第16話 私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(4)


「日本に行くのはいつからだっけか?」

「来週の水曜」


 ピアノの演奏を終え、ミオはバーカウンターで食事をとっていた。彼は首元のボウタイを崩し、シャツを緩めている。食べていたのは、アボカドのサラダとヌーディ。ヌーディはリコッタチーズで作られたニョッキが主役の料理で、ホワイトソースにかけられたトリュフの粉末がアクセントになっていた。ここでの食事は自腹のため、給料から天引きされる。これらの料理だけで25ポンドはするので、ミオはここでの食事は週1回だけの贅沢にしていた。このバーは雰囲気やカクテルだけではなく、料理もおいしいことで有名だった。


「来週の水曜か。ということは、日曜はまだ出れるじゃないか」

「この間事前に準備があるからって断ったけど、忘れた?」


 カウンターの向かいから、マスターが声をかける。ミオが呆れたように返すと、そうだっけか、などと彼はすっとぼけた。聞くところによると、後任のピアニストがまだ決まっていないらしい。


「はぁ。お前目当ての客もいたからな。来週からの売上見んのが怖いよ」

「……3月から日本に行くって、それこそ僕が夏に卒業した時ぐらいから話してたはずだけれどね」


 マスターはミオの言葉に、グラスを拭きながら天井を見上げた。ミオの採用方法からも分かる通り、彼は行き当たりばったりで、結構適当なところがある。


「探したところでお前ほどのオトコマエはいないからな。まぁ、お前が空いたところはトニーに埋めてもらうさ。最近あいつビンテージバイク買って、支払いでひーひー言ってんだと」


 トニーとは、今まさにピアノを奏でているインド系の音大生のことである。ミオが振り返ると彼は渚のアデリーヌを奏でていた。


「トニー、なんのバイク買ったって言ってた?」

「そこまでは聞いてないな。……で、どうなんだ?やっとお前の"ジュリエット"に会える気分は。お前のことだから、大学院に通うっていうのは口実なんだろう?」


 マスターが片眉を上げると、少し意地悪くそう言ってきたので、ミオは思わず苦笑してしまった。

 ジュリエットというのは、ミオが13歳の時から恋をしている、日本人の栄藤朱里のことだ。


「あぁ本当に日本に行くのが、待ち遠しいね。1日でも早く会いたいから」

「かぁー。そのジュリエットがもしかしたら200ポンド超えの子豚ちゃんになっててもか?」

「そうだとしても、絶対かわいいよ。僕のジュリエットだから」

「はぁー。というかその写真持ってて、今までよく”ロリコン”だって勘違いされなかったな」


 マスターが言ったのは、ミオがいつも肌身欠かさず持っている、革のケースに入れた朱里の写真のことだ。そう言われて、ミオはその写真を上着のポケットから出した。そこには当時11歳だった朱里が笑顔で写っている。ちなみに、ここでのアルバイトを始めた頃、ミオはマスターに恋人はいるのか尋ねられ、この写真を出してドン引きされた過去がある。今も愛おしそうにその写真を見つめるミオを見て、マスターは苦虫を食ったような顔をした。


「……あぁ。ちょっとしつこい女の子に、今付き合っている子がいるからって写真見せると、あっちから引いてくれるのって、そういう目で見られてたって事ね」

「十中八九そうだろうよ。よく通報されなかったな。というか絶対お前わざとだろ、それ」

「彼女の最近の写真なら、父さんが持ってるよ。しょっちゅう彼女の父親と連絡取ってるから。毎度見るかメッセージくるけど、断ってる。……見ちゃうと、会いたくなっちゃって、どうしようもなくなるし」

「そういうもんかね。13の時に会ったっきりで、そこから彼女自身とは連絡とってないんだろう?」

「そう、だね」

「俺だったら初恋は美しい思い出として、だな。なんたって子供の頃の話だし」

「初恋……、そうだよ初恋だよ。でも、僕たち婚約したし」

「はぁー。前にも聞いた時思ったが、本気でそう思ってるのお前だけだぞ?第一そんなこと彼女の方はとっくに忘れてるよ」

「忘れる?はは、そんなことはないよ」


 ミオは食事を終えて、カウンターに頬杖を付きながら笑った。

 そして、グラスに立てかけていた皮のケースを手にすると、写真の朱里の頬を人差し指で優しく撫でた。


「……でももし、覚えていなくても、思い出してもらうだけだから」


 その瞳の奥は、笑ってはいなかった。それからその写真を上着のポケットに戻した。その光景に、マスターは最初にミオから幼い朱里の写真を見せられた時と、同じ顔をした。

 そう、これはあくまでもミオの中での歪んだ認識ではあるが、ミオと朱里はあの夏、婚約をした。

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