それでも恋だと呼びたかった

『お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんが好きだよ。ひとりの男の子として、大好き……』


『わかるよ。だって、わたしのお兄ちゃんだもん』


 ━━あの日から、ちょうど一週間が経つ。


 卯衣は、それ以来何も変わらないままだった。

 まっすぐに虎道を見つめ、いつもと同じように名前を呼び、変わらず彼の隣にいる。

 まるで、あの夜の言葉が特別なものじゃなかったかのように。


 実際に、虎道は卯衣の想いにはずっと前から気づいていた。

 けれど、言葉にしなければ、曖昧なままでいられたはずだった。

 それなのに、彼女はそれを口にした。

 そして、それを口にさせたのは、間違いなく自分のせいだった。



 窓の外では、雨上がりの光が薄く滲み、庭の木々が濡れた葉を微かに震わせていた。

 虎道はギターを膝に乗せ、指先で弦を撫でるように弾く。

 音にならない音。旋律でもなく、ただ、雨の余韻に溶けるような微かな響き。


『虎道、ごめんね』

「…………」


 昔から、雨は好きじゃなかった。

 雨の日は、つらいことばかりが起きる気がしていたからだ。


 それでも、同じくらい大切なこともあったはずだった。

 なのに、自分はずっと、それすら思い出せずにいた。


 それなのに、今になってようやく、雨音とともに胸の奥底から甦ってくる。

 忘れていたはずの記憶と、亡き母と交わした約束が━━。



  ☆



 春の雨が、静かに降り続ける午後。

 幼い虎道は窓際のソファに座り、指先でガラスをなぞりながら、雨粒が流れ落ちるのをぼんやりと眺めていた。

 隣では母がアルバムを広げ、紙の擦れる音がかすかに響く。


 ふと、彼女が窓の外を見つめた。


『虎道、本当にごめんね……』


 唐突な言葉に、虎道は驚いて顔を上げる。


『なんで謝るの?』


 彼女は微笑もうとした。けれど、その表情には、どこか寂しさが滲んでいた。


『お母さんはね、許されないことをしてしまったの。きっと、いつかあなたをつらい目に合わせる』


 虎道は眉をひそめたが、意味はよく分からなかった。


 だから、胸を叩いて言った。


『大丈夫だよ!  おれ、ばあちゃんに言われて毎日修行してるもん。ケンカだって誰にも負けないよ!』


 得意げにジャブを繰り出す。

 彼女は、目尻に滲んだ涙を指で拭い、くすっと笑った。


『虎道は強いのね。でもね、無闇に人を傷つけたりしちゃダメよ。虎道が傷つくのも、お母さん、悲しいから』


 母親の言葉に、虎道は力強く頷く。

 そのとき、彼女の手が一枚の写真に触れた。


『虎道、この子を見て』


 写真の中には、見覚えのない赤ん坊。


『誰?』

『卯衣、っていうの。この子はね、私にとっても、あなたにとっても、大切な子なのよ』

『うい……』


 虎道はじっと写真を見つめる。

 赤ん坊の瞳が、なぜか、自分と同じ色をしている気がした。


『どこにいるの?』


 彼女は少しだけ言葉を詰まらせ、そっと写真を撫でた。


『今は遠いところにいるわ。……ねえ、虎道。もし、いつか卯衣に出会ったら、この子を守ってあげてね』


 虎道は少し考えた後、こくんと頷いた。


『それだけでいいの?』


 少し間を置いて、小さく呟いた。

 まるで、自分に問いかけるみたいに。


 母は微笑んだ。

 そして、小さな虎道を優しく抱きしめた。


『ありがとう、虎道。私たちの、大切な宝物……』



  ☆



 虎道は静かに立ち上がると、ギターをベッドの上に置き、ゆっくりと部屋を出た。


 廊下を進む足取りは重い。

 けれど焦燥感のようなものに突き動かされ、卯衣の部屋の前へと向かう。


「卯衣」


 躊躇いがちにドアをノックし、彼女の名前を呼ぶ。


「お兄ちゃん?」


 戸惑いが混じった声が返ってきた。

 そういえば、自分の方から彼女の部屋を訪ねるなんて、いつぶりだろうか。

 いつも、卯衣の方から虎道の部屋にやって来る。

 虎道が記憶を失う前から、もうずっと。

 中から「いいよ」と小さな声がして、そっと扉を開ける。


 同じ家の中なのに、自分の部屋とは空気が違うように思えた。

 淡い色合いのカーテンが揺れ、ベッドにはふわふわのクッションが並んでいる。

 デスクには整然と並んだノートと、フォトフレームがいくつもある。  

 その中のひとつに、虎道が小学生の頃に撮った、卯衣と絵馬、灯未が並ぶ写真があった。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


 卯衣が椅子に座ったまま、首を傾げる。

 俺は部屋をぐるりと見渡しながら、適当な場所に立つ。


 本当は訊ねるつもりだった。


 ━━お前は、俺と血が繋がっていることを知っているのか?


