第7話 静寂に灯る一夜

 買い物を終え、町の賑わいも静まり始めた頃、鳴と日向は宿屋に足を運んだ。宿屋は町の中央にある二階建ての木造建築で、赤い暖簾がかかった入口が迎えてくれる。外観は少し古びているが、木製の扉や藁葺きの屋根には歴史を感じさせる風格があり、表には「一泊二百文」と書かれた木札がかかっている。


「ここで一晩休もう。もう夜も遅いからな。」


日向が宿の扉を開けながら言った。


「一晩?」


鳴は首をかしげながら日向を見た。


「学院までまだ距離があるし、夜道は危険だ。」


「ふーん。」


鳴は特に興味があるわけでもなさそうに肩をすくめ、泳を抱えたまま日向の後をついていった。


中に入ると、畳敷きの広間にはいくつもの行灯が灯り、夕飯を囲む旅人たちの笑い声が響いていた。囲炉裏には鉄鍋がかけられ、湯気とともに醤油や味噌の香ばしい匂いが漂ってくる。女将や若い手伝いが忙しなく動き回り、料理を運んだり、宿泊の準備を整えたりしている。天井は煤で黒ずんだ木の梁がむき出しになり、裸電球の明かりが薄暗く部屋を照らしていた。

鳴は目を細めながら室内を見回した。落ち着かないというよりは、初めて見る光景を観察しているような視線だ。


「いらっしゃい!今夜はお泊まりですか?」


女将が気さくな笑顔で迎えてくれる。髪を布でまとめた彼女の手は、湯気の立つお盆を運ぶ途中らしく、袖は少し濡れていた。


日向が鳴の肩を軽く叩いて、「二人分、頼む」と簡潔に伝えると、女将はちらりと鳴に視線を向ける。


「若旦那さん、こんな夜に可愛らしいお嬢さんと二人っきりで旅なんて、さては.....何をするつもりなんだい?」


女将は顔を覗き込むようにして、口元をニヤリと歪めた。その表情には疑いというよりも、まるで悪戯を仕掛けた子供のような楽しげな色が浮かんでいる。


「.....お嬢さんじゃない。」


鳴が素早く、不満げに反論する。

女将は驚いた顔をしたあと、クスクスと笑った。


「冗談さ、冗談。でも、あんたみたいな年頃の娘さんが若い男と夜道を歩くなんて、そりゃ旅人だって驚くもんさ。兄妹ってわけでもなさそうだ。」


その言葉に鳴はさらに何か言いたそうに日向を横目で見たが、日向はどこ吹く風といった顔で小銭を差し出した。


「それと飯も頼む。」


女将は日向の態度にますます興味をそそられたように口元を緩めたが、あっさりと頷き、

「はいはい、お代はいただいたよ。お部屋は二階の奥、案内するよ。」と言いながら歩き始めた。


案内された部屋は二階の隅にある四畳半程度の小部屋だった。畳は薄く、端は少し擦り切れているが、布団とちゃぶ台が一式揃っている。窓は小さく、隙間風が冷たく頬に当たる。


「狭苦しいかもしれんが、今夜はここで我慢しろ。」


日向が布団に腰掛けると、鳴は部屋をじっと見回しながら一言、「うん。」と呟いた。その素っ気ない返事に、日向は少し苦笑する。


やがて宿の奥から夕餉の支度が整ったと声がかかり、日向と鳴は広間に向かった。他の旅人たちと肩を並べて座ると、熱々の煮物と炊きたての白飯、焼き魚が運ばれてくる。

囲炉裏の火が部屋全体を柔らかく照らし、湯気がほのかに光る。


女将が自慢げに卵焼きを囲炉裏の端から持ってきて、鳴の前にそっと置いた。


「うちの卵焼きはね、甘めに仕上げてあるんだ。旅の疲れもこれで少しは癒えるよ。」


鳴はちらりと女将を見てから、無言のまま箸を手に取り、卵焼きを摘む。そしてそっと口へ運んだ。


柔らかく、ふんわりとした卵焼きが口の中でとろけ、ほんのり甘さが広がる。鳴の瞳が一瞬大きくなり、僅かに輝いた。


「気に入ったか?」


日向が軽い調子で尋ねると、鳴はためらう様子もなく、静かに頷いた。その反応に日向は少し驚いたように目を開き、すぐに笑みが浮かべた。


「そりゃ良かった。」


日向が茶碗を手に持ちながら目を細めるのを横目に、鳴は黙々と卵焼きを食べ進める。


続いて、小鍋の野菜の煮物に箸を伸ばした。柔らかな大根と人参が甘辛い味噌の味を含み、じんわりと体が温まる感覚が広がる。焼き魚も骨を上手に外しながら食べ、炊きたての白ご飯がさらに進む。


