第4話 君が、君であることへの祈り

 いつの間にか雨は上がり、霧が出ていた。

 廟創山は図書館から三十分程の場所にあった。

 廟創山は標高五百メートルもない山である。ルートによっては小学生も通れる山であり、地元住民にとってはおどろおどろしさや畏怖よりも親しみを感じる場所に違いない。

『まもなく、右方向です。その先、一キロメートル先、左方向です』

 ナビの通りに道を曲がる。整備された道から、コンクリート道から余り人の通っていなさそうな道に変わる。目的地まではまだ距離があるが既に道の両脇には木々が生い茂っていた。道の脇には雑草が生え、対向車線には車の姿は見えない。

 霧が濃くなってきた。

 ハンドルを握る手に汗が滲んできた。

 予感していた。

 この先に、本物のホラーがいる。私を待ち構えている。

 道を曲がり、遂に道はコンクリートではなく未舗装になった。土の道を渡る車はガタガタと揺れる。ただでさえ荒れた道は雨を含み、奥に行けば行くほど道は狭まっていく。

 ただのコンパクトカーであるこの車でどこまで行けるだろうか。もう最期なのだから、行けるところまで付き合って欲しい。

 ポンとカーナビから通知音が鳴る。

『この先、事故多発地域です。ご注意ください』

 バカな、と思った。こんな人通りの少ない山道で事故が多発するわけが……。

『この先、右からの合流です。ご注意ください。この先、踏切です。ご注意ください。渋滞区間が続きます』

 ああ、そうか。もう始まっているのか。

 この先、一時停止があります。この先、事故多発地域です。この先、渋滞区間が続きます。右方向、出口です。次の交差点を左方向です。この先、盗難多発地域です。ご注意ください。

 次々と、カーナビから有り得ないメッセージが発せられる。

 このホラーはどこまで魅せてくれる。

 口元に笑みが浮かぶのを抑えることが出来ない。全てが霧に囲まれた世界で、私はただ浮かれていた。

『目的地周辺です。お疲れ様でした』

 カーナビからの音声が聞こえた瞬間、目の前の霧の中から大木が姿を現す。

「うわ」

 私は強くブレーキを踏むと、泥塗れの路面を車が滑った。

 がくんと揺れる車内で私は振り回されるがシートベルトのお陰で事なきを得た。その中で、死にに来ておきながらきっちりシートベルトを着けている自分の律儀さに半ば呆れた。

 気づけば車は止まっていた。

 フロントガラス越しに巨木は見えるが、ぶつかった感じはない。

 私はエンジンを止めて車から降りて車体を確認する。車は、ぶつかるあと数センチのところで停止していた。

 良かった。

 いや、良かったか?

 車が無傷でも意味はないだろう。どうせ死ぬのだから。

 だが、しかし、この真赤なデミオは最期まで私に付き添ってくれた相棒なのだ。せめて相棒には無事でいてもらいたいというのが人情だろう。

 霧の中でぱっと見ではわからなかったが、よく見ると車は道の上になかった。森の中にぽんと置いたように緩い斜面に車はあり四方を太い木に囲まれていた。もう行くことも戻ることもかなわない。

 スマホを見ると、圏外になっていた。頂上でもネットで動画サービスが見られるような山だと事前の調べでわかっていたのだが。それなのに、ナビ機能だけは生きていた。歩いて数百メートル程の場所に、目的地があった。

