んだ話で、枝豆なんかつまみながら早速次の話題に移ってしまおうとしている。照れくさいから早く話題を変えたいのかもしれなかった。でも、薫は違う。置いてきぼりだ。テーブルの下で、スニーカーの中の爪先がきゅっと丸まる。ずっと受けた衝撃がぐるぐる頭の中を回って、回っていくたびに増幅してるみたいでくらくらする。反対に、言いたいことを言い切って、胸の支えが取れたようにこざっぱりした表情の先輩は、薫の様子を見て無邪気に言う。

「なんでさっきからなんもつけないで食べるの?遠慮しないでいっぱい食べなよ」

薫はもう、耐えきれそうになかった。その問いを無視して、薫は咀嚼したものを飲み込むと、トイレに行って来ます、とほとんど言い捨てるみたいにして席を立った。

 

 店のトイレはやっぱり暗く、しかも時間が遅いためかあまり清潔感がなかった。扉を閉めると店内BGMや客の話し声なんかが遠ざかる。それが酔いのふわふわした感じと相俟って、なんだか水の中にいるみたいな気分になってくる。先輩から逃げて、人の目から逃れて、ようやく水の中で孤独を手に入れたみたいに思えた。それで薫は安心して、ずっと押さえつけていた嗚咽を吐き出した。驚いたことに、えーん、みたいな、恥も外聞もない子どもじみた泣き声が飛び出して、薫は我ながら呆れた。泣くのは随分久しぶりだったけど、薫の身体はやり方を忘れていなかった。馬鹿みたいにぼろぼろ涙が出て、でも頭のどこかは冷静に、瞼を腫らして先輩に泣いていたことがバレたらどうしよう、とか考えていた。

 ――先輩、結婚しちゃうんだなあ。

 先輩は薫のことを親以外に呼び捨てにする、唯一の人だ。高校のバレーボール部の先輩で、でも、同期よりずっと仲良くなった。大学に入ってからは距離が空いた所為で少し疎遠になったけれど、就職先が近かったから、二人はまた学生時代に戻ったみたいに親しくなった。いや、ともすれば学生の時よりずっと親密になったかもしれない。家族とも友達とも違う先輩との関係は、ずっと薫にとって特別だった。

 薫たちの部はあまり強くなかったけれど、バレーボールをしてたときの先輩は強くて綺麗だった。スパイクを打つ時なんて、長い手足がしなって、背筋が伸びやかに沿って、空中で止まって見えるくらい高く跳んだ先輩は野生の動物みたいにしなやかで格好良かった。先輩の掌底が弾いたボールは面白いくらい先輩の意思に従って、コートの狙ったところに吸い込まれるように落ちるのが不思議だった。先輩は強かったし、誰よりバレーを楽しんでいたように思う。少なくとも、薫の目にはそう見えた。それで、薫は先輩のことが好きになったし、結局、今でも好きだった。

 薫はトイレットペーパーを巻き取ると、それで思い切り鼻を擤んだ。涙はもうほとんど枯れていたが、胸がまだしゃっくりするみたいに痙攣している。薫は深呼吸をして、自分の心を落ち着かせることに努めた。嗚咽の通ったあとの気管が、深呼吸を行うたびにヒリヒリしている。洗面台に備え付けた鏡の中の、痩せ型の茶色く髪を染めた女と目が合った。老けたなあ、と薫は思う。さっきまでやっていたゲームのことを思い出す。昔、サユリさんは年上の女の人って感じのキャラだと思ってたけど、たぶん今の薫と同じくらいの歳だ。先輩が女子高生じゃなくなったのと同じスピードで、薫も歳を取っている。当たり前に。

 ――先輩が結婚する、と聞いた時、胸に湧いた気持ちはいろいろあった。もしかしたら彼氏と別れるんじゃないかって期待していた自分への嫌悪感とか、やっぱりねっていうわかりきった絶望と(わかりきっていても絶望は絶望だった)、後は諦観とか。結婚したところで、相手の男は薫の知っているあの時や、あの時や、あの時やあの時の先輩のことも知らない癖にっていう、優越感もある。でも、それらを押しのけて一番激しく薫を畏れさせた感情の正体は、嫉妬だった。薫にはそれがすぐにわかった。先輩の旦那さんになる人への嫉妬だけじゃない。先輩には選びたい選択肢がしっかりあるんだって言うことに対しての嫉妬だった。そして、その選択肢を選ぶことが、先輩は怖くないんだってことに対しての劣等感によるものだった。

