告白
真花
告白
ささくれた夕陽がキッチンに射し込み、豚肉を切る手許を照らす。換気扇が無表情にため息を排出する。それはすぐに補充される。昨日も、一昨日も、切るものは違っても、同じ夕陽にまるで時を止めたように焼かれて、決断出来ないまま料理だけを作った。
豚肉を切る手が止まっていた。夕陽が深くなり、影が濃くなる。その影に隠れるのなら私は言える。礼奈にではなく礼奈の影に向かって練習のように唇を開く。
「礼奈のお父さんは本当は別の人なの」
言った側から喉が貼り付くように乾く。言葉は壁に当たり換気扇に吸い込まれ、粉々になって外に流れた。そのピースを礼奈が拾うことはないはずだ。外へ出た分をため息で埋める。別の人、ではなくこの人だと最初から伝えた方がいいのだろうか。礼奈だって何度も目にした事がある、結構好きだと言っていた、俳優の
私だけの胸にしまえば、全て上手くいくのではないか。
それなのに、私は礼奈に言おうとしている。風化すべき過去なのに。どうして?
篠原が主演のドラマを家族で見たからだろうか。そのときに、篠原と礼奈の耳の形が同じだったからなのだろうか。……違う。
単純に、事実を知ることが正しいことだと、真実を教えたいのだろうか。……違う。
篠原が成功していて、私は毎日家で燻っていて、その差が元々は天秤の左右のように同じレベルにあったと証明したいのだろうか。……違う。だが、負けたとは思う。篠原との人生だったら、ずっと違ったのかも知れないとは思う。
私は十八年前に篠原に捨てられた腹いせを、礼奈にしたいのかも知れない。私の届く範囲にある篠原は、礼奈だけだから。礼奈を傷付ける事がしたい……おかしい。そんなことはない。礼奈は私の娘だ。それだけは間違いない。私が礼奈を苦しめたいと思うなんて、真空で深呼吸をするくらいにあり得ない。
それでも伝えたいと思う。
私の内圧が一気に高まる。誰にも聞かせたことのない荒げた声を出す。
「ただ単に、抱え切れないんだ」
薄暗さの中で放った声がぐるぐると渦を巻いている。電気をつける。さみしい光がキッチンをぼうと照らす。まだ豚肉を切り終えていない。礼奈とはよく話をする。お互いに言わないことはもちろんあるが、毎日おしゃべりをする。十八歳なんてのは言い訳で、私はただ自分が持ったままでは苦しいから、礼奈に甘えたいだけなのではないか。それは鬼畜のような甘え方だ。何が大事であるかが倒錯している。
私は凍り漬けになったように動けなくなる。礼奈の記憶が私を埋める。高校に受かったときに泣いて喜びあった日。中学校の体育祭で応援団をした姿に大きな声をかけたとき。家族で箱根に温泉に行ってアトラクションに息を弾ませたこと。親類が集まる正月にいとこと遊んでいた笑顔。もっともっと小さい、幼稚園に行きたくなくて泣いていた礼奈、初めて喋った言葉が「パパ」だった礼奈、立って歩いた礼奈、生まれたばかりの礼奈――
涙が目の下まで上がって来て、それを振り払うように鋭利な顔をする。
「礼奈に話すのは違う。……決着をつけるのは大人同士だ」
豚肉をそのままに手を洗い、手帳を引っ張り出す。そこに記された番号がまだ生きているのかは分からない。それでもかけた。
コール音がして、誰かの電話には繋がっていることに一割の安堵をする。
二つ目のコールに、出ないのではないかと安堵が不安にひっくり返る。
三つ目のコールに息を詰めたら、誰かが出た。
「もしもし」
警戒している声だが、間違いなく篠原の声だった。私は努めて普通の声を出す。だがその音波には震えが乗っていた。
「シノさん?
「あぁ、みっちゃん。俺だよ。篠原だよ。二十年振りくらいだね」
篠原は急にホッとした声を出した。私はそれに糸が絡まったみたいに困惑する。心臓が強く強く鳴るのが耳の内側に圧力として感知される。
「電話して大丈夫なの?」
「ああ。全部時効だよ。それに、今更俺とどうこうするつもりはないだろう?」
篠原は余裕を見せつけるように穏やかな声を出す。若いときもどんなにピンチでも弱みを見せなかった。堂々と、金をせびった。
「それはそうだけど」
短い沈黙に二人の距離が接近する。
「どうしたの? 何かあってでしょう? みっちゃんのことだから」
「そうね。一つだけ、伝えたいことがあるの」
私の声が集中して固くなる。
「何だい?」
「あなたの子供、今十八歳で元気に生きているわ」
篠原は少し黙る。それでも動揺の色はない。
「そっか。よかった。会わせたいとか?」
「ううん、それはない。子供には秘密のままにしておきたいから」
考えるような沈黙の後、篠原は薄皮一枚さみしそうな声になる。
「みっちゃんは俺と会うかい?」
私は電話口で首を振る。別の世界でなくては今の家族は守れない。
「会わない。……それだけ。ごめんね、電話して」
「いいよ。その気になったらいつでも会おう。子供だって会ってもいい。どこか俺に似ているんだろうし」
篠原が嘘を言っているようには思えなかった。強がりのようにも思えなかった。だが、会う訳にはいかない。
「ありがとう。それじゃ、ね」
「ん。じゃあね」
電話を切ってしばらく受話器を握り締めていた。私はため息とは違う水色の息を吐いて、キッチンに戻る。切りかけの豚肉に包丁をあてる。
夜になり礼奈が帰って来た。
「いい匂い、今日は
「おかえり」
礼奈は私の顔を覗く。そこに宝石でもあったかのような笑みを浮かべる。
「ママ、何か抜けたね」
「そう?」
「いいよ、秘密のことは言わなくて。大丈夫」
礼奈は居間を出て、二階に駆け上がって行く。私は豚汁を注ぎ分ける。
(了)
告白 真花 @kawapsyc
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