宣戦布告

宣戦布告 1p

「決まりだな」

 雨は、ふっ、と笑うと菊子にシャンパングラスを傾けた。

 菊子も空のグラスを雨に傾ける。

「ねぇ、シャンパンのお代わり、頼んでも良いでしょ?」

 上目づかいに菊子が言うと、雨は「仕方ないな」と言って、カウンター越しにマスターに菊子のお代わりを頼む。

「ふふっ、ありがとう」

 菊子は雨に向かって極上の笑みを見せた。

 この笑い方はクラブ時代に会得した物だ。

 この笑顔で、どんな男もいちころだった。

 その笑顔にポーカーフェイスの雨がどうだったかは菊子には知れないが。

 あっという間に細いシャンパングラスが菊子の前に、すっ、と置かれた。

「これで終わりにしろよ」

「分かったわよ、ケチ」

 菊子にケチ呼ばわりされた雨は、小さく舌打ちをする。

 その様子を菊子は楽し気に眺めた。




 菊子は、お代わりのシャンパンをちびりちびりと飲んでいた。

 酔いが回って非常に良い気持ちの菊子だった。

 そんな菊子に雨が冷静な声色で話しかける。

「菊子、家で家政婦として働くに至って、一つ、約束して欲しいことがある」 

「なんですか?」

 菊子はシャンパンを口に運びながら軽い口調で言った。

「良く聞けよ、酔っ払い。家で働く以上はビジネスライクな付き合いだ。だから、お互い、絶対に恋愛感情だけは抱かないこと」

「ぶはっ!」

 菊子はシャンパンを口から吹き出す。

「なななっ、何ですって?」

 菊子の酔いは、一気に冷めた。

 この男、よりにもよって、何を言ってるんだと菊子は顔を顰める。

「何の冗談ですか?」

 冷静な表情を浮かべ訊く菊子に、雨は「冗談なもんかよ」と即答した。

 菊子は不愉快を前面に押し出した顔を作り雨を眺めた。

 確かに、雨はかなりの良い男であるし、お金持ちだ。

 それゆえに、かなりモテていた。

 しかし、菊子は今まで一度として、雨にときめいたことは無かった。

 何があっても、雨とはあくまでも友達としての付き合いと割り切っている。

 そもそも、男として雨を意識したことが菊子には無い。

 友達として雨の側にいるのは心地がいいが、それだけのことだった。

「私が、目黒さんと一つ屋根の下で暮らすことで、目黒さんへの恋に目覚める、とでも思っているんですか?」

 冷めた口調で訊いてみる菊子。

「別に。そんなこと思ってやしないさ」

 雨も冷めた口調で答えた。

「なら、そんな約束しなくてもいいでしょう。ちょっとナルシストが過ぎませんか?」

 菊子の辛辣な台詞に雨は全く堪えていなかった。

 雨は、シャンパングラスを揺らし、余裕の笑みを浮かべてこう言った。

「どうとでも取ればいい。でも、この約束が守れないなら、家では菊子を雇えないよ。自信がないならこの話は無かったことにすればいいさ」

 この台詞を聞いて、菊子の頭から、ぷつんっ、という音が鳴った。

「はぁ? 何よ、それ。いい加減にしなさいよ、このナルシスト! 上等じゃない! いいわよ! 私、絶対に目黒さんに恋愛感情なんか抱きませんから! 目黒さんの方こそ私に変な気起こさない様に気を付けて下さいね!」

「声が大きいぞ菊子。安心しろ、俺が菊子に変な気を起こすことなんかあり得ないよ。菊子は俺のタイプじゃないからな」

 そう言いながら笑う雨を菊子は睨みつけ、シャンパンを一気に煽った。

 瞬間、体がくらりとして、菊子は横に座る雨の肩にしがみ付く。

「何をやってるんだよ。ほら、そろそろ帰るぞ」

 雨は優しく笑うと、しがみ付く菊子の手に自分の手を重ねて菊子の手をそっと離した。

「ううっ、分かったわよ。このナルシストぉ」

 完璧に酔っぱらっている菊子に雨はため息を吐きかけるとマスターに目配せをした。

 マスターが伝票を雨に渡すと雨は会計を現金で済ませる。

 会計が終わると、マスターがカウンターから出て来て、店の入り口近くの脇に置いてある車椅子を押して雨の側までやって来た。

 車椅子は雨の物だった。

 雨は二十代の頃、交通事故に遭い、その時の怪我が原因で、車椅子で生活していた。

 雨の足は最早、自分では簡単には動かせられない。

 マスターに助けられながら、雨は車椅子に乗った。

「いつもすまないね、マスター」

 雨に言われて、白髪の目立つマスターの目じりに皺が浮かぶ。

 雨が座席の高いBARのカウンター席に座り降りするのはとても大変なことだったが、雨はカウンター席に座りたがった。

 なので、このマスターがいつも雨を助けていた。

「いえ、目黒様にはいつもごひいきにしてもらっていますから。帰りは、お車でしたか?」

「ああ、迎えを呼んである。ついでに彼女も送って行くよ」

 そう言って、雨は酔いつぶれている菊子を目を細めて見る。

「大事になさってますね、彼女のこと」

  マスターが微笑みを浮かべながら言うと、雨は、「そりゃ、大事さ。数少ない友達だからね」そう言って、菊子の顔を見る雨。

 優しくて温かい表情が雨の顔に浮かぶ。

 雨の唇がそっと形を作る。

 雨は柔らかく目を閉じて、かすかに微笑んだ。





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