女将が囲炉裏の横で楽しそうに見守りながら、日向に声をかける。


「これだけ美味しそうに食べてくれると、作り甲斐があるよ。」


「そうだな、よっぽど気に入ったみたいだ。」


日向が何気なく答えると、鳴はちらりと視線を日向に向けたが、特に反論もせず再び料理に集中した。


温かい料理を少しずつ平らげ、鳴は最後に白ご飯をきれいに食べきる。日向はその様子を見て、どこか安心したような表情で湯飲みを口に運んだ。


「宿の飯も悪くないだろ?」


日向の問いに、鳴はほんの少し間を置いて、

「.....うん。」と静かに頷いた。それ以上は言葉を発しなかったが、満足した様子は表情の端々に現れていた。


夕食を終えた二人は部屋に戻り、布団に横たわった。

宿の中は静まり返り、外からは風が木々を揺らす音が微かに聞こえてくる。布団の中で鳴は目を閉じて、じっと身じろぎひとつしない。


腕の中では泳が丸くなり、低い喉の音を立てている。普段ならその音を聞きながら眠りに落ちているはずだが、今夜はそうはいかない。


――ここは安全か?


山で寝泊まりしていた日々、物音ひとつで目を覚まし、周囲の気配に常に気を張っていた。その癖は簡単には抜けない。


日向はすぐ隣にいる。表向きは信用しているように振る舞っているが、実際にはまだ様子を見ている段階だ。何者なのか、本当の目的は何なのか――警戒を完全に解くことなどできない。


目を閉じたまま、耳を澄ます。隣から微かに聞こえる寝息。規則正しいそれが偽りではないことを確認して、鳴は僅かに体を緩めた。


寝たふりを続けながら、鳴は少しだけ目を開け、天井を見上げた。宿の天井は森の葉の隙間から覗く星空とは違う。木の香りがするが、どこか重たく感じられる。


――明日になれば、また新しい場所だ。


そう思うと、少しだけ心が軽くなる気がした。日向のことも、今夜だけは忘れてしまえばいい。息を整え、体を布団に委ねる。鳴の意識は次第に薄闇の中でゆっくりと沈んでいった。







 朝日が街を照らし始めた頃、二人はは宿を後にした。日向はいつもの軽い調子で、旅籠の女将に礼を言い、歩き出す。

鳴は日向の背を追いながら、肩に乗る泳をそっと撫でた。


「学校まではあと三十里半ってところだな。寄り道しなければ、五日後には着けるだろう。」


日向が軽い口調で振り返る。鳴は無言で頷いた。


街路は朝の活気で賑わい始めている。屋台では炭火が赤く燃え、煮炊きの香りが漂う。商人たちの掛け声や、桶を運ぶ男たちの足音が忙しなく響く中、鳴の異彩を放つ容姿に多くの人が足を止めていた。


白銀の髪は朝日を受け、虹色に淡く光を反射している。透き通るような白い肌と黄金色の瞳は非現実的な美しさを持ち、まるで絵から抜け出したような姿だった。肩に乗る黒猫との対比がさらにその存在感を際立たせている。


鳴は周囲の視線に気づくと、不快感を隠すように眉をひそめる。


「おいおい、目立ってるぞ。」


日向が笑いながら言う。だが、そんな視線は意に介さず歩き続ける。


すれ違う人々の中から、ある農夫がぼそりと呟いた。


「まるで雪の精か、白狐の化身みたいだな.....。」


それが耳に入ったのか、日向が少しおどけた声で言う。


「どうだ、雪の精ってのは気に入ったか?」


鳴は日向をちらりと睨み、そっぽを向いた。そんなやり取りをしながらも、周囲の人々の視線は、二人が道を進む間ずっと消えることはなかった。


泳が「にゃあ」と一声鳴き、鳴は肩越しに振り返る。後ろにいた子供たちがじっとこちらを見つめ、こそこそ話しているのを目にした。小さな手で白い髪を真似する仕草に、鳴は一瞬だけ目を細めた。

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