 もうここは現世ではないらしい。

 だからもう、相棒とはお別れだ。

 愛車の濡れたボディを一撫でして、私は歩き出した。


 直線距離ではそう遠くない筈だが、木々が複雑に入り組み、方向感覚を狂わせる。霧が視界を遮り、自分がどこに向かって歩いているのかさえわからない。

 しかし私は、その道なき道を進み続ける。

 目的地はすぐそこだ。

 もうすぐ終わる。本物のホラーが終わらせてくれる。

 出来損ないの私を。

 このクソッタレの人生を、最高の形で。

 運動に慣れていない身体が悲鳴を上げる。ハァハァと息が弾んでいた。

 木々や葉が何層も折り重なった地から腐臭がした。それは、父の垂れ流した糞便にも、ちぎれた元上司の腕から垂れた血にも似ていた。

 死に向かって突き進んでいるのに、人生の中でも今が一番自分が生きていると感じられる。

 そうしていると霧の中から声が聞こえた。

 おーい

 おーい

 木々に残響しているものの、それが複数の人間の声だとわかった。

 おーい

 おーい

 遂に来たか。私は立ち止まり額に浮かんだ汗を拭い、近づいてくる声の主を待った。

 三人いた。

 若い男が二人。同じくらいの歳の女一人。

 現代の若者風の服だが、薄汚れた格好だった。まるで、今まさに登山をしていたようだ。

 意外だな。これではまるで……。

 私は男たち二人に見覚えがあった。特にその内の一人は。

「康雄?」

「……姉ちゃん?」

 出会ったのは康雄――私の弟だった。


 弟の話によると、この山に来たのはつい数時間前らしい。山道を歩いている時に何かのお経のような声や白い影を見かけたので撮影用の機材を落としてしまったという。一向に出口が見つからないまま彷徨っていると周りが明るくなり更に霧が出てきて途方に暮れていたそうだ。

 私も今までの経緯を話した。勿論、偽りの経緯だ。

 弟のアカウントから不可解なメッセージが届いたこと。その後地図が送られてきたこと。その地図に従ってここまで弟を探しに来たこと。それだけしか話さなかった。

 呪いの動画も添付されていたこと。それを父に見せて殺したこと。それを元上司に見せて殺したこと。それを兄に見せて殺したこと。それを義姉に見せて殺したこと。それを甥に見せて殺したこと。ここには殺されに来たこと。それらに関しては何一つ話していない。