 しかし、その言葉は喉の奥で絡まって、出てこなかった。

 代わりに、気づけば別の問いを口にしていた。


「俺は……お前にとって、いい兄か?」


 自分でも、なぜこの問いを口にしたのか、はっきりとはわからなかった。

 卯衣は少し驚いたように瞬きをした。

 だけど、次の瞬間には、ふわりと優しく笑う。


「世界一、素敵なお兄ちゃんだよ」


 躊躇うことなく、まるで当たり前のことのように言う。

 その声には、一点の曇りもなかった。


「わたしだけじゃない。絵馬ちゃんも、灯未ちゃんも。日向ちゃんも宵月ちゃんも、みんなそう思ってるよ」


 卯衣の言葉に、虎道の胸が強く締めつけられた。

 彼女の言葉は、本当に真っ直ぐだった。


 新城虎道という人間がもがき続けていた理由が、はっきりと理解できる。

 幼い頃から、自分の本質は何も変わってはいない。

 理由もなく他者を傷つける者を許せなかった。

 目の前で理不尽がまかり通るたび、考えるより先に身体が動いた。


 その結果、彼には“問題児”のレッテルが貼られた。

 暴力的だとか、短気だとか、そんな噂が勝手に広まっていった。

 それでも、どう思われようと構わなかった。


 ━━だが、妹たちまで同じ視線に晒させるわけにはいかなかった。


 ただ、妹たちが不当な目に遭うのを見たくなかった。

 だから、彼は“いい兄”になろうとした。

 彼女たちが胸を張れるような人間になれるよう、努力したのだ。

 

 ━━けれど、本当に“いい兄”ならば妹を、こんなふうに見たりはしないだろう。

 そう自虐せずにはいられない。


 自分の内側にある感情。

 それは、兄として持つべきものではない。

 認めたくないのに、気づいてしまった。

 記憶を取り戻してから。いや、記憶を失う前からずっと、彼の中には兄という言葉では割り切れない何かがあったのだ。

 その存在が、静かに、確実に、胸の奥で広がっていく。


 虎道は、ゆっくりと息をはいた。


「俺は“いい兄”になろうとした。それは、俺が自分はそうじゃないと知っていたからなんだろうな」


 自嘲するように呟いた言葉に、卯衣はふるふると首を横に振った。


「お兄ちゃんのその言い方だと、悪いことをする人の方がいい人みたいになっちゃうよ。わたしはね、無意識にいいことが出来る人は勿論だけど、何か理由があっていいことをする人も立派だと思うんだ」


 穏やかで、まっすぐな声。

 その言葉が、彼の胸に静かに沁みていく。


「ねえ、お兄ちゃん」


 ふと、卯衣が呼びかける。

 顔を上げると、彼女は窓辺に立ち、外の空を見上げていた。


 雨はすっかり上がっていて、夜の静寂の中、湿った空気が微かに漂っている。

 窓ガラスには、小さな雫の跡がいくつも残っていた。


「今日も星を見に行こうよ。雨上がりだからさ。空気も澄んでて、いい星が見えるかもしれないよ」


 振り返った卯衣の瞳が、夜空を映したように透き通っていた。



  ☆



 春の風が夜道をそっと通り抜けていく。

 桜の花びらはすっかり姿を消し、街路樹には柔らかな新緑が芽吹いている。かつて満開の桜が夜空を彩った道も、今は静かに息づく季節の移ろいを映し出していた。

 冷たさを失った風が心地よく、虎道はふと隣を歩く卯衣の顔を見やる。街灯の光が卯衣の横顔を柔らかに照らしている。


「寒くないか?」

「大丈夫、あったかいよ」


 虎道と卯衣は並んで歩いていた。

 あの日の後も、卯衣に特に変わった様子はない。

 優しい笑みを浮かべながら妹たちを見守り、級友たちと楽しそうに話をしている。

 

『少しは暖かくなってきたけど、その格好だとまだ夜は冷え込むぞ』


 家を出る前、そう軽く指摘すると、卯衣は何も言わずに部屋の中へ消えていった。

 戻ってきた彼女が手にしていたのは、虎道が以前使っていたジャージだった。

 袖口が少し色褪せたその服を、自分の肩にかけるように羽織ってみせた。


『お前の服に合わないだろ』


 虎道の冷静な言葉に、卯衣はくすりと笑うだけだった。


『これがいいの。温かいし……安心するから』



 虎道は足を緩め、ふと夜道を見つめた。

 静かに揺れる卯衣の影に目を向けながら、胸の奥底で、かすかに何かが疼く。


「まだ何か、大切なことを忘れてる気がするんだ。……お前ならわかるんじゃないかって。知ってるんじゃないかって、理由はないけど、そう思うんだ」


 表情こそ変わらなかったが、その瞳が一瞬、揺れたような気がした。

 しばらく卯衣は黙ったままだったが、


「……うん。お兄ちゃんの言ってる大切なこと。それが何なのか、たぶんわたしが考えてることだと思う」


 卯衣は少し視線を逸らし、夜空を見上げる。

 星の瞬きが、どこか遠い記憶を映し出しているかのようだった。


「でも、それは……わたしから言うことじゃないと思うの」

「どういうことだ?」


 虎道の問いかけに、卯衣は小さく首を振った。

 そして、少しだけ淋しそうな笑みを浮かべながら言う。


「お兄ちゃんには、自分で思い出して欲しいんだ」


 その言葉に、虎道は答えを返さなかった。



 ふと隣を歩く卯衣の横顔に目をやる。柔らかな街灯の光が彼女の頬を照らし、幼さの残るその顔にどこか大人びた影を落としている。


 病室で目覚めたあの日以来、記憶がないから意識してしまうのだと、ずっとそう思っていた。

 だけど事実は違ったのだ。

 出会ったときにはきっと芽吹いていた感情。それは歳月を重ねる毎に誤魔化しきれないほどに成長してしまっていた。


 歩きながら二人の手の甲が触れる。

 二度、そして三度と。

 偶然ではないだろう。

 もう一度触れると、そのまま離れない彼女の手を、払い除けるのようなことは虎道には出来なかった。

 

 虎道は、自分の胸の内を整理するように考える。


 ━━大人になるとは、どういうことだろう。


 責任を取ることとか、現実を直視すること。そんなことを意味するのだろうか。

 それとも、自分の感情に蓋をすることを覚えるということなのだろうか。


 もし、それが━━

 もしも、それが二人が離れ離れになることだとしたら。

 それなら今はまだ、現実から目を背けて、この甘い夢を見続けてもいいんじゃないか……。


 いつか夢から醒めて、誰かの隣で穏やかな日々を過ごしながら。時々、この過去になった今のことを思い出すことが出来たなら、それもまたきっと幸せと言えるのだろう。


「……それでも」


 口の中で静かに呟いたその言葉は、夜風にさらわれ、消えていった。隣を歩く卯衣には届かなかったかもしれない。それでいい、と虎道は思う。


 許されざる想いなのかもしれない。

 たとえ誰にも理解されなくても。

 たとえ、未来の自分が否定するとしても。

 それでも━━今は、今だけは。

 この感情を恋だと、そう呼びたかった。



 あの想い出のことを話せば、きっと卯衣がどう答えるかはわかる。

 その先に何が待っているのかも、想像はつく。

 けれど、口を開いてしまった。

 自分自身がそうなることを願っているのだと、気づいてしまったから。


「小さい頃、恋愛ドラマの真似事をしたの……覚えてるか?」


 虎道の問いに、卯衣は立ち止まることなく静かに頷いた。


「忘れたことなんて、一度もないよ」


 やがて━━


 月明かりに照らされて伸びた二人の影が、夜道に寄り添うように揺れる。

 ふとした瞬間、風に吹かれる桜の残り香の中で、静かに重なり合う。

 まるで最初からひとつだったものが別々の形を成していただけだとでも言うように、自然に、けれど確かな輪郭で一体となる。


 しばらくして、影は再びゆっくりと形を変えていったが、決して離れることはなかった。



 未来はまだぼんやりとして、まるで月明かりに揺れる影のように掴みどころがない。

 けれど、繋いだ手のひらに宿る温かさだけは、確かにここにあった。

 それは春の風よりも柔らかく、夜の静けさよりも深く、胸の奥へと染み渡る。


 虎道はそっと目を伏せ、その温もりを逃がさないように指先に力を込めた。

 隣を歩く卯衣もまた、何も言わずにただその手を握り返していた。



 星々は静かに瞬き、夜空の彼方から二人の歩みを見守っているようだった。

 月の光は、二人の影をそっと地面に描き出し、その行く先を照らし続ける。

 どこまでも寄り添い、触れ合い、時に重なり合う影は、やがて夜道の闇へと溶け込んでいく。


 けれど、その先に待つ未来がどれだけ曖昧であろうとも、星と月は二人の物語を照らし続けるだろう。


 まるで、どこまでも続く夜空のように、永遠に。


 



 第一幕 了

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