負けてもいいかも

冬部 圭

負けてもいいかも

 平凡でいいから、平穏な暮らしをしたい。そう願ったから、順子と結婚した。順子も、特別な毎日より、ありふれた普通の日々が尊いのだと言っている。仕事を終えて、家に帰って、順子の穏やかな笑顔を見ると、ほっとする。

 そんな暮らしに変化が訪れたのは二月のことだった。

 ひょっとしたらと二人で産婦人科を訪れると、新しい命が順子のお腹の中に宿っていることが分かった。

 僕は浮かれて、仕事中に笑みをこらえるのに苦労した。家では、笑みをこぼして、順子に気が早いよ。なんて笑われた。どんな子が生まれてくるんだろう? 僕はきちんと父親になれるのかな? いろいろなことを考えて、いろいろなことを期待して。なんか慌ただしくなったような気がしたけれど、気にならなかった。

 そんな折、いきなり、転勤の話が降って湧いた。六月に異動。引き継ぎ、引っ越し先の住居の手配、別の忙しさが入り込んできた。望まない方の忙しさは、本当に鬱陶しかった。でも、僕は会社員。お給料をもらっている以上、できる限り会社の要求に応える必要がある。

 なので、順子の体調は心配だったけれど、引っ越しの準備をすることにした。放っておくと、順子は自分で片付けや荷造りをしようとする。心配性の僕は、できる限り順子の手を煩わせないよう、先回りしていろいろな準備をした。

「心配しすぎだよ」

 順子はそう言ったけれど、心配なものは心配なわけで。取り返しのつかないことが起こらないよう僕は細心の注意を払った。

「そんなに心配だったら、少し先延ばししてもらったら?」

 そんな当たり前のことに気が付かない程、僕はいっぱいいっぱいだった。

 結局、転勤の話は後戻りできないほど進んでしまっていて、僕たちは予定通り引っ越しをした。

 順子にとって、知り合いのいない新しい街での暮らしは穏やかに始まった。僕は順子に少し申し訳なく思いながら、仕事が忙しく、あまり家庭のことを省みることができなかった。

「暇、なんだよね」

 ある日曜日、順子がそんなことを言った。

 知り合いのいない、見知らぬ街で外出は日々の食材を買いに出るくらい。いくら順子がのんびりした性格だとしても、それは退屈になるだろうななんて思った。

「トランプでも、する?」

 やましかったので、僕は苦し紛れの提案をした。

「いいよ。何にする?」

 順子は思ったより乗り気ですぐにトランプを用意してきた。何にするかあまり深く考えていなかった。僕はポーカーみたいに二人でできて、頭もあまり使わないゲームが良いかなと思った。でも、順子は大富豪とか、ダウトとか、51のような二人の勝負に向かないゲームが好きだ。

「大富豪にしてみる?」

「いいね、大富豪にする」

 順子の同意が得られたので、僕がカードを配ろうとすると、

「二人で大富豪をするときは、全部使わないの」

 そう言って、順子は僕からカードを受け取って、適当に半分くらいにカードを分けた。

「全部使っちゃうと、自分のもっていないカードは相手が持っていることになるでしょ」

 それもそうかと思いながら、半分に分けられたカードの片方をお互いに振り分ける。

「カード運と駆け引き。これが半分大富豪」

 得意げに順子が笑う。お金持ちか、そうでないのか判断に迷うネーミングだなと思いながら駆け引きを楽しんだ。

 それから、平日、帰宅後なんかも二人でトランプをした。もっぱら、半分大富豪。時折、ポーカーや半分ダウト。51は、常に51を目指す順子と、そこそこの点があればストップをかける僕の相性が悪くてあまりやらなかった。

 そのうち、一日一回だけ、小さな賭けをするようになった。今日使った食器をどちらが洗うかとか、明日の晩御飯のメニューを決める権利とか些細なことを賭けた。結果は勝ったり負けたり。程よく勝って、程よく負けて。まあ、5日続けて風呂掃除なんてこともあったけれど。順子の退屈は少し薄まっていたみたいだ。僕も二人の会話の時間ができて良かったなんて思っていた。

