台湾の女
土屋正裕
台湾の女
台湾の女
1989年6月4日、天安門事件。
中華人民共和国の首都・北京市の天安門広場で、民主化を叫ぶ学生・市民に対し、中国共産党政府は武力弾圧を決行した。
人民解放軍による機銃掃射と戦車の突撃で広場は血に染まり、死者は中国政府の公式発表では319人。一説では数千人とも1万人とも言われる犠牲者を出し、事件の真相は今尚、歴史の闇に包まれている。
その日は雨が降っていた。私は非番で、なんとなく上野動物園にパンダを見に行きたくなった。ビニール傘を持って家を出た。
天安門事件の直後であり、日本国内も自粛ムードのようなものが漂っていた。広い園内は休日でも人影はまばらだった。
ひとりで園内をぶらぶらしていると、長い黒髪に透き通るように白い肌が印象的な女性が酔っ払いに絡まれているのが見えた。
そいつは50代くらいの薄汚い男だった。昼間から泥酔し、女性にしつこく絡んでいるのだ。
私は男の腕をつかんでねじり上げた。こう見えて空手の有段者だ。男はさんざん悪態を吐いて去って行った。
女性は私に礼を言い、自分は台湾人で、日本に旅行に来たのだ、と話した。
女性は「呉明華」と名乗った。発音と文字が頭の中で一致しないので、手帳に書いてもらった。私たちは歩きながら話し、歩き疲れてレストランに入った。
私と明華はメロンソーダを飲みながら時を忘れて語り合った。
どこからどう見ても若き日の母にそっくりだった。漆を塗ったような黒い髪を腰まで垂らし、切れ長の目に長い睫、白魚のような指、ほっそりとした長身。一輪の蓮の花を連想させるような楚々とした美しさがあった。
「嫌ですわ、そんなにマジマジと……」
明華は流暢な日本語で言った。東京の大学に留学していたのだという。
「いえ、あまりにも美しいので、つい……」
私は上野や浅草を案内し、深川の鰻屋で鰻の蒲焼を御馳走した。
「日本の鰻って美味しいのですね。台湾にもありますけど、向こうのは脂が強くて、あんまり美味しくありません」
明華は肝吸いの椀を優雅な手つきで取り上げ、真珠のような白い歯を見せて微笑んだ。
私たちは再会を約束し、明華に住所を教えてもらった。台湾中部の台中市に家族と暮らしているという。
1993年春。私は1週間の有給休暇を取り、明華の待つ台湾に旅立った。
明華は台北市の中正国際空港(現在の桃園国際空港)で出迎えてくれた。私たちは4年ぶりの再会を喜び合い、タクシーで雨のそぼ降る台北市内に向かった。
明華の案内で私は中正区の中正紀念堂に行った。そこが蒋介石※を祀る場所であることは知っていたが、実際に行ってみて驚いた。その規模の大きさに圧倒された。巨大な正門を潜ると白い大理石を敷き詰めた道が延々と続いている。至る所に白い制服姿の衛兵が銃剣を掲げて立っている。彼らは交代時間が来るまで微動だにしない。
私と明華はビニール傘を差して歩きながら、
「彼らは国民革命軍の兵士たちです。厳しい選抜試験を受けて合格した人でないとなれません。ああやって直立不動の姿勢のまま、絶対に動かないように訓練されています」
明華がよく通る声で説明した。
「あの、兵士の傍にいる人たちは誰ですか?」
衛兵の傍に数人の男たちが立って腕組みをしながらジロジロ見ている。
「彼らも軍人です。衛兵の制服に乱れがないかチェックして直しているのです」
地味なジャンパー姿の中年男性が衛兵の制服についたわずかな埃も見逃さず落とし、制服のシワをきれいに直す。
雨の中、台湾人のカップルが結婚式を挙げていた。かなり歩いて階段を登ると、大きなお堂のような建物があり、中はガランとした広い空間になっている。中央に蒋介石の巨大な像が鎮座し、ここも数名の衛兵が警戒している。
私の祖父は35歳で徴兵され、中国大陸に出征し、大陸で終戦を迎えた。蒋介石率いる国民党軍の捕虜となったが、蒋介石は中国人に報復を禁じ、「以徳報怨(徳を以て恨みに報ぜよ)」と呼びかけた。
大陸にいた約200万人の日本人を捕虜も含め全員帰国させたため、祖父も戦後半年で復員した。いわば私の祖父の「命の恩人」だ。
私は蒋介石像の前で静かに頭を下げた。
私は明華に蒋介石の評価を訊いてみた。
