辺境の悪鬼
ユリシアは、期待に胸を膨らませて辺境領にやってきた。
ハルフェスト侯爵家がワーグナー家に縁談を申し込んだのは、何も政略の面を重視しただけではない。
もちろん、家格が釣り合っており、経済力も武力も申し分なく、多少年の差はあれど問題になるほどではないし、何よりもユリシアが強く希望したためだ。
ユリシアは、少しだけ、世の女性たちとは感性が違っている自覚がある。
彼女は本が好きで、高等学院に通っていたころには、図書館で本を読んで過ごすことも多かった。
彼女が好んで読んだ物語には、ある一つの傾向があった。それは、騎士と少女が恋に落ちるもの。それも、男性側は堅物でコワモテの大柄な騎士、というのが定番だった。
そう、ユリシアの好みは、まさしくヴァルハイトにドンピシャにハマったのである。
ユリシアがヴァルハイトを初めて見たのは、デビュタントから3か月ほどたって開催された、国王の生誕祭だった。
周囲の人々から頭一つ分大きい彼はとてもよく目立ち、濃紺の軍服に腰丈の黒のマントがよく映え、そして、周囲を
(まあ、なんてこと! わたくしの理想の方に出会ってしまったわ……!!)
その時に、なけなしの勇気を振り絞り、父である侯爵にお願いして、ヴァルハイトへダンスを一曲ねだったのだ。
若干腰が引けている父から紹介され、精いっぱいのカーテシーをするユリシアを、ヴァルハイトは眉間に深いしわを刻んで見下ろしていた。
「あの、ダンスのお相手をお願いしたいのです」
言った瞬間、ぎゅっとにらみつけられて、ユリシアはひるんだ。
(ご迷惑だったかしら……)
「……私はダンスが得意ではない」
「あの、一曲だけでいいんです。わたくしもダンスはあまり得意ではありません。……だめですか?」
上目遣いでさらにお願いすると、まるで憤怒に顔を赤くそめ、敵を前にした騎士のような表情で、
「私でよろしければ」
と手を差し出してくれたのだ。
その時のユリシアは、天にも昇る気持ちでその手に自分のほっそりとした手を重ねたのだった。
ヴァルハイトとのダンスは、楽しくてドキドキして、ずっと忘れられなかった。
ダンスは苦手と言っていたけれど、緊張のあまり時折ふらつくユリシアを軽々と支え、まるで羽でも持っているかのように難なくふわりとターンさせられ、背中に添えられた大きな手は、守られているような錯覚を起こさせるほどに頼もしい。
ユリシアは物語を再現させられているような気分で、ダンスの間中、うっとりとヴァルハイトを見つめていたのだ。
けれど、踊っている間、彼のしかめた顔は赤く染まり、一度も目を合わせることはなかった。
無理にお願いしたのだもの、きっと、迷惑だったのだわ。
幸せな気持ちと裏腹に、ユリシアは落胆して、もうダンスは申し込まないようにしようと決めた。
辺境にいるせいで、あまり夜会に参加しない彼と会えたのは、あれからたったの2度だけ。
なるべく邪魔にならないようにと距離を取りつつ、
遠目から目が合うと途端ににらみつけられるけれど、会釈を返してくれるのは彼のやさしさなのだ、きっと。
そうやって覚えていてもらえるだけで、ユリシアの恋心は募っていく。
そうこうしているうちに、山のような釣り書が届くようになり、ユリシアは困った。
どれもこれも、みんな細身で優美で、自分の美しさをアピールする男性ばかり。頼りがいのあるたくましい男性を理想とするユリシアには、どうにも合わない。
体格のいい騎士からの縁談もあるにはあったが、調べてみると方々に女性がいたり、乱暴を働く傾向があったり、男尊女卑の考えを強く持っていたり、ちょっとばかり脳筋が過ぎるなど、こちらもユリシアの安全を担保できる相手ではなかった。
国王からは、ユリシアの身を守れる相手を一番に選ぶように言われて、ふと、ヴァルハイトのことを思い出したのは、果たして神の
「お父様、ワーグナー辺境伯様は、ご婚約者がいらっしゃるのかしら?」
「はっ? ま、まさか、あの辺境の悪k……ゴホン、ヴァルハイト・ワーグナー辺境伯閣下のことか!?」
「はい、その辺境伯閣下です。ダメですか?」
ユリシアはほんわかおっとりしているが、頭は悪くない。自分の容姿が争いの種になりうるとわかっている。そのうえで、ヴァルハイトの立ち位置や周辺の国との関係、血筋のことも、きちんと調べていた。
推しのことを知りたいと思う欲求は、どの世界、どこの乙女も変わらないものである。
そのうえで、
(あら、これってもしかして、ワーグナー辺境伯様が適任なのでは?)
と思い至ったのだ。
「いや、確かにワーグナー卿に婚約者はいないはずだが、年が離れてやしないか!?」
「まだ20代ではないですか。40や50の方に嫁ぐならまだしも、離れすぎということはないのではありませんか? お父様とお母さまも7歳差ですわよね。11歳差でしたらそれほど変わりないと思いますが」
「しっ、しかし、辺境伯領は危険だ!」
「危険なのは魔の森であって、町は平和だと聞いてますわ。だって、風光明媚で観光地もあるではありませんの。魔の森にお嫁に行くのではないのですから」
「へ、辺境領なんて遠すぎる! 私は寂しい!」
「仕方ありませんわ。娘はいつか嫁ぐものです」
食い下がる父に対し、ドライな娘である。そんなことより、恋する乙女はヴァルハイトのもとに嫁ぎたいのだ。
(そんなこと、なんて言えば父が号泣して面倒なことになるので口に出すことはしなかったが)
とはいえ、ユリシアがごねる父を押し切り、婚約が整ったのは、当時ユリシア16歳、ヴァルハイト27歳のことであった。
そうして紆余曲折ありつつ、迎えた初夜である。
薄いナイトドレスにガウンを羽織った姿で、夫婦の寝室にしつらえられたソファに座るユリシアの前に立つヴァルハイトは、いかにも不機嫌な様子で、顔を背けている。
(やはりこちらから押しかけるように嫁いできたから、怒っていらっしゃるのかしら)
ちょっとだけ悲しくなって、ユリシアは眉を下げた。
思えば、夜会で見かけたときも、会釈はしてくれたけれど、不機嫌そうだった。
昨日の顔合わせでも、今と同じく顔を背けられて、目を合わせてくれなかった。
式の最中もずっと前を向いてばかりで、こちらをちらりとも見なかった。(それでも、ユリシアは腕を組んで歩けるだけで幸せだったけれども。)
誓いのキスの時は、それこそ顔を紅潮させ、今にも怒髪天を衝くかという勢いでにらまれたのだ。
(でも、キスはそっと触れるだけの優しいものだった)
(しかも瞬間じゃなく、しっかり『いーち』と数えられるくらいには長くて、鼻の奥がつんとした。※鼻血が出そうで)
その旦那様が、意を決したようにユリシアに顔を向ける。まるで親の仇でも見るかのように。
「……ユリシア、君に言いたいことがある。一度しか言わないからよく聞いてくれ」
「……はい」
ヴァルハイトの威圧感たっぷりの顔が見る間に紅潮し、今にも人を斬りそうな表情でにらみつけられた。
ああ、これは、きっと。
押し付けられた系の結婚物の小説でお決まりの、『あのセリフ』を言われてしまうに違いないわ。
ユリシアは悲しくなって、そっと目を伏せた。
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