 薫はずっと、自分の選択への責任を取らされている気がしていた。女の身体で女を好きになってしまった責任。先輩を好きになった責任。その気持ちを誤魔化さず、かと言って表に出さず、大事に仕舞い込んで、胸に持ち続けることを選んだ責任。でももう、薫は本当は責任なんて取りたくなかった。どんな痛みであっても、自分で選んだのだから、と自分を納得させることに疲れていた。結婚も妊娠も家庭のことも考えたくないし、だからと言って独りで生きることも選びたくはなかった。自分の人生について何も考えたくはない。生きていたくないけど、死ぬことも選べないから生きているだけだ。選択の自由なんて要らないから、ベルトコンベアみたいに、早く私を終わりまで連れて行って。それができないなら終わりの方から早く迎えに来て欲しい。

 将来の話なんて嫌いだし、どこかの店の店員に「お茶にしますか、コーヒーにしますか」なんて聞かれるのでさえうんざりした。例えば金を貯めることや、美容に金をかけることや、自己啓発に精を出すこと。そういう日々の細々とした選択の一つひとつの全部が、どっちだって良かったし、どうでも良かった。だってどっちを選んだって別に嬉しくもなんともない。薫の欲しいものは手に入らない癖に、取りたくもない責任だけ取らされているという不満だけが残る。つらいのは、苦しいのは、それを選んだ自分の所為なのだという理屈に、薫はこの先も納得できそうになかった。薫は自分の人生を選んで進んできたという自覚はない。望んで歩いて来たのではない。薫にはそれしかなかっただけだったのだから。

 ふう、と肺の中にある空気を全て吐き切ると、逸っていた心臓の拍動が少し落ち着いた。薫は、泣き止むことが上手いのは自分の長所かもしれないと思った。少なくとも自分にとっては役に立つ能力だ。涙が完全に止まってしまうと、マスカラが滲んでいないかとか、アイシャドウがよれてしまっていないかが気になったが、別にどうでもいい、と薫は開き直る。いくらメイクが上手になっても、ネイルにお金をかけても、例え整形したとしても、先輩の気が引ける訳じゃない。薫は、涙と鼻水とでくしゃくしゃになったトイレットペーパーをさっさと流してしまうと、しっかりと手を洗った。汚れを落としさえすれば何もなかったことになる、と信じているみたいに。

 ふう、ともう一度呼吸を整えるための深呼吸をして、薫は先輩の前では飲み込んだはずの言葉を吐き戻す。

 先輩、結婚なんかしないで。お願い。

 ギャルゲーの主人公みたいに、正しい選択肢を選べば先輩を手に入れられる人生が良かったなあ。


 席に戻っても、先輩は特に何も言わなかった。随分と長い間席を外していたつもりだったけど、スマートフォンで時刻を確認すれば、薫の思うより時間はたっていないことがわかった。おかえり、と言って先輩は薫を見る。トイレで鏡を確認して来たが、薫の瞼は腫れていなかった。鼻の頭が少し赤くなっていたけれど、アルコールが回って顔全体が赤らんでいるので、まあ誤魔化せるだろう。目を合わせても、先輩は特に不思議がった様子もない。居酒屋の暗い照明の下で見る先輩は、化粧によって作られた偽物の凹凸ではなく、彼女の素顔の持つ、本来の凹凸が浮き彫りになって、まるで高校生のときの先輩みたいに見えた。別に全然美人って感じじゃない。でも可愛い。彼女の顔に落ちる影のひとつ一つが、余すところなくその素顔のおそるべき細やかな凹凸によるものであること、それが酷く愛おしい。もう一度すっぴんの先輩の顔が見れたら良かったな、と薫は惜しく思う。

「先輩。先輩の彼氏って優しい?」

席に座りながら訊くと、先輩はきゅっと目を細めて笑った。唇と唇の隙間から、白い歯先がのぞいている。それが本当に可愛い笑みだったから、薫はもう全部どうでもいいか、と思えた。呆気ない。薫が手持ち無沙汰に湿気てしまったナチョスをつまむと、先輩は酒が回って気怠いのだろう、頬杖をつきながら言う。

「やっぱりそのまま食べてる。ソース余っちゃうじゃん」

素材の味が好きなんです、と誤魔化しながら、薫は口の中のものを咀嚼する。たぶん、トッピングを載せたものと比べたら無味に近いくらいの味だ。硬いだけで、なんとなくしょっぱいような辛いような気がする程度の味。次はチーズをかけるか、とか、サルサソースにするか、とか、そういう選択を楽しめない人間のために用意された、素っ気のない味だ。

 でも、別にこれはこれで悪くない味だな、と薫は思い、最後の一枚を口の中に放り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お題小説 第六感 @eyes0933

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