「台湾の人たちは蒋介石をどう評価していますか?」
「難しい質問ですね。日本の方は概ね、蒋介石を好意的に評価されますが、私たち台湾人は蒋介石が嫌いな人が多いです」
「それは何故ですか?」
「蒋介石は戦後、大陸で毛沢東率いる共産党軍との戦いに敗れ、台湾に逃れてきました」
「ええ、知っています」
「その際、二・二八事件という忌まわしい事件が起きたのです」
「初耳です。詳しく教えてください」
「1947年2月28日、台北で闇タバコ売りの台湾人女性が国民党軍兵士に撲殺される事件が起きました。これを機に台湾人が蜂起し、台北市内は暴動と内戦状態に突入したのです」
「全然知りませんでした。それで、蒋介石はどうしたんです?」
「蒋介石は当時、大陸にいて不在でした。彼は陳儀という総督の言い分を信用し、台湾人による共産主義の反乱と決めつけ、軍の大部隊を投入して徹底的な鎮圧作戦を展開したのです」
「なるほど。その過程で多くの犠牲者が出たわけですね」
「はい。正確な人数は今も分かっていませんが、少なくとも2万人から4万人が虐殺されたと言われています。中国兵は残虐で、罪のない台湾人まで検挙して、中国語を話せない者は不平分子とみなして銃剣で突き殺したり、針金で数人をまとめて縛ってチマキと称し、海に放り込んで溺死させたりしたのです」
「ひどい話だ。それでは、台湾の方が蒋介石を憎むのも当然と言えば当然ですね」
「私の祖父は本省人(戦前から台湾に住む中国人)です。台湾は今も本省人と外省人(戦後台湾に移住した中国人)の根深い対立があります。今の李登輝※総統は本省人ですが、以前は本省人は就職などで外省人から差別され、まともな仕事にありつけない人も多くいました」
何もかも私が知らない歴史だった。台湾という身近な国にそのような血塗られた歴史があったことを知らなかった自分の無学を恥じた。
※蒋介石(1887~1975)。中華民国の軍人・政治家。名は中正で介石は
※李登輝(1923~2020)。中華民国の政治家・農業経済学者。日本統治時代の名前は岩里政男。蒋介石の息子・蒋経国を副総統として補佐し、蒋経国の死後、初の民選総統となる。台湾の民主化を実現し、中国の軍事的圧力に対して中華民国の独立を維持した。
私たちはその後、台北市内でショッピングを楽しんだ。明華が連れて行ってくれたところは漢方薬を扱う薬局の2階だった。そこは劇場のようになっていて、舞台にはブルース・リー※に似たカンフー着姿の若い男が立っていた。
彼の前にはガスコンロが置かれ、ムッとするような熱気が立ち上っていた。コンロでは鉄の鎖が焼かれていた。やがて真っ赤に焼けた鎖を男が鋏のようなものでつかみ出すと、カンフー男は気合いを入れ、その焼けた鎖を素手で握った。
ジュッという音がして肉の焼ける臭いが広がった。明華は手で顔を覆っている。私も息を呑んだ。カンフー男の手は焼け爛れてしまったに違いない。
案の定、彼の手は白く皮が剥けてしまっている。見るのも痛々しいほどだ。すると彼はおもむろに大きな薬瓶から白い軟膏を取り出し、それをたっぷりと手に取ってみせた。そして両手をパンパンと叩き、掌を広げて見せた。
なんと、あれほどの火傷がきれいさっぱり消えてしまっているではないか。私は呆気に取られた。
手品のような気もしたが、彼の手が焼け爛れていたのは確かだし、見世物ならもっと見せ場を作るはずだから、薬効は本物だったのだろう。
私は火傷の特効薬というそれを二瓶も買ってしまった。成分は不明だが、真珠の粉を練り込んであるという。
※ブルース・リー(1940~1973)。香港の武道家、俳優。本名は李振藩。
薬局を出て、私たちは小さなブティックの地下に降りた。違法営業の店らしく、ルイ・ヴィトンやシャネルの偽物が安値で売られている。税関で没収されたら元も子もないので買わなかった。
次に、私たちは「故宮博物院」に向かった。ここは台北市北部の士林区にあり、周辺は高級住宅街で瀟洒な住宅が建ち並んでいる。落ち着いた雰囲気で、私たちは見学した。
蒋介石が台湾に移転する際、中国の重慶から戦火を逃れるために運び出した貴重な文化財の宝庫であり、総計は60万8985点にものぼる。世界四大博物館のひとつに挙げられる。