「姉ちゃん、俺、俺、こんなところに来なきゃ良かった……」

 弟は泣きべそをかいていた。そんなことないと言いたかったが、ここでそう言えば不審がられるだろう。

 弟の友人が慰めるように弟の肩を抱いた。弟の心霊配信動画によるとヒロという名前で呼ばれているらしい。

 弟の友人が言った。

「なあ、康雄。もう心霊ロケ配信とかやめようや。危ない目に遭ってまでこんなことしなくていいって」

「ヒロちゃん……そうだ、そうだよなぁ……俺何やってんだろうなぁ……本当にごめんなぁ……」

「幽霊とかホラーとかくだらねえよ。康雄の姉ちゃんが助けに来てくんなかったら、俺達もう死んじまうところだったんだぞ。助かったんだよなぁ、俺達……」

 山道を進みながら、弟は友人に肩を抱かれながらコクコクと何度も頷いていた。洟を啜って、しゃくりを上げていた。

 二人に伴っていたもう一人の女性、弟の彼女でありはじめという名前らしい。その弟の彼女が言った。

「康雄くん! もうすぐ子供産まれるんだろうからしっかりしてよ!」

「子供?」

 思わず私は聞き返した。

「あっ、はい……今、私のお腹には康雄くんとの子供がいて、今度結婚する予定で。あのっ、康雄くんのお姉さんが今度から私のお義姉さんに」

「へえ」

「こんな山道で、変な気持ち悪いのに追われて、私っ、お義姉さんが来てくれて、出口までの道まで知ってるなんて、嬉しいです!」

「ありがとう」

 出口までの道なんて知る由もない。素知らぬ顔で私は枝を掻き分けて前に進む。

「あの、私達の子供っ、お義姉さんにとっては甥になるんですけど、帰ってきて、ちゃんと産まれたらっ、名前考えてもらえますか?」

「光栄だね。ちゃんと案内するから安心してね」

 私がそう言うと、弟の彼女は心底安心した様子だった。

 弟が私に聞いた。

「あのっ、そういえば姉ちゃんあのさあ! 父ちゃんは置いてきたの? 大丈夫なのっ?」

「……ああ。兄さんと義姉さんと猛くんと同じ所にいるよ」

「あっ、ああ……そうなんだねっ。うん、そうか……」

 今度は嘘じゃない。

 父は兄と義姉と甥と同じ所にいる。

 地獄にいる。

 私達も行く。

 私達の目的地は無論出口などではなく、呪いが指し示した場所だ。

 歩いている内に霧が晴れる。木々の間から真赤な陽の光が差す。夕暮れなのか、朝焼けなのかわからない。

 スマホを盗み見ると、日付や時刻の表示が文字化けしており判別がつかない。

「もうすぐだよ」

 私が言うと、弟たちはほっとしたように息を吐いた。

「良かったぁ……」

 弟の彼女は心底安心したようだ。弟は私を見て言った。

「姉ちゃん、俺、姉ちゃんが助けに来てくれて本当に嬉しいよ!」

 私は弟に微笑んだ。

「うん、ありがとう」

 やがて私達は目的地に辿り着いた。

 そこは開けた場所だった。

 芝生のように低い草が埋め尽くす中に、ぽつぽつと地蔵が散乱している。

 そして、広場の中央には、小さな建物があった。鮮血のような陽の光を背に佇立していた。

「な、なんだ……アレ……」

「大丈夫。行ってみよう」

 震える弟の友人の声にそう答えて、私は建物に向かって歩いていく。

 その途中に落ちてある地蔵を見る。

 仰向けに倒れた地蔵は苔むして、ひび割れて、顔も欠けていたが、一つだけがわかった。

 この地蔵の手は掌を合わせているのではなく、手の甲同士を合わせている。

 裏地蔵だ。

 顔や身体などはデフォルメされており一般的な地蔵然としているが、手だけが本物の手のように精緻に彫られている。

 地蔵というよりも、裏拍手をしている像を作るために地蔵という体にしてあるように感じられる。

 くく、と低い笑いを私は口の中で噛み殺した。

 遂に建物の前に来た。

 ああ、心が躍る。

 もう自分のことを偽らなくてもいい。

 本物のホラーの前で本物じゃない私がいていいはずがない。

「あ、あ、あの、出口、どこで、お、お義姉さ……ここ、どこ……」

 半分泣いてしまっている弟の彼女が恐る恐る私に尋ねた。

 だから私は三人の方に振り返って、子供が宝物を見せるような最高の笑顔で答えた。

「クライマックスだよ!」

 唖然とする三人に私は続けて言った。

「高山竜司が動画を見てから七日目、佐伯伽椰子が呻き声を上げながら姿を現した時、杉浦渚の前世が何者かわかった時、ヘザー・ドナヒューがラスティン・パーの家に辿り着いた時、リー・リオナンが大黒仏母の顔を暴くその瞬間! わかるよねえ!」

 情動を抑えられず、大声で数々のホラーを語っていた。だのに、三人は黙して微動だにしなかった。私は苛立ちを覚えて声を荒げた。

「あのさあ! リングと呪怨と輪廻とブレア・ウィッチ・プロジェクトと呪詛のどれか一つくらいは知ってて欲しいなぁ! 仮にも皆、心霊動画作ってたんでしょ!」

「え」

「もしかしてシックス・センスも観てないの? あー! 良かった、クライマックスのネタバレ言わなくて! ブルース・ウィリスさーん! 私、秘密のこと話してませんよ! 信じてーっ!」

 天に向かって私は吠えた。

 弟は既に精神の均衡が保てていないのか、泣きじゃくって地面に突っ伏している。

「姉ちゃん……何、何を、言ってんだよ……」

「何って?  だからクライマックスだって言ってるじゃん」

 私は弟の方に向き直り、言った。

「いいホラーのクライマックスは主人公とかが怪異の真の姿を拝んで身の毛もよだつ終わり方して最高にアガれるように出来てるんだよ。ここにおわす本物はそういうことを私達にやってくれるに違いないって言ってんの!」

「な……」

 弟の友人と弟の彼女は絶句していた。そして、私の言葉を理解したらしい弟は泣き出した。

 私は姉として出来る限りの優しい微笑みを向けた。

「康雄、ありがとうね。康雄のアカウントを使って本物が呪いの動画を送ってくれたんだよ。お父さんと兄さん、義姉さん、猛くん、その他諸々、その動画見せたら全員死んじゃった」

