シーラカンスのムニエル【完結】

入相アンジュ

本編

序章

シーラカンスのムニエル①


 おなかがすいた。

 わたしは、読んでいたリングファイルを机に伏せて立ち上がった。窓を開け、目を閉じて深呼吸をする。春の夜らしい薄くひんやりとした空気は、口と鼻から気道を通って肺に満ちる。わたしは瞼をひらいた。研究所の二階、休憩室の小さい窓からは、深夜零時特有の黒い空と、葉桜が見えた。


 空腹を確かめようと、わたしは腹部に力を込めた。内臓から「ぐちゃ」とも「がちゃ」とも聞き取れる、空気が潰れるような音がした。胃の中が空っぽであることは確かなようだった。おなかがすいた。そう感じるのは一体いつぶりだろう。わたしは耳より少し高い位置で結わえたポニーテールの毛束を左手で梳いた。それから、考えるまでもなかったなと苦笑した。

 最後におなかがすいたと感じたのは、七年前のちょうど今頃、春だ。わたしは、二十歳になったばかりだった。

「ハッピーバースデー、みどり

 わたしは顎を上げて、夜空に言い聞かせる。「誕生日おめでとう、碧」けれど、答えはない。当然だった。だって、この部屋にはいまわたししかいないのだから。でも、わたしはじっと待つ。「万璃まり!」そうやって、碧がわたしの名前を呼ぶのを待った。


 碧。春原すのはらみどり。わたしの親友。今日生きているならば、彼女は二十七歳になるはずだった。七年前のあの日だって、わたしの隣には碧がいた。けれど今はいない。もういない。なぜなら、彼女はシーラカンスになってしまったから。


 ____親友でいよう! 万璃、ずっと、ずっと、ずーっと、親友でいようね。


 初めて『親友』と口にしたのは碧だった。おぼえている。青々としたイチョウの葉。青空と入道雲。塩素の匂い。差し出された小指。碧の湿った前髪とポニーテール。のぞき込んだ瞳のなかにはひかりが散っていて、小学五年生の碧はふにゃりと無邪気に笑っている。あの日のわたしは、なんて答えたんだっけ。

 わたしたちは親友なのだから、きっと、小学五年生だったあの日のわたしも碧の小指をとったのだと思う。何かをいった気がする。何かを捧げて、友情を誓ったはずだった。

 思い出せない。わたしは、両手で目を覆った。

 忘れてしまうことと、覚えていることは一体なにが違っているんだろう。

 大切だったのに。あの時の碧の表情はわたしの頭の中に残っていて、わたしの脊椎がふわっと浮かぶような高揚感だって残っていて、そう、あの日のわたしは信じられないくらいうれしかった。断言できる。あの瞬間の心音の数を覚えているのに、わたしが碧になんていったのかが思い出せない。どうして、こうなっちゃうんだろう。どうして、夢のなかで会えても朝起きたら話したことを忘れちゃうんだろう。万璃。何度も何度も碧の笑顔が脳内で点滅する。碧の唇が動く。万璃。声は聞こえない。これ以上、わたしのなかからいなくならないでよ。

 ねえ、碧。わたし、あなたの親友でいるためにはどうすればいいの。

 碧の返答はない。その代わりにわたしのおなかがくう、と鳴った。流石に何かを食べないといけないような気がして、窓に背をむけて冷蔵庫の方に向き直る。

 テーブルとスツール、申し訳程度のちいさなシンクと一口コンロと比べると、その冷蔵庫はすこし古いということを除けば立派な、正しい、普通の冷蔵庫だった。けれど、あの冷蔵庫の中にはシーラカンスの肉がある。シーラカンスを開腹して切り落とした筋肉のかたまりから、手のひらよりやや大きいくらいに切り落としたひとかけらの肉がはいっている。


 わたしはどうしてもそれが食べたかった。

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