「ここは3ヵ月ごとに展示品の入れ替えがあります。全部見ようとしたら8年もかかってしまいます」
「8年!すごいですね。私も台湾に住んで、じっくり見てみたいものです」
半ば本気で言ったのだが、明華はニコニコと笑っていた。実際、私は見学どころではなかった。私は明華のガイドも上の空だった。
その夜、私は台北市内のホテルに投宿した。ホテル近くのレストランで私たちは向かい合って大きな貝殻に入ったチーズたっぷりのドリアを食べ、白ワインを飲んだ。
テーブルの上の蝋燭の火が明華の美しさを際立たせていた。私は食事の最中、思い切って打ち明けた。
「台湾は素晴らしい国です。僕はこの国で生涯を終えたい。そのくらい好きになりました」
「まだ、お決めになられるのはお早いのでは?もっとよく知られてからでも遅くはないと思いますわ」
どうも、脈はなさそうだ……。内心ガッカリしたが、私たちは台北の夜景を眺めながら飽くことなく語り合い、生涯の思い出とした。
私はなんとか明華を手に入れたい、と思いつつ、その晩は台北市内に住む知人の陳さんの実家に泊まると言い、明華は夜の街に去って行った。
翌朝。8時に来るという明華をホテルのロビーで待った。明華は陳さんを伴って現われた。陳さんは高校の同級生だという。
「はじめまして。陳と言います。台北の旅行代理店に勤めております」
「こちらこそ。お話は呉さんから伺っております」
私は陳さんと握手した。眼鏡とスーツの似合う好青年で、一緒にいると不思議と落ち着く感じがした。
私たちは陳さんの案内でホテルに近い料理屋に向かった。朝食は中国がゆだった。台湾などの中華圏で食べるお粥は日本の粥よりねっとりしていて味わい深い。
粥に添えられるのは豚肉のそぼろや青菜の炒め物などで、朝からかなりのボリュームだ。それに豚の角煮や香草のスープが出る。
このスープはどこに行っても必ず出た。香りがきつくて私は苦手だったが、明華の好物だという。これを食べると背が伸びるという。
食後はジャスミン茶が出る。香水を飲んでいるようで私は閉口したが、台湾ではどこへ行ってもジャスミン茶をたっぷりと振る舞われる。油っこい中華料理を食べた後は口の中が洗われるような感じがして、いつしか私も飲めるようになった。
中国人に肥満が少ないのは、お茶をよく飲むからではないか、と思った。明華も陳さんもそのままモデルになれそうなくらいスリムでスタイルが良い。
ゆっくりと朝食を済ませると、私たちは陳さんの運転で台湾中部の花蓮市を目指した。
台湾の高速道路は日本のとは違い、まっすぐに伸びている。車線も多く、道幅も広く取ってある。戦時には滑走路に転用するためだ。
花蓮はタロコ渓谷という断崖絶壁に掘られたトンネルを車で走り抜けるのが観光の目玉だ。花蓮には台湾の少数民族が住んでいて、アミ族の集落では伝統的な色鮮やかな民族衣装を着けた先住民たちが出迎えてくれる。
アミ族の少女が私に花の首飾りをかけてくれた。山の中で意外と肌寒い。女の子たちは赤い半袖の着物と短い腰巻しか着けていない。寒くないのだろうか。
台湾は日本の植民地支配が長かった反面、韓国のような反日感情がほとんどない。私も行く先々で「日本人だ」というと温かく歓迎された。この違いはどこから来るのか。陳さんに訊いてみた。
「それはですね、政治の違いだと思います。僕は韓国のことは知りませんが、日本人は台湾に軍政を敷き、民政に力を入れました。インフラ整備や教育に投資したのです。我々本省人はそれを高く評価しています。だから、台湾は親日的なのだと思います」
逆説的に言えば、戦後、中国大陸から台湾に移り住んだ外省人は日本を快く思っていないということか。親日的と言っても、すべての台湾人が親日というわけではない。
花蓮は山奥のひなびた田舎町だが、昼に食べた魚料理が信じられないほど美味だった。白身魚を油で揚げ、野菜と炒めたものだが、不思議な味付けで、一体どうやったらこんなにうまいものが作れるのだろう、と感嘆した。
食後は土産物屋をのぞいた。花蓮は大理石の産地だ。加工品が山積みにされている。私は小さな花瓶を買った。なぜか子犬くらいの大きなネズミがうろうろしていて、トイレに行こうとした私の後についてきた。誰も気にしないのは台湾人の大らかさなのか。
