第3話 莞爾

 事故を起こしたトラックの運転手一名、家族連れの客三名、ファミレスの店員一名。そして、私の元上司一名。

 それが俗に言う八舞市トラック暴走事故の犠牲者である。

 表向きにはトラック運転手が運転中に心不全を起こしたのが事故の原因となっている。表向きというよりどの事実を照らし合わせてもそれ以外の原因はないのだろう。

 だが、私は知っている。

 この事故が呪いによって引き起こされたのだと。

 その呪いは私が計画して伝染させたものだということを。

 ワイドショーでこの悲劇を皆が殊更に騒ぎ立てているが、いつかは何もなかったかのように忘れ去っていくだろう。

 だが、これは終りなのではない。始まりなのだから。

 私はもう一度計画し、そして、やるだろう。

 そう思っていた矢先だった。兄の健一郎がある日の夜、家にやって来たのだった。


「なあ、おい。お前はいつこの家を出て行くんだ? いつになったら自分の立場をわかってくれるんだ? この出来損ないが!」

 そう言って兄はテーブルをバンと大きな音を立てて叩いた。

 とても蒸し暑い夜のことだった。突然だった。居間で私と兄と義姉の間で家族会議という事になった。実態は、私は俯いたまま二人に強請られているという形だったが。

「なんとか言ってみろ!」

 どう答えるのが正しいだろうか。

 実際のところ、この家やそれに付随した家財を譲っても特に問題はない。私一人でこの家に住むのは広すぎるし、放っておいても呪いは私をほどなくして殺してしまうだろう。

 義姉は電子タバコを燻らせながら横目で私を見ながら言った。

「あんたさあ、いい加減にしなさいよ。もう良い歳した身なんだから、親の家にいつまでも住んでないで自活しなさいよ。結婚もせずに、仕事もせずにさあ。みっともない」

「そうだよなあ。こいつなんて、兄貴に曲がった事したら顔腫れるまでぶん殴られたらしいぞ? 俺もお前にそういうことすべきだったな。今からでも教育してやろうか? オラッオラッ」

 兄はシュッシュッと口にしながらボクシングの真似をした。子供の頃、兄や弟にヒーローごっこと称して殴られたことはあった気がする。

 くねくねと頭を振りながら兄は拳を私に向ける。当てるつもりはないようだが、口元には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。

 相続放棄しないと暴力も辞さないという脅しなのだろうか。

 父の現役時代の貯金は既になく、微々たる年金は介護費用や医療費でほとんど残らなかった。先祖代々の土地はともかく、何十年も前から建て替えていない家や家財に対した価値はないだろう。それは兄も重々承知のはずだった。兄夫婦が強請ってまで父の相続を手にしようとする理由は、兄の経済事情などにあるのかもしれない。古びた電灯の下でも、何となく二人の着ている服や表情が草臥れているように感じる。

 二人の様子を俯きながらでも観察しているのは、あの呪いの動画をどう二人に見せるかを思案していたからだ。

 元上司の場合、私に好意を持っているから動画を見せるのは容易だったがこの二人だとそう上手くはいかない。今のように興奮した状態では落ち着いて私の話を聞いてもらうなど出来ない。動画を見せるなど論外だ。二人にとってやむにやまれぬ事情があるなら、この興奮状態は当分解けないだろう。

 私が何も言わないので業を煮やしたのか、兄が声を上げた。

「何か言えよ! この穀潰しが!」

「ちょっと健ちゃん、そんなに怒鳴らないで。近所迷惑になるから。こいつムカつくから気持ちはわかるけどさぁ」

「ったくよ。早くお前が土地の権利書なり持ってくるなりすればいいんだよ。猛はなんかなんかゲームばっかりやってるしよ。どこにいんだよあいつ」

「今お義父さんの部屋にいるよ」

 猛とは兄の息子、つまり私にとっての甥である。確か小学生になったばかりだったか。父、彼にとっての祖父の告別式でもゲームをしていたのだから筋金入りである。

 そこで私は閃いた。

 そうか。兄夫婦ではなく、甥に動画を見せればいいのか。

 先日の元上司の場合も元上司の近くにいるだけで人が死んでいった。今回もそれに倣えばいい。

「わかりました」

 私が頭を下げると、突然のことに驚いたのか二人は黙ってしまった。

「今から土地の権利書を持ってきます」

「お、おお……そうか」

 兄はたじろいだのか素直に頷いていた。だが、義姉はそれを遮った。

「ちょっと待ってよ」

 気付かれた? いや、そんな筈はない。幾ら疑心を持っていたとしても、私が自分の息子に呪いの動画を見せようとしていると気付くはずがない。

 それはわかっているのだが、焦りが募っていく。こういう駆け引きは苦手だ。人生の中で深く他人と付き合ってこなかったツケがこういう形で巡って来るとは。

 義姉は続けた。

「あんた、義父さんが死んだのってあんたの監督不行き届きのせいなんだからさあ。お兄さんお姉さんごめんなさい私がどうしても望んで始めた介護なのに私のせいでお父さんを死なせました自分もお父さんの後を追って首を吊るべきなのは当然ですがそんな勇気はありませんその代わりに長男の健一郎様の為に相続を放棄します、ここまでのことは言いなよ。それをまあここまで渋って意地汚いね、ほんと。もうあんたからの謝罪の言葉なんていいから、せめて指ついて謝んなよ私たちに」