「……」

「死んじゃったっていうか、途中から死ぬとわかって見せてまわってたから私が殺したのとおんなじか。ま、それはいいとして……」

 私は断末魔のような深紅の日差しの中で両手を広げる。順風に身を任せる大きく拡げた帆のように。

 選ばれたのだと、選ばれたものだけがここに立てるのだと。

 私は嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。

「この廟の扉を皆で開いてホラーを目覚めさせよう! 呪いを世界に解き放とう! 私達が本物の最初の目撃者となり、犠牲者になるんだっ!」

 私の大音声が木霊となって響き渡る。

 シンと一瞬静まり返った後、よろりと弟の友人が一歩踏み出してきた。どこで拾ってきたものか手には太い木の枝、所謂棍棒を掴んでいた。

「こいつ、おかしいよ……狂ってるよ……お前、本当は、康雄の姉ちゃんじゃねえんだろ……!」

 フッ、と私は鼻で笑った。もう何をしても遅いのに、もう結末は決まっているのに、抗うのか。ホラーではこういう人が主役になり、足掻いて、藻掻いて、苦しんで、そして、死ぬ。

 こんなに盛り上げてくれるんだね。

 私は何かに感謝せざるを得ない。

「嫌いじゃないよ。そういうの」

 つい本心を口にしてしまっていた。だが、本物に呪い殺してもらう栄光に一人で浴するには忍び難く、私は敢えて問うた。

「でも、いいの? 御前でそんな乱暴なことしちゃったらきっと呪いに嫌われちゃうよ? 私も心霊ホラーで最終的に一番怖いのは人間でしたってオチはさぁ……」

「ふざけるな! このっ……化物がぁー!」

 弟の友人は棍棒を振りかぶり私に殴りかかってきた。

 まあ、仕方ないか。シックス・センスも見たことないんだから。

 私は呪いの力を借りることにした。

 すかさず、私はそれをやった。

 それは、病に臥せった時や不吉なことが起きた時に、それを裏返す為の所作。

 世界に向ける害心そのもの。


 ――呪いを目撃して終わりたくないのならば。


 裏拍手。

 掌を合わせるのではなく、手の甲を合わせることでそれは成立する。


 ――今ここで、死ね!


 棍棒が私に振り下ろされる瞬間、弾かれるように弟の友人は後ろに飛んだ。

 そして、地面に倒れ伏す。

「え」

 弟の友人の腕が棍棒を持ったまま、曲がってはいけない方に曲がっていた。

 弟の友人の大きく見開かれた目が私を映し、恐怖の表情を形作る。

 ごき、ばき、と耳に残る嫌な音をさせて弟の友人の腕だけでなく全身のありとあらゆる間接が曲がる。いや、折りたたまれていく。

「ぁ!」

 低く醜い呻き声を上げ続けていた弟の友人の首が上下逆さまに曲がった。鋭い声が迸ると同時に、血走った目がグルンと上を向き、そして、何も言わなくなった。

 一つの歪な球に変わった弟の友人の手にはまだ棍棒が握られていた。

「ひっ、ひいっ、ひっ」

 弟が私を化物を見るような目で見た。蛙が鳴くような声で悲鳴を途切れさせる。

 そして、弟は逃げ出そうとした。彼女を置いて。

 だが。

「あっ! あ、あ!」

 弟はその場で頭を掻き毟り、悶え始める。

「うわ! あ! やだ! やだよ! 俺を殺さないで! 殺さないでっ! やだよっ!」

 そして、弟は立ったままガクガクと震え出した。何かを掴もうとする弟の手が中空を惑う。それはまるで何かを振り払おうとしているようだった。

「た、助けて誰か! 姉ちゃん! 姉ちゃあん! あ、あ、ああああああああ!」

 助けを求める絶叫が無慈悲な大地に染み渡る。

 弟の目がぐるりと上を向き、そして。

 ぱん

 弾けるような肉が音が辺りに響いた。瞬間、弟の姿が消えていた。残るのはタンパク質が燃えた時の悪臭のみだった。

 弟がいた筈の場所にはぶすぶすと音を立てる僅かな黒く焼けたミンチ状の肉片だけだった。

 なんてことだ。

 結局、半田家で生き残ったのは出来損ないと言われ続けた私だけか。

 運命の皮肉に、私はアハハと笑った。

 視界の端に弟達の死体と私を交互に振り返る弟の彼女の姿があった。

 そうだ。まだいるんだった。半田家の生き残りが彼女の中に。

 私は弟の彼女に向き直る。

「いやあああああああ!」

 恐慌に陥った彼女は逃げ出した。逃げ出そうとしたが、出来なかった。忽然と、何の前触れもなく、手足が消失していた。ぼとりと鈍い音を立て、弟の彼女が地面に落下する。

「あ……ああっ」

 四肢を切断されて転がった彼女は、恐怖と絶望に塗れた顔で私を見た。その目には涙が浮かんでいた。切り離された手足はどこに行ったものかわからず、四肢の断片はどうやったものか傷口がない。初めからそれがなかったかのようだった。

