第18話 私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(6)

 あの蔵での誓い以来、ミオは朱里のことを婚約者だと認識していた。ちなみに、マスターは彼のこの出来事に対する認識を聞いた時、近所にいいカウンセラーがいるけど紹介するか、と半ば冗談、半ば本気で言った。彼は笑って、手を振るだけだった。


「ハーイ」


 そう声をかけて、ミオの横を急に女が座ってきた。深紅のイブニングドレスに、同色に染め上げた髪——、ミオがピアノを演奏していた際、彼のことをじっと見ていた女だった。ミオは顔を傾けて同じように軽く返事をした。女はチェシャ猫みたいな顔で微笑んだ。名前を尋ねられた。


「ミオだよ。女っぽい名前だろう?」


 よくそう言われるので、先に自分から言うようにしていた。それを聞いて、あら本当にあなたロミオなのね、とくすくす女は笑った。赤いその髪が振れると、ふいに香水の香りがした。

 ミオは鼻が特段いい、というわけではない。だけれど香りに対しての知識が豊富だった。香料の研究をしている父の影響で、大学では食香粧学を専攻していたし、自身もフレグランスを調香することを趣味にしていた。そして、彼には、香りに対しての独自の経験則というものがあった。


「……ねぇ私、あなたのジュリエットになれるかしら?」


 そう言って、女はミオを下から覗き込んだ。女が付けていた香水はファシナンテ。トップノートはローズ・ゼラニウム。これはあくまでも彼の経験からの独自の見解であるが、これを付けている女は大抵遊んでも後腐れがない。


「……試してみる?」


 ミオはそういうと、頬杖をついて妖艶に微笑んだ。


──婚約者、いるんじゃなったっけか。マスターはそんな2人に背を向けながら、呆れたようにつぶやいた。



 長身で見目が抜群に良く、ピアノの腕前もプロ級。こうした男がもてなくして、誰がもてるのか。ミオは非常にもてた。なので、こうしてお誘いを受けるなんてことは、日常茶飯事だった。なにをもって紳士と定義するかは難しいところであるが、ミオは、紳士だった。独自の判断基準があるにしろ、女性のお誘いを無下にすることは、紳士であるからして、できない。なので、こうした誘いを受けることがしばしばあった。

 一夜限りという体だけの関係、というのは、ある意味互いの欲情に任せたもので、その内容もずさんになりがちだ。しかし、彼は女性を喜ばせる手立てを熟知していた。これも今までの経験から成せる事だった。相手を十分に喜ばせた後、いざ偽の愛を紡ぐ段階になると、彼は決まってこう言った。


──実はできないんだ。


そう言われると、大抵怪訝な顔をされる。

 すると、彼は母が関わる過去のトラウマをため息交じりに語った。それを聞いた相手の反応というのは、大きく二分されていた。

 前者はそんな彼に同情して、他の手立てで慰めてくれる。

 後者は、それでもなお彼を押し倒して、強引にことを成そうとする。今回は後者だった。


「さっきの話は本当のことだけれど」


 すると馬乗りになられながら、ため息交じりにひどく冷めた顔で、彼はこういうのだ。


「一番の理由は君にはまったくと言っていいほど全然これっぽっちも小指の先だって魅力を感じないんだ。ごめんね?」


 すると、大体相手は彼の頬を引っ叩いて、罵声を浴びせながら部屋を出ていく。ミオはベッドで叩かれた頬をさすりながら、その足音が遠ざかっていくのを確認すると、起き上がってシャワーを浴びた。シャツを軽く羽織って、濡れ髪のまま窓際の椅子に腰かける。そうして、家に帰ると必ずそこに飾るようにしている朱里の写真を眺めた。

 何をもって童貞と定義するかは難しいが、ミオは童貞だった。これも彼の独自な解釈ではあるが、そうすることによって、彼なりに朱里に操を立てていた。朱里もきっとそうであろうと、思っていたから。そのことを彼は疑っていなかった。

 それは、何故か。ミオが“ロミオ”であり、彼女が“ジュリエット”だからだ。

 番う相手は、お互いしかあり得ない。

 こういう思考に、なぜミオが至ったか。それはさらにその後の蔵で起きた出来事が、大きく関わっている。

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