「……?」

「何ぼさっとしてんの! 土下座だよ、土下座ァ!」

 義姉は立ち上がり畳を指差して、怒鳴り散らした。

 ああ、なるほど。そんなことか。げんざい

 そっと胸を撫で下ろして、私は兄と義姉に向かって土下座をする。

「申し訳ございませんでした」

 土下座は今までで一度もやった事がなかったが、意外とすんなり出来てしまった。

 何故自分はこんなにも自尊心と言うものがないのだろうか。元々も希薄だったが現在はよりその傾向が強い。

 生命というものがそもそも相対的なものであると感じられるようになったためだろうか。生物とはそもそも生まれていないか死んでいる状態が正しくて、生きている状態というのは一時的なものなのだ。本質的に生命とは……。

 相対的だとか、本質的だとかどこか宗教染みているな。そう私は額を畳に擦り付けながらほくそ笑んだ。古びた畳の臭いが鼻孔を掠めた。あの檸檬のような、金木犀のような、甘くて爽やかな匂いが恋しい。

 土下座をする私に向けて兄と義姉は笑いながらスマホを向けて写真を撮っていた。

「アハハハハ! めちゃウケる! 土下座してる人初めて見た!」

「お前最高すぎ! 今度から俺たちが来たときは毎回土下座で出迎えろよ!」

 どうやら二人共喜んでくれているようだった。今度、誰かに動画を見せる時は土下座も有効かもしれない。

 だが、使う機会はもうないだろう。今日、兄と義姉と甥が死ねば主だった知り合いは存在しなくなる。

「オラ! とっとと権利書持ってこいやカス! 早く行ってこいやゴミ!」

 兄に促されて、私は居間を後にする。

 廊下に出ると、真夏の夜特有の湿った熱気に包まれる。日中聞こえていたけたたましい蝉の音はしないが、鈴虫なのか蟋蟀なのか美しい音色が聞こえてくる。いい夜だ。怪異が人を呪うに相応しい夜だ。

 今はもういない父の部屋に来た。

 甥はやはり部屋の隅で携帯ゲーム機でゲームをやっていた。やや小太りで、いかにもふてぶてしい雰囲気の子供である。自分が子供の頃、こういう顔の同級生に虐められた覚えがある。

 オンラインでやっているのか、甥は叫びながらプレイしていた。

「死ね! 死ね! こいつ死ね!」

 甥の足元にはスナック菓子の袋が散乱している。ゲームをやりながら食べ散らかしたのだろう。

 私に気付いたのか、甥は画面から目を離さずに言った。

「なんだよおばさん! 俺今ヤバいんだって! 俺今ヤバいんだって!」

 私はよく知らないが、イカ人間同士が水鉄砲で撃ち合うゲームだとネットのニュースで見たことがある。聞く限りだと平和的なゲームだが、甥の様子を見るとそうでもなさそうだ。私はしゃがみ込んで、甥と目線の高さを合わせる。

 甥の目は血走っていた。

「だっ! あっ! あー! なんだよクソ! 今当たった! 当たったやろ! アークソ! 負けた! おばさんが話しかけたからだろ! 殺すぞ!」

 甥はそう言ったが、私はまだ話しかけていない。兄と義姉にこういう直情径行というか、他罰的なところは似ているかもしれない。やはりというかなんというか、余り利発な子供ではなさそうだ。

 口元に笑みが浮かびかけるのを抑えて、私はさも優しい親戚の顔をして甥に話しかける。

「ごめんね。急に話しかけて。猛君、面白そうなゲームをやってるね」

「は? クソゲーだよ、こんなの。俺が勝てねーもん」

「へえ。じゃあ、私が今度クソゲーじゃないゲームを買ってあげようかな」

「マジで? 約束だよ? 嘘だったらマジで殺すよ?」

「嘘じゃないよ」

 勿論、嘘である。棺桶に入れてやるのは悪くないかもしれないが。

「俺は使っていいから。俺はマジで殺すから」

「そっかぁ。でも、殺すなんて言っちゃダメよ?」

 私は微笑みながら相槌を打った。

 本当に殺す気なら殺すと言うべきではないだろう。

 私は何度も呪いが人を殺すところを見た。呪いは唐突に、脅す事もなく、何の慈悲もなく、機械的とも言えるほどに無造作に命を奪う。これこそが本当に人を殺す者なのだと私は知った。

 私は間接的とはいえ、呪いの動画を見せることで人を殺めている。

 なら、私は殺す者としてどうあるのか。どうあるべきなのか。

 小さきものであり侮られている私なら、とるべきなのはいかにも無害な存在としてふるまうことだ。

 私は素知らぬ顔で、甥の隣に座ってスマホを取り出した。

「ねえ、猛君。面白いゲームを買ってあげてもいいけど、ちょっとだけ見て欲しいものがあるんだ」

「見るだけ?」

「そうそう」

 甥は興味津々で私のスマホを覗き込んでいる。元上司の時と同じように。

 かかった。

 私は動画を再生させた。俄かに自分の心臓が早鐘を打ち、口元が歓喜に歪むのを感じた。

 この呪いは罪もない子供に手心を加えて殺さないでおくのか。それとも、老若男女問わず殺してしまうのか。子供であれ、赤子であれ容赦なく殺してしまうのが私のホラーの好みだが、どうか。

 動画が終わった。

 動画を見させる前に現在の日付と時刻は確認している。八月十日、日曜日、二十時三十二分。父と同じパターンなら死には数時間かかり、元上司のパターンなら即座に影響が出る。

 さあ、どうか……。

 焦れるような思いで甥の反応を待った。

 すると。

「なにこれぇ。変なの。つまんなーい」

 甥はやっと開放されたとでもいうように足を投げ出して、再び携帯ゲーム機の画面に向き直った。

 今までとは別の反応だ。父の時と同じようにタイムラグがあるのか、それとも、甥には呪いが影響しないのか。