KOHHI ―叩扉―
保坂星耀
第1話
ちょうど、除けておいた一文をどこに挿入すべきか悩んでいた時だ。
高い女の声がしたような気がして私は顔を上げた。もし、もしと声は呼ばわっているようである。耳をすますうちに玄関のガラス戸を叩く不協和音まではっきりと聞こえてきて、私はああと呻いて書いていた小説をパソコンに保存した。
集中していたのがすっかり気が削がれてしまった。掛け時計を見上げれば時刻は夜の二時である。私のルーティンからすると夜はこれからといったところだが、人が訪ねてくるには遅すぎる時間だ。諦めないかと待ってみたものの声はやまず、仕方なく私は文机から離れた。
仕事場にしている和室から廊下に出てみれば、声はいっそう明らかだった。
「もし。もうし」
そればかりを繰り返して、合間に戸を叩き続けている。私が冷たい廊下を急ぎながら、はいはいと応えてもやむ気配がない。せめて来意でも告げれば少しは気が利いているものを、声の主は執拗に戸を叩いてはそれしか言葉を知らぬように「もし。もし」と繰り返していた。
「はい。どうされました?」
三十年ばかりを村で過ごすうちにすっかり毒されてしまって鍵をかけないようになってしまったガラス戸を引き開けると、ようやくそこで声はやんだ。
「暇乞いに参りました」
そう言ってひとつ頭を下げたのはずいぶんと古風な女だった。といっても江戸や明治といった話ではない。顎で切った短い髪へ段々にハサミを入れた髪型――たしかシャギーとかウルフとかいっただろうか、私が若かった頃はこういう頭の女がたくさんいて、ご多分に漏れず妻もこんなように髪を整えていたものだ。年の頃は三十を超えて少ししたくらいか。服装は真っ白なタートルニットに、これも白いフレアスカートを合わせたもので、それぞれには黒い縦と横の線がまるでアートのように織り込まれている。光の中に歩み込んできた足元は、懐かしい厚底のローファーだった。
「暇乞いって」と私は頭を掻きながら言い、そういえば起きてから櫛ひとつ入れてないのだったと思い出して、なるべく自然に見えるよう手ぐしで前髪を撫でつけた。
「長らくお世話になりました」
女はそう言ってまた頭を下げたが、心当たりが私にはなかった。
「ええと。申し訳ないんだけど、どこの人かな?」
「八尾の」と女は言った。
はあ、と私は間抜けな声をあげて村の地図を頭の中に広げた。人口四千人のこの村に引っ越してきたのが約三十年前、それから組合だ寄り合いだと駆り出され、いくつかの本を上梓し、いつの間にやら先生と呼ばれるようになって、村のことで知らぬことはもうないと思っていた。
「八尾というと、どのあたりだろう。畑のあたりかな」
村の南方に広がる畑は土地の呼び方が込み入っていて、役場を境にカミとシモに分けられる区域図では表せない。
「いえ。辺りは工場と、遠くにマンションと。あとは電車が通っていました」
だとすると、この女は村の住人ではない。農業と申し訳程度の林業で成り立っている村は工場だ電車だといった第二次産業の申し子とは無縁だ。バス停ですら村道をずっと西に行ったところにしかなく、ましてやタクシーなど、村内を走った日にはそれだけで噂になるほどである。
「それはまた遠いところから。しかしあれだね、それがどうやってこんな夜更けに。どなたか親戚のところに泊まっているのかね?」
「戸松にしばらく」
戸松というと、村唯一の電気屋の屋号だ。たしか旦那さんと奥さん、ずいぶん前に都会へ出て行った娘さんの三人家族だったと思うが、親戚がいるなんて話は聞いたことがなかった。
「じゃあ、お名前は小川さんか」と、私が戸松電気店の夫妻の苗字を挙げると女は首を横に振った。動きに合わせて毛先が左右に振れ、その頬を優しく叩く。それはいかにも懐かしい光景だった。寸の間、見蕩れた私に女は告げた。
「名が必要と仰せなら、町田というのが相応しいでしょう」
妙な言い方だった。本名を告げては差し支えがあるとでも言うのだろうか。
「じゃあ、町田さん」ともかく私は言った。「わざわざ挨拶に来てもらって申し訳ないんだが、あなたに心当たりがないんだ」
「それはそうでしょう」と、女は笑んだ。その薄桃色の唇が真面目そうな一文字から笑みの形を象るまでの軌跡がやけに生々しく思え、私は一度目を瞑って邪念を払った。
「ええと、ほかにご用件は?」