土産物屋の店先には蜂の子が瓶詰めにされて売られていた。その周りを親蜂がブンブン飛び回っている。
私たちは旅行中の白人の夫婦に出会った。アメリカ人夫妻はとうに還暦を過ぎていただろう。ふたりともリュックを背負い、水の入ったペットボトルを片手に気ままな旅を続けていた。
彼らは住みよい土地を探して世界中を旅しているという。私は彼らが羨ましいと思った。
アメリカ人でありながらアメリカという国に定住せず、新天地を求めて終わりのない旅を続ける。私もそんな自由な生き方がしてみたいと思った。
白人夫婦はギリシャのクレタ島にしばらく滞在し、エジプトのアレクサンドリアに行き、イランとベトナムを経て、台湾に来たそうだ。夫婦はこの後、タイのパタヤに行くという。
私たちは夫婦と一期一会の出会いに感謝した。おそらく一生出会うことなどなかったであろう異国人同士が異国の地で出会うのも何かの縁。人生は不思議な縁で結ばれている。
私たちの旅は続いた。花蓮を後にした私たちは明華の故郷・台中市に向かった。
台中は台湾中西部の台中盆地に位置し、周囲を山に囲まれている。2010年12月25日、台湾省が管轄する台中県と台中直轄市が合併し、新たに台中直轄市となった。
台湾屈指の工業都市として急速に発展し、2020年3月現在、人口は約281万人で台湾第二の都市である。
旧称は大墩で日本統治時代に台中と命名され、閑静で風光明媚な土地柄から「台湾の京都」と呼ばれた。
台中に着いた時、街は夕日を浴びて黄金色に輝いていた。初めて訪れた土地なのに妙に懐かしく、心が弾んだ。
明華の家族は私たちを温かく迎えてくれた。明華の祖父は見事な銀髪で、杖を片手に現われ、私をまるで実の孫のように歓迎した。
「お会いできて嬉しいです」
明華の祖父は流暢な日本語で言った。戦前の台湾人は日本語教育を受けている。
私たちはジャスミン茶を飲みながらゆったりとくつろいで歓談した。部屋は中国風の装飾で赤い紙の守り札が沢山貼られ、天井には金色の刺繍の龍の垂れ幕が飾られていた。
明華の祖父はしきりに中国の脅威を語り、もし中国軍が台湾に侵攻すれば自分は老体に鞭打って戦うだろう、と意気込んでいた。
「シナ兵怖い、シナ兵怖い」
と言って涙ぐむ彼の姿が強烈に印象に残った。すぐ隣に敵国がいて、いつ戦争になるか分からないという恐怖。戦争を知らない世代の私には想像もできない。
私たちが穏やかに語り合っていると、そこに明華の従兄弟が現われた。近くに住んでいるという。毬栗頭の可愛らしい少年だった。
「コンニチハ!」
日本語で元気よく挨拶する従兄弟と握手した。台湾には徴兵制があり、彼もいずれ徴兵されて軍に入隊する。陳さんも軍務経験があり、小銃や手榴弾の扱い方を知っているという(台湾は2018年までに4ヵ月の訓練期間を除いて徴兵制を廃止し、志願制に移行した)。
「日本の男は幸せですね。私はたぶん一生、銃を撃つことも、人を殺すこともないでしょう。日本に生まれて幸せなのかどうか、ちょっと分からなくなりました」
当惑した表情で私が言うと、明華の祖父は言った。
「戦争がないのは素晴らしいことです。しかし、治に居て乱を忘れずという諺もあります。平和のための軍備は必要です。日本も独自の軍備を持ち、アメリカから自立すべきでしょう」
私も彼の意見に同感だ。戦後、日本人は変な平和主義の虜になってしまった。
軍備を否定したり、戦争を語ることをタブー視したり、侵略されたら降伏すればいい、などという馬鹿げた論調が散見される。
軍国主義や全体主義はゴメンだが、おかしな平和主義や非暴力主義は無力であるばかりか有害だ。
その夜、私は明華の実家で天ぷらとすき焼きに舌鼓を打った。明華の母親が食材を手配し、心尽くしの日本食でもてなしてくれたのだ。
私は揚げたての海老の天ぷらを食べながら紹興酒を飲んだ。グラスにザラメ糖と乾燥梅干しを入れ、熱い紹興酒を注いでザラメが溶けるのを待つ。紹興酒はまろやかに甘く、どんなに飲んでも悪酔いしなかった。
食後はジャスミン茶を飲みながら日本の話、台湾の話、いろんな話題に花を咲かせた。私たちは時を忘れて語り合った。