 他愛のない話をしながら、勝った、負けたを繰り返す。傍から見たら平凡で退屈な関係かもしれないけれど、僕にとってはかけがえのない、大切な時間だった。


「多分、女の子だって」

 昼間、検診に行って子供の性別を聞いてきた順子はご機嫌だった。順子は、一人は女の子が欲しいと言っていた。女の子が生まれたら大好きなミュージカルの主人公の名前を付けたいと言っていた。それだと僕たちは儚くなってしまわないか? とか、いかにも日本人ですって僕たちの娘にその名前はないだろうと思ったけれど、直接は指摘できず。

「杏奈とかだと、彼女と愛称が同じになるね」

 と細やかな抵抗をしてみた。順子からは、ふーんと興味があるのかないのかよく分からない反応を帰ってきた。

 多分、いつか言い出すだろうなと思いながら、日々のトランプに興じていた。

ある日、順子は、

「勝った方が、子どもの名前を決める権利を得るってどう?」

 と言った。

 ついにこの日が来ましたかと思った。なんて付けたいの? なんて野暮なことは聞かず、覚悟を決める。

「妊婦は、テンションがおかしくなって、放っておくと変な名前をすごくいい名前なんて思いこむから、気を付けた方がいいよ」

 って、順子のお姉さんが言っていたのが引っかかるけれど。順子のことを信じることにする。

 何度か勝負を繰り返していよいよ本番の勝負という時、順子は4枚だけ切り分けた。半分どころではない。少しだけ大富豪。お金があるのかないのか分からない。

 これは、勝ちを譲る気がないな。そう理解した。

 僕の手札はハートのJとクラブの6。

 一回前に負けているからハートのJは順子に送る。代わりに入ってきたのはスペードの6。負けた方から始めるルールだから、これは、僕が勝ってしまうんだけど。どうしよう。わざと負ける? でも、お互い手を抜かないからゲームを今まで楽しめたわけで。下手な芝居を打って手抜きを咎められるのも嫌なので、さっきとは別の覚悟を決める。

 6の二枚出し。僕の勝ち。

「そっか、そういうこともあるよね」

 順子は自分が半分ずるをしていた自覚はあったみたいで、

「自業自得だね」

 としょんぼりした様子で自虐的に笑った。落ち込んでいる姿があまりに可哀想だったので、

「今日の賭けは次に持ち越しにしたいんだけど」

 と、僕が申し出ると、順子は少し嬉しそうにして、

「いいの?」

 と訊いてきた。

「次は正々堂々でお願いします」

 僕がおどけて言うと、

「気を付けます」

 と、おどけた様子で答えが返ってきた。

 翌日、賭けの内容は持ち越しで再度、勝負した。負けてもいいかもと思うけれど、わざと負けることはしない。そう決めて臨んだ。

 前日と打って変わって、いつも通り、大体半分に切り分けられた。

 僕のカードは真ん中に寄っていて、スペードの2は持っていかれてしまったので切り札はクラブのAが一枚という、頼りない手札になった。これでは革命が起こっても強くない。真剣に考えたけれど、カードの差は埋めがたく、あえなく僕の負けで勝負は終わった。

「じゃあ、私が名前を決めていい?」

 順子は嬉しそうに確認してきた。

「そういう約束だったから、構わないよ」

 そう答えると

「素敵な名前を考えるね」

 と順子は笑った。

 不思議な名前や読めない名前になったら、責任の一端は僕に有るなとびくびくしたけれど、生まれてきた娘の名前は無難に安奈に決まった。

「この名前だと、愛称はあの娘と一緒になるし」

 順子はさも自分で思いついたように、目を輝かせて教えてくれた。あまりに嬉しそうに言うので、

「それ、僕が言ったよね」

 と、余計なことを言ってしまったけど、

「そうだっけ?」

 と、とぼけられた。機嫌を損ねたわけではなさそうなので気にしないことにした。


 子供の名前は二人で協力して考えた方がいい。そういう教訓を得たのにもかかわらず、息子の生まれる時にも同じ葛藤をすることになるのはまた別のお話。

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