あるとの応えを確信しながら私は尋ねた。別れの挨拶を言う為だけなら、こんな非常識な時間を選ばないだろう。村の誰かから噂を聞いたに違いないが――そこまで考えて私はあっと声をあげた。
「もしかして、遊びに来てた子かい」
妻がいた頃のことだ。彼女とのおしゃべり目当てにやってくる大人の後ろにちょこんと子どもがくっついていることが時々あって、もちろん子どもにとって大人のおしゃべりなんて退屈なだけである、暇を持て余した彼らに趣味でこしらえた苔庭を台無しにされてはかなわないので、遊び相手になってやったことがあった。
「旦那様と奥様には大変お世話になりました」女は薄桃色の唇を鮮やかに引いて言った。「その上にこうしてご迷惑をおかけして。厚かましいかとは思ったのですが、それでもひとつお願いを叶えて頂きたくて参りましたの。旦那様はいろいろな頼み事を聞いていらっしゃるとか。わたくしのお願いも叶えてはもらえないでしょうか」
「ああ、だと思ったよ」
困ったような嬉しいような、複雑な気分で私は後ろ頭を掻いた。
私と妻が村に越してきた頃、ずいぶんな噂が出回っていたとのちに聞いた。新しく越してきた夫妻の旦那の方、あれは変だ、挨拶のひとつもよこさないし顔だってちっとも見せやしない、もしかすると妙な病気にかかってて療養に来てるとかかもしれない。そんな噂が老人たちの間で出回って、妻は彼らから一時期つまはじきにされていたらしい。気の強い妻はそこで私の生業が小説家であることを明かし、人前に出てこないのは当然だ、なんせあの人は夜型なんだからとぶち上げた。
しばらくして、ようやく脱稿した私がよれよれ村を散策していると妙なことに出くわした。名前も顔も知らない老人たちから「先生、先生」と親しげに呼びかけられるのである。薄気味悪く思って歳の近いのを捕まえて事情を聞いてみると、前述のあれそれと村人たちが図書館に詰めかけて私の本を読んでいるという話を聞かされた。
参ったのはその後である。おらが村には小説家先生がいらっしゃる、そう思うのは村人の勝手なので放っておいたら、彼らは次に我が家へ押しかけるようになった。小説家というからには偉い大学を出た頭の良い先生に違いないという、いつの時代のものかわからない思い込みに支配された彼らは口々に教えを請うた。といっても、大学の講義みたいなものを求めてきたのではない。娘が色気づいて困ってるとか、ニュースキャスターを見て旦那が鼻の下伸ばしてるとか、なんでも相談室がわりにされたのである。
もっとも中には思い詰めた顔をした人もいて、そういった人は大抵の場合、夜闇に身を隠すようにやってきては戸を叩いてきた。誰かひとりに目撃されれば次の日には誰もがその情報を把握している村のことである。さもあらんと私は――渋々ではあったものの迎え入れ、いつの間にかそれは常態化してしまったというわけだ。
「立ち話もなんだね。寒いし、中へどうぞ」
私は女――町田を応接間へ案内しながら考えた。さて、こんな非常識な時間にやってくるくらいだ。よほど周囲には知られたくないのだろう。相談の内容は亭主に殴られているか、どこかの若いのに抱かれてしまったか。それとも親の世話を言いつけられて家から出してもらえないといったところか。
応接間に町田を通してお茶を出し、願いとやらを話すよう促しても彼女は口を開かなかった。ただじいっと押し黙りながら、なにか懐かしいものでも見るように部屋の中を見渡してばかりいる。そうしてようやく口を開いたかと思うと、彼女は「あれは」と一言だけ呟いた。
町田の視線を追った私は「ああ」と頷いた。そこには若い妻と私が海を背景に笑っている写真を安い額縁に収めたのが飾ってある。
「妻と、私だよ。若いだろう」
「懐かしい」と、町田は呟いた。「あんなに笑ってらしたのに。最期はとても苦しまれたと聞きました。あんな病気にさえかからなければ今ごろ」
苦悶の光景が久方ぶりに目の前へ立ち上がってきて、けれどもそれはかつてのように私を苦しめはしなかった。まるで無声映画の一場面のように、その光景は感情や思考と切り離されたところに存在しているばかりだ。それでも思い浮かぶ痩せこけた頬の灰色、きつくシーツを握りしめた拳の震えは私の喉を締め付けたが、それも一瞬のこと、町田がこちらをまっすぐに見つめなおした頃にはすっかり霧散していた。
「本当にお悔やみ申し上げます」
町田はつらそうに囁いたが私は穏やかに頭を振った。