 これではどう放っておいても死にそうにないか。

 私は歩み出す。弟の彼女の方ではなく、弟の友人の元へ。目当ては弟の友人が掴んだままの棍棒である。

 弟の友人だったものからそれを受け取る。重い。しっかりと中身が詰まっている。手に握った感触も良かった。弟の友人は咄嗟に良くこんなに丁度いい棒を拾ったものだと感心する。

 そう。

 人間を撲殺するのに余りにも丁度良かった。

 私が寄り道をしても、弟の彼女は逃げられずにいた。もぞもぞと芋虫のように身を捩らせるだけで、どうすることも出来ない。涙と汗と洟と唾液、あらゆる体液を垂れ流しながら悶え続ける弟の彼女を私は酷く好ましいと思った。

 弟の彼女は何かを呟いていた。

「ひ、ヒロ、く」

「え?」

 棍棒を振り下ろそうとする手を止めて、私は聞き返した。

 そして、聞こえた。

「ヒロ、くん、たすけ、て……ヒロく、ん……ヒロくぅん……」

 弟ではなく弟の友人に助けを?

 彼女にも既に二人がこの世にいないことはわかっているはずだ。だが、彼女は弟ではなく弟の友人に助けを求めている。

 それは、つまり。

「もしかして、あなたのお腹にいるのって、本当は弟じゃなくて友達の方?」

 疑問を口にした私を見上げる怯えた顔は、是とも非とも判別がない。幾らこんな状況でも全くの偽りの疑いをかけられたなら否定するものだろう。

 私は敢えて尋ねた。

「そっか、あなたのお腹にいるのは弟の子供だとばかり……。じゃあ、どうしようかな。それとも、本当は弟の子供だったりする?」

「ちっ、ちが! ちがい、ま……す」

「違う?」

「やすお……おとうとさんの、こどもじゃ、ないです……」

「あらら、そうなの」

「だから、みのがして、くだ、さ」

 弟の子でなければ殺さないという気配を文意に含めば、認めるに違いないという予想は当たった。

 駆け引きが上手くなってしまったな、私も。

 私は跪いて、弟の彼女の耳元で囁いた。よく聞こえるように、丁寧に、優しく。

「私ね、あなたに甥の名前を考えてほしいと言われてからずっと考えてたの。今決めたよ。名前はヒロ康。本当のパパと嘘のパパの名前を一つにしたの。素敵でしょ」

 言い終わるや否や私は立ち上がって力の限り弟の彼女に棍棒を振り下ろした。

 二つの命が消える生々しい音がした。


 私は廟の前に立つ。

 近づいてみると本当に小さい建物だ。祠よりは大きいが、恐らく中は一畳あるかないかではないだろうか。

 世紀の瞬間だが、幾ら何でも焦らされすぎだ。

 躊躇なく私は廟の扉を開いた。

 すると、有り得べからざる光景が目に飛び込んできた。

 廟の中には意外にも広い。いや、意外にもという度を越えて、物理的に絶対に有り得ない広さだ。

 畳が何畳も敷かれた日本家屋だ。見るからに昭和の、少なくとも五十年以上前の作りだった。無人だった。

 何となく子供の頃に母親に連れていってもらった公民館の広間を思い出す。あの頃は幸せだった気がする。

 部屋の両脇にはずらりと座布団が引いてある。余り高価なものには見えない。使い古しのものだ。

 部屋に窓がない。照明も見当たらない。なのに常夜灯よりもやや強い光が屋内を満たしている。不気味には感じられない。安らぎすら感じられる暖かい色の光だ。

 座布団が並ぶ部屋の奥の机がある。その前には座布団、机の上には、あれは……額縁? 宗教的なもの、何となく仏教的な祭壇を思わせる。

 ここに来て足が竦んでいた。

 勢いよく扉を開けたその刹那には本物のホラーが現れると思っていたが、まさかその先があるとは。

 だが、行く。行くしかない。それだけのものを捧げてきた。それだけの罪を犯してきたのだから。

 土足でもいいのだろうがやはり畳の部屋に口を履いたままなのは礼を失するだろうと思い、私は廟の中に上がる前に靴を揃えて置いた。

 ぎしり、ぎしり、ざっ、ざっ