翌日は明華の案内で台中市内を観光した。台中は気候が安定していて台湾で最も住みやすいところだという。面積は大阪府を一回り小さくした程度で、目立った観光名所はないが、台中市北区には日本統治時代に建てられた宝覚寺という臨済宗の寺院がある。
昼は台中駅近くの台中(中山)公園前の店で
食後は洒落た喫茶店で
5センチくらいの小さなケーキで、サクサクした歯触りとしっとりしたパイナップルジャムの爽やかな甘みが特徴だ。
私は台湾の旅を心から満喫し、私の1週間の休暇は夢のように瞬く間に去った。
明日は日本に帰国する夜。私は台北市内で初日に明華と夕食を共にしたレストランで明華との最後の夜を迎えた。
テーブルの上には大きな伊勢海老がある。二つに断ち割ってたっぷりとチーズを載せ、オーブンで焼き上げた料理だ。私たちはカリフォルニア産の白ワインで喉を潤しつつ、飽くことなく語り合った。
「私は台湾が好きです。いや、台湾が好きというよりも、あなたのことが好きなのです。あなたと一緒に暮らしたい。嫌ですか?今、ここで返事をください」
私は意を決してプロポーズした。明華は美しい微笑みをたたえながら、静かに言った。
「あなたのお気持ちは嬉しいです。一人の台湾人として、あなたのように台湾を心から愛してくださる日本の方に出会えたことは、私にとって何よりもかけがえのない宝物です」
明華はそこでいったん話を切り、グラスのワインを一口含んだ。
「お気を悪くなさらないでね。私もあなたが好きです。誰よりも大切なお友達だと思っています。でも、私には心に決めた方がいるのです。あなたとはこれからも愛する友としてお付き合いをしていきたいです。でも、あなたとは一緒になれない。残念ですが、これも人間の縁というものなのかもしれません……」
私は淡い恋心が台北の夜景に吸い込まれていくのを感じた。
不思議と虚しさはなかった。むしろ、さっぱりとした気持ちで新たな人生の第一歩を踏み出せそうな気がした。
これまでも幾多の女性と交際したが、振られてもこんなに気持ちよくいられる女性は初めてだった。私たちはその後も食事を続け、会話を楽しんだ。
翌日は大雨だった。温帯低気圧が台湾に接近し、飛行機が欠航するかもしれないというので、私と明華はタクシーで台北の中正国際空港に急いだ。
台湾では至る所で「中正」という地名を目にする。私は気になって明華に尋ねた。
「中正って何の意味ですか?」
「蒋介石の本名です。本名は蒋中正です。介石はペンネームみたいなものですね」
「なるほど。全然知りませんでした」
「中正って名前の通りが多いでしょう?中正路という通りは台湾全土に181もあるんです。学校や公共施設にも中正という名前が本当に多いです」
蒋介石の死後、台湾の民主化が進むと、かつての独裁者への反感から中正空港も桃園空港に改名され、中正紀念堂の衛兵も廃止された。
空港にはすぐに着いてしまった。私たちは出国ゲートに急いだが、羽田行きの便は欠航。次の便は早くても2時間後になるという。
それまでが所在ないので、私たちは誰もいない待合室で並んでソファに腰掛け、サービスでテーブルに置かれている鳳梨酥を口にした。
この甘酸っぱい台湾のお菓子を私は果てしもなく口に運んだ。普段は甘いものなど食べないのに自分でも呆れるくらい食べた。明華も食べた。私たちは無言で鳳梨酥を食べ続けた。まるで、そうすることが別れの挨拶でもあるかのように……。
夕方の便で私は台湾を離れた。明華はいつまでも手を振って別れを惜しんでくれた。私は後ろ髪を引かれるような思いで機内に向かった。
私はどんどん遠ざかっていく雨に霞んだ台湾の大地をぼんやり眺めながら、脳裏を走馬灯のように駆け巡る台湾での日々を反芻していた。
台湾から帰国後、私はすぐに仕事で長野へ出張しなければならなかった。
雪と蕎麦と野沢菜しかない信州の山奥で、私は来る日も来る日も明華の笑顔を佐久盆地の深い青空に思い描いているのだった。
台湾の女 土屋正裕 @tsuchiyamasahiro
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