「いいんだよ。もう終わったことなんだから」
しばしの理解の間を置いてから、町田はもの言いたげな顔つきをした。
「君の思ったようなことじゃない。妻はね、もう終わったんだ。痛いこと、苦しいこと、全てを終えて今は楽土にいる。わかるかい、私たちが彼女の痛みや苦しみを思うのはもう違うんだ。ご苦労様でしたと安らかにのふたつを唱えるだけでいいんだよ」
そうですか、と町田は下を向いて、しばらくの間そうしていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「旦那様、お願いしたい件なのですが。わたくし、旦那様に勝負を挑みたいのです」
「勝負だって?」
「はい。わたくしが勝ったら旦那様にはわたくしの言うことをなんでもひとつ聞いて頂きます。逆にわたくしが負けたなら、わたくしは旦那様の意のままになりましょう」
「なんでも、ひとつ?」
思わずごくりと喉が鳴ってしまって、即座にその理由に気づいた私はうろたえた。とっさに逸らした目が、しかしありありと町田の白い肌やなめらかな仕草を映し出す。こんな深夜にいまだ三十の女盛りがひとり、その事実が頭の中をぐるぐると駆け巡った。まさか顔が赤くなっていやしないか、焦りをつのらせる私に町田は言葉を重ねてきた。
「なんでも仰せの通りにします」
一瞬にして脳裏をよぎったのは女の血潮、それがもたらす肌の熱さだった。駄目だ駄目だ、それでも私は必死に唱えた。そんなことをした日には、これだから都会から来た者は、小説家先生と思ったらとんだけだものだったと村中が噂するだろう。そんな私に悪魔が囁いた。なにを恐れることがある、今は深夜だ、誰も見てやいないさ、だからこそ女もここに来た、そうだろう。
「勝負の内容ですが」悪魔と戦う私のことなど知らない顔で町田は言った。「旦那様は第七の封印という映画がお好きだそうですね」
「あ、ああ」と、私は無闇に頷いた。
「なんでも、ある騎士が死神と勝負をする話だとか」
「チェスだよ」
ポケットを探りながら私は言った。中にハンカチの一枚でも入っていないかと思ったのだが、そういえば妻を喪って以来、私の身だしなみを気にかける人はいなくなったのだった。
「チェスというのは?」と、町田は首を傾げた。
「西洋風の将棋みたいなものだね。映画の主人公はそいつが得意なんだ。主人公に死をもたらそうとやってきた死神に、得意のチェスで勝てたら見逃してくれと交渉してどうこうって話さ。いやしかし、君は変わっているね」
「そうでしょうか。わたくし、そんなに変ですか?」
「変も変さ。こんな深夜にやってきて、困りごとかと思えば勝負をしたいだなんて」
「お受け頂けますか」
町田が微笑んで言ったので、私は腕組みをした。
「構わないがなにで勝負をするんだい。君はチェスを知らないんだろう?」
「マルバツゲームではいかがでしょう」
あまりに予想外の提案をされたものだから、私は考え込んでしまった。はて、マルバツゲームと言ったら縦三つ横三つの計九つからなるマスにマル印とバツ印を交互に書き込んでいく遊びだと思うのだが、それ以外に同じ名の遊びがあっただろうか。
唸り声さえあげた私がよほど面白かったのか、町田はぷっと吹き出した。
「旦那様の考えるゲームで間違いないと思いますよ」
「そ、そうかい。いやあ、てっきり囲碁とか将棋とか、せめてトランプで神経衰弱とか、そういうもので勝負すると思ったものだから」
「申し訳ございません。わたくし、毎日が仕事ばかりで。遊びには詳しくありませんの。知っているものと言ったら、かつて見たものしかなくて」
「いやいや、君がいいなら私は構わないよ。どれ、紙を取ってこよう」
そう言って私は腰を上げ、いったん仕事場まで戻ってネタを書き散らすのに使っているコピー用紙を幾枚か取り上げ、ボールペンを二本探しだした。そうしながら、ついにこらえていた笑いを爆発させた。仕方なかろう。映画が高尚かどうかなど私にはわからないが、それでも第七の封印が名画に類されることは間違いあるまい。それがどう転んだらマルバツゲームなんて小学生みたいな遊びに至るのか。大真面目な町田の表情を思い出せばなお面白くて、応接間へ戻るまで私はくつくつと笑い続けた。
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