 畳を踏みしめて擦る音がした。非現実的な世界でもちゃんと畳は畳なのだと感心する。奥行きはあるが、梁は低い位置にある。屈みながら慎重に部屋を進む。

 すると。

 ざわざわ、ざわざわと人の声がした。

 振り返るが誰もいない。

 ヒロイモン信仰の信者たちだろうか。考えても詮無いことだが、ちゃんと考えたい。最期の瞬間まで考え続けろ。絶対に意識を手放すな。私を殺す本物がなんなのかちゃんと知り、その目に姿を焼き付けて死にたい。

 だが、甥のように身体を醜く作り替えられるのもいいな。弟のように何も考えられないまま絶叫して一気に爆ぜるのも最高だ。

 いや、バカか。何もわからないまま殺されてどうする。私のような出来損ないの化物は、恐怖と絶望を理解しながら嬲り殺しにされるのが相応しいに決まっているだろう。

 考えがまとまらぬ内に、私はもう最奥の机の前まで来てしまった。

 間近で見下ろすと、机は脚が折りたたみ式の簡素なものだった。本当に、公民館じゃないのだろうか、ここは。

 それでも、ここが祭壇なのは間違いないらしい。祭壇の上にある額縁には写真が収まっており、その目の前には石が置いてある。これは……像?

 これが祭壇ならば、私はここに座るしかないだろう。私は祭壇の前の座布団の上に正座した。

 漸く腰を降ろして座ることが出来た。

 目の前の祭壇を見つめる。

 額縁の中には誰なのか判別出来ない程古びた白黒の写真が上下逆さまの状態で収められている。

 その前には白い石像があった。こちらに背を向けて置かれてある。

 ここでも裏返しの風習か。

 ならば私は裏拍手をするしかないだろう。

 さっきやってみてわかった。

 裏拍手は決して呪いを意味するものではない。

 例えば、そう、逆十字だ。

 聖ペテロが磔刑に処されるに際し、主と同じ状態で磔にされるのは忍びないとして、自ら逆さに磔にされるのを望んだという。

 それが逆十字の起源である。

 故に、逆十字は謙虚とキリストと比較しての無価値を意味する。

 それと同じなのだ。

 私は手の甲を合わせ、裏拍手の形を取った。

 掌を合わせる行為が神への自分や家族の幸福や平穏無事を祈るものであるならば、手の甲を合わせるという行為は自分や家族の幸福と命すらも捧げる、より深い祈りに違いない。

 ああ、本物のホラー、呪いよ。

 私はあなたに全てを捧げます。

 だから、私を呪い、滅ぼしてください。

 その時だった。

 囁き声が突如、部屋を震わせる。

 覚悟を決めていた私も流石に面食らう。

 これは囁き声なんかじゃない。

 お経、いや、歌?

 御詠歌……?

 動画の中で微かに聞こえていたのはこれだったのだ。しかし、これははっきりと歌詞が聞こえる。


 あるかんじょ でぎと あるく

 とみの かんたちおん ふれん

 すてや まれいか からみとうさ


 切実な、余りにも切実な、祈りの歌が全身を震わせる。

 なん、だ。これは?

 歌詞はわかる。何故かわかる。理解は出来ない。意味がわからない。

 日本語ではない。未知の言語?


 あるかんじょ でぎと あるく

 とみの かんたちおん ふれん

 すてや まれいか からみとうさ


 怖い。

 これはもう、絶対に、恨みを残して死んだ人間の呪いなんかじゃない。

 非人間的な、もっと言えばより上位の存在だ。

 恐れを齎すものというより、畏れそのものだ。

 歯がガチガチと震えて、歯の根が合わない。もう、逃げ出してしまいたい。

 こんなのは初めてだ。

 だがもう、逃げようとて逃げられない。

 手の甲同士が強力な磁石で張り付いてしまったように動かない。

 なんなんだ。なんなんだよ、これは。

 想像超えてる……こんな化物……。


 あるかんじょ でぎと あるく

 とみの かんたちおん ふれん

 すてや まれいか からみとうさ


 おみや あぶすりっとぅ うに でぢぃと


 その、瞬間だった。

 ず、ずず、ず

 畳をする歪な音が聞こえたのは。


 ――いる!


