17. ラグナロクの狼 フェンリル
テラディン の 森、ヘンスベルグ王国、北部大陸。
「神殺しの狼」フェンリル の姿が、夜の闇の中からゆっくりと現れた。漆黒の毛並みは、血のように赤い光を帯びて、闇を照らしていた。その紅い瞳は、残酷さと威厳を同時に放っていた。
彼の出現とともに、森の夜気は一変した――体の芯まで染み渡る、骨まで凍るような寒さ。空気が息苦しいほどに不気味になった。
今の私は恐怖に打ちのめされていた。私だけではない――リリスもまた、震え上がっていた。まるで、目の前の光景が信じられないといった様子だった。彼女の体は凍り付いたように硬直し、ゆっくりと近づいてくるその姿を見つめていた。
リリスの震える体と共に、エレナという少女に近づいていた狂気の剣士(ソードマスター)も足を止めた。おそらく、彼の操り人形のような体は、主(あるじ)自身が麻痺し、フェンリルを前に恐怖に凍り付いてしまったために、動かなくなったのだろう。
一体何が起ころうとしているのだろうか?私たちは皆、フェンリルに殺されてしまうのだろうか?
アアアアアアウッ!
フェンリルが再び、大きな咆哮を上げた。地面が激しく振動する。違う!おそらく、テラディンの森全体が、その力によって揺り動かされているのだ。
「エレナ…エレナ…」
私は壊れた体で、必死に彼女に向かって這い寄り、彼女の名前を呼んだ。どうか彼女が目を覚まし、逃げてくれることを願って。
今、私たちの目の前にいるのは、ただの悪魔やエルフ、ましてやSランクの魔物などではない。彼は神と同格の存在――かつて「知恵の神」を牙と爪で打ち倒したという、伝説の狼なのだ。
私たちに抵抗の余地などない……悪魔であろうと、人間であろうと、エルフであろうと。誰もこの伝説の獣の敵ではない。
フェンリルは、天と地、双方にとっての災厄なのだ。
そして、フェンリルは空中に飛び上がり、その巨体で空を切り裂いた。彼の凄まじい速度に、大気が激しくうめき声を上げる。瞬く間に、彼はエレナと狂気の剣士(ソードマスター)の間に立った。そして、右前脚を素早く一振りし、男の体をエレナから遠くへと吹き飛ばした。男は数本の木に激突し、なぎ倒した。
その直後、狼はエレナの目の前に倒れているダイアウルフに視線を向けた。彼の目は、倒れた獣を見つめるかのように悲しみを映しているようだった。そして、一瞬だけエレナに視線を移すと、リリスのいる方へと向き直った。
「あ…何なの?どうしてあなたがここにいるのよ、老(おい)ぼれフェンリル?私に何か用でもあるの?聞いて、私は悪魔将軍の一人よ。私に手出しをするなら、悪魔軍全体がこの森の狼を皆殺しにするわよ。この場所を焼き払うわ…アハハハハ!」
リリスは狂ってしまったのだろうか?なぜ、この獣に話しかけているのだろうか?
フェンリルがこの世に数少ない神話の獣の一体だとしても、このような野蛮な獣に話しかけるなんて、あまりにも愚かだ。
もしかしたら、フェンリルには別の姿――悪魔族だけが知っている姿があるのだろうか?
もし、父の言葉を思い出せるなら……
「アエラ…知っているか?神話の獣と呼ばれる魔物たちは、実は世界の均衡を保つ役割を担っているのだ。彼らは災厄と平和の両方の化身であり、天と地の調和を支える柱そのものなのだ。」
父の言葉は真実なのだろうか?これらの神話の獣は、神そのもののような存在なのだろうか?天と地のバランスを保つ者たちなのだろうか?
「Domine tenebrarum, exaudi vocem meam, et da ignem nigrum, ut incendas adversarios meos in pulverem.」
(闇の主よ、我が声を聞き、黒き炎を与えよ。我が敵を灰燼と化さんことを。)
リリスの呪文が響き渡る。
「Ignis Tenebrarum!」
(黒炎(イグニス・テネブラルム)!)
この戦いで初めて、リリスは黒炎(ダークネスフレイム)の呪文を完全に解き放った。
数十個もの巨大な黒い火の玉が夜空を覆う。炎はあまりにも黒く、月の光さえも飲み込んでしまうほどだった。
やがて、全ての火の玉が降り注ぎ始めた。
これで全てが終わってしまうかもしれない。
炎は全てを焼き尽くすだろう――森も、エレナという少女も、フェンリルに打ち倒された狂気の剣士(ソードマスター)も、そして私自身も。
もしかしたら、フェンリルさえも、リリスの圧倒的な魔力の前に灰と化してしまうかもしれない。
だが……
アアアアアアウッ!
フェンリルが再び、空に向かって咆哮した。
その一声で、彼の声が空気を震わせ、巨大な圧力――瞬時に全ての火の玉を跡形もなく消し去った。
リリスが恐怖に一歩後ずさる。
彼女の体全体が恐怖に震えている。
今、私は完全に理解した。
フェンリルは、私たちが戦える相手ではない。
私たちは、高貴で冷酷、そして圧倒的な力を持つ狼の前にいる、ただのミミズのようなものなのだ。
「Deus tenebrarum, iacta in me catenas tuas. Ut inimicum ante me catenam facias.」
(闇の神よ、我が身に鎖をかけよ。我が敵を我が前に鎖と化せ。)
フェンリルが近づいてくるにつれて、リリスの表情はさらに必死になった。彼女は別の呪文を唱え始めた。
「近づかないで、この老いぼれ狼!Vincula Tenebrarum!」
(闇の鎖(ヴィンキュラ・テネブラルム)!)
リリスの命令で、闇の鎖(ダークネスチェーン)が地面から現れ、フェンリルの体に巻き付いた。
これらの鎖は、リリスが以前私に使ったものよりもはるかに大きく、頑丈だった。無数の黒い鎖が瞬く間にフェンリルに巻き付き、完全に拘束した。
しかし、フェンリルは体を一度動かすだけで、それら全てを粉砕した。
アアアアアアウッ!
フェンリルが再び、激しい咆哮を上げた。
そして一瞬にして、彼の体がリリスの目の前に現れた。
そして、右前脚を素早く、そして残酷に振り下ろし、凄まじい力でリリスの体を打ちのめした。
「アアアアアアアッ!」
リリスの苦悶の叫びが、テラディンの森の夜空に響き渡る。
彼女の体は吹き飛ばされた――フェンリルが狂気の剣士(ソードマスター)を打ち倒した時よりも、はるかに激しく。
リリスがようやく巨大な木に激突した時、フェンリルはすでに再び距離を詰めていた。
彼は彼女の目の前で再び、 ピアス 咆哮を上げた。
彼の声の力は木々を揺るがし、後ろに吹き飛ばした。
そして、それらと共に、リリスの体も再び空中に投げ出された。
彼女の無力な体が空に向かって舞い上がると――
フェンリルは飛び上がり、彼女を咥え、情け容赦なく地面に叩きつけた。
私でさえ、彼女の体が地面に叩きつけられる凄まじい衝撃音を聞くことができた。
その夜、テラディンの森の上空は、リリスの苦悶の叫びで満ち溢れていた。
突然、甲高い悲鳴が空に響き渡った。
その耳をつんざくような音は夜を揺るがし、天に響き渡った。そして、上空から巨大な黒い龍が降臨した。龍は、リリスの倒れた体に近づこうとするフェンリルを阻止しようとするかのように、背後から急降下した。
フェンリルの喉から、怒りの唸り声が響き渡る。
新たに現れた龍は、南部大陸の神話の獣の一体。夜空の支配者(ルーラー・オブ・ザ・ナイトスカイ)――モルゴスとして知られている。そして、その背には、悪魔軍の将軍の一人、私の永遠の敵、私がこの世で最も憎む男が乗っていた。
彼は、私の王国を滅ぼした男。
私の民と、最愛の友人たちを虐殺した男。
私の家族を殺した男。
私は今でも、まるで昨日のことのように、その瞬間を思い出せる。彼の剣が、私の目の前で、父の体――ネフェタリ12世国王の体を貫いたのだ。
その男の名は、龍殺し(ドラゴンレイバー)のドラグネル。
ドラグネルの視線が、傷ついた私の体に向けられた。
目が合った。
体の全ての神経が緊張した。
そして、我に返ると――どこから力が湧いてきたのかも分からずに――私は大声で叫んだ。
「ドラグネル!」
彼は私をじっと見つめた。その鋭い眼差しは、まるでこの倒れたエルフの女が一体何者なのかを思い出すかのように、私を認識したようだった。
アアアアアアウッ!
グオオオオオオッ!
突然、フェンリルとモルゴスが互いに耳をつんざくような咆哮と唸り声を上げた。
そして、ドラグネルはモルゴスの背から降り、かろうじて息をしているリリスの体を抱き上げた。一言も発することなく、彼は龍の背に戻り、空へと舞い上がった。
高く、高く、彼らはテラディンの夜の闇へと消えていった。
ドラグネルは、リリスを救うためだけにここに来たのだ。
フェンリルはしばらくの間、静かに彼らの消えゆく姿を見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を回した――私たちの方へ。私とエレナの方へ。
その瞬間、私の体全体が震えた。
私は震える手で地面を掴み、恐怖と不安に押しつぶされそうになった。
今度は……私たちの番だ。
フェンリルは私たちに何をするのだろうか?
しかし――
彼は私を一瞥しただけで、エレナの方へと歩み寄った。
「だ…め…行かないで…お願い…お願いだから、彼女を…生かして…お願い…お願いだから、そんなことしないで…」
私は弱々しくつぶやきながら、壊れた体を地面に這いずりながら、必死に近づこうとした。
涙が私の顔を流れ落ち、巨大な狼がエレナの意識のない体へと近づくにつれて、どんどん重くなっていった。
そして――
フェンリルは彼女の目の前に立った。
しかし……
彼はただ、鼻先を彼女の体に優しく押し当てただけだった。
その後、彼は彼女を救った瀕死のダイアウルフの方へ向き直った。彼はダイアウルフのぐったりとした体を掴み、夜の闇へと消えていった。
なぜ?
フェンリルは、私たちを救うためだけにここに来たのだろうか?
安堵の表情でエレナを見つめていると、私の視界がぼやけてきた。
どこからか、急いで近づいてくる足音が聞こえたような気がした。
「お嬢さん…大丈夫ですか?お嬢さん?ねえ…あちらの女の子は?」
「彼女は無事です。彼女の体は治癒魔法を受けているようで、すでに回復に向かっています。」
「大変だ!このソードマスターが重傷だ!早く手当てを!」
おそらく、大妖精のウリエルは、私たちを見捨ててはいなかったのだろう。
そして、ゆっくりと――
私は意識を失った。
***
「以上で、私の視点は終了です。私の視点にお付き合いいただき、ありがとうございました。ついに、テラディンの森でのリリスとの戦いが終わりました。
ちなみに、次回のタイトルは『フェンリルという名の老人』です。物語をフォローしてくださいね…そして明日、読者の皆さんはエレナの視点に戻ります。バイバ~イ。」
アエラ・ミード
*読者を楽しませる物語を創作するモチベーションが上がるよう、私の小説を応援してください。お願いします...*
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