第14話 私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(2)
ロンドンにあるバー【THE eights】。ミオはここで週3回ほど、ピアノ伴奏のアルバイトをしていた。
赤を基調としイタリア製のアンティーク家具の置かれた店内は、金曜の夜とあって多くの客がいた。会員制ではないものの、ドレスコードのあるこの店には、セレブも多数訪れる。
バーの中央に設置されたグランドピアノ。ミオはそこで鍵盤を奏でていた。今日の彼の服装は、ディープグリーンのタクシード。腕時計を外しながらグランドピアノへと闊歩していた時点で、女性客の視線は彼に釘付けになっていた。彼が今日付けている香水は、モルトンブルーのサイプレスオードトワレ。甘くウッディな香りの中に、マリンノートの清涼感がすっと散る。おしゃべりに夢中になっていたご婦人も、彼が近くを通るとその残り香に振り返り、感嘆の息をこぼしていた。
今彼が奏でいている曲は、ドビュッシーの月の光。サイドで分けられた髪の根本の色は焦茶で、髪先に行くに連れてプラチナブロンドへと色が抜けていった。くっきりとした青緑色の目にかかる長いまつ毛も、同じ色をしている。これはイタリア系の、母譲りのもの。眉は髪の根元と同じ色をしていて、きりっと上がって太い。顔の堀はそこまで過度ではなく、その横顔には若干幼さのような彼特有の甘さがあった。これは日系の父譲りのものだ。
ミオは、イタリア系と日系とのダブルだ。特にイタリア系イギリス人である母は、美しい人だった。カンツォーネ歌手であった母は、それこそこうしたバーで日々歌声を響かせていた。夜、サラリーマンの父が残業で帰れない時などは、ミオは母に連れられてバーに行く事があった。父が迎えに来るまでの間、緑色の輝くドレスに身を包み、伸び伸びと歌い上げる母を、ミオはカウンターでジュースをもらいながら見ていた。客のうっとりとした視線を一身に纏う母は、ミオの自慢だった。
母は、愛情深い人だった。ミオにはいつだって優しく、作ってくれる料理もとても美味しかった。そんな母の好きな香水は、チェーベローズだった。チェーベローズの花言葉は、”危険な戯れ”もしくは”危険な快楽”。それは母の本質を示唆する香りだ。彼女は所謂、色狂いだった。
バーで仕事をしてくる日は、大体朝帰りするのは当たり前であったし、父がいない時を見計らって、家に男を招き入れることもあった。間男が父と鉢合わせた際などは、警察沙汰の騒動などにもなった。しかし、父は母の美貌に惚れ込んでいたので、そういった母の奔放さには基本、目を瞑っていた。
ミオは、というと、物心ついた時から母はそうだったので、すでに慣れ切っていた。ただ、母が男を連れ込む度に、脳裏にあの蛇の光景が浮かんで、眉間の間がツンとするような嫌悪感が差した。そうすると彼は居間に行って、おやつを食べながら、テレビの音量を上げて映画を見るのが常だった。
家には、たくさんの映画のDVDがあった。映画は、母と父の唯一共通の趣味だった。様々なジャンルの映画があったが、多かったのは往年の傑作と言われるミュージカル映画やロマンス映画だった。その中でもミオが好きだったのは、1965年の映画、”ロミオとジュリエット”だった。
悲壮な結末を辿る映画だったが、ミオにとっては何もかもが美しかった。その物語も、登場人物も、その街並みも。
特に美しかったのは、ジュリエットだ。ロミオが彼女を見初めるシーンを、ミオは何度も見た。漆黒の艶やかな髪を結わえ、朱色の清楚なドレスに身を包んだジュリエットの、ロミオを見上げるつぶらな瞳に、当時小学生だったミオは初めて恋をした。初めてこの映画を見た際、大人が見れば大したことのないキスシーンなどが、幼い彼にとってはとても刺激的だった。そして、ロミオとジュリエットがベッドの上に裸で横たわっている場面を見て、彼はショックを受けた。センシティブだったから、ではない。むしろ、まったく気持ち悪いと思わなかったからだ。なんてきれいなんだろう、と思った。そして、彼にとっては不思議で堪らなかった。あれは醜い行為のはずなのに、だ──。
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