 自分以外の誰かが私の背後にいる。いつの間に。いや、きっと最初からいたのだろう。

 どれくらい近くに。

 ず、ずず、ず

 また音がした。思ったより近い。引きずるような音は少しずつ、それでも確かに私に近づいている。

 振り向かなければ、気づかれないか。いや、そんなわけがない。もう気づいているから近づいてきている。これはあれだ。肉食動物と同じだ。獲物の背後から今か今かと距離を詰めているのだ。

 ず、ずず、ず

 自分の背後が、写真立てに反射しているのに気付く。

 女が、いた。

 胃がぐっと縮こまる。

 ワンピースか死装束なのかよくわからないが、白い服を着ている。

 黒髪が腰まで伸びていた。

 細いばかりの肢体、目は髪に隠れてわからないが細面で口も鼻も作り物のように整っている。若い。恐らくは美人だ。まだ顔の全てが見えたわけではないが、今わかる時点ではこんなに綺麗な女を今まで見たことがない。

 フィクションに出てくる幽霊そのものだ。本物もこうだったらいいがいざ出てこられるとちょっとあからさま過ぎて笑ってしまうかもしれないと思っていたが、実際には全く笑い事じゃない。

 今からこの化物に殺されるのか。

 余りにも想像を超えた結末だ。

 ああ、なんて。

 なんて。

 なんて、最高なんだ。

 ず、ずず、ず

 遂に女は私のすぐ側まで辿り着いた。

 許容量を超えた感情が全身を満たし、溢れ出たものが涙として零れ、私の喉からは意味をなさない言葉が漏れ続ける。

 無上の絶望と歓喜が私を支配する。

 さあ、どうするの。

 君の全てを受け入れるよ。

 それとも、何か言ってくれるのかな。

 死ね? それとも、殺す?

 それもいい。

 出来損ない、穀潰し、何とでも私を呼んでほしい。

 さあ――。

 女は背後からするりと腕を伸ばして私の肩を抱いた。

 凍るように冷たいのに、白くて柔らかな腕。

 ごくりと私の喉が鳴った。

 そして。

 私の耳元で鈴のように高く澄んだ音色が囁いた。


 生まれてくれて、ありがとうございます


 檸檬のような、金木犀のような、爽やかで甘い匂いに包まれながら、私は気を失った。


 目が覚めた。

 もう朝だった。

 薄闇の中で、黒い梢が見えた。

 愛らしい鳥の鳴き声が聞こえた。

 泥塗れの中で、全身が水を含んだまま私は大の字になって倒れていた。

 視界の端に愛車のデミオが見える。どうやら、舗装されていない道の途中にいるらしい。

 私、生きてる……。

 それ以外は何も考えられないまま、ポケットの中からスマホを取り出す。

 通知が来ていた。それはやはり弟のアカウントからだった。

 通知を開けてみた。

 地図のリンクが消えていた。その代わりメッセージが送られていた。前のメッセージに繋がる文章らしかった。


 此れは呪

 軛から逃れる術は唯一つ

 半田美久が半田美久であること


 私が私であることか。

 私は、本物のホラーが直接くれた言葉を思い出す。


 生まれてくれてありがとうございます


 ずっと出来損ないだとかお前なんて生まなければ良かったと言われてきた私に、本物の呪いがくれた祝福の言葉。

 目の前の景色が滲む。目の奥が熱かった。親が死んでも泣けなかった。泣くなんてバカバカしいことだと思っていた。なのに、いざ泣いてみたら悪くない気分だった。

 一頻り涙を拭わないまま泣いたあと、私は立ち上がった。

 まだ歩ける。

 まだ車に乗られる。

 まだ生きられる。

 だったら、どうする。

 ずっと望んでいた君は、私が私であるように望んでくれた。

 私って何だ?

 私は……そうだ、私は君に祈る者。

 君が、君であることへの祈り。

 それになりたい。

 私は本物のホラーである君のように、呪いそのものになる。

 そう決めて、私は自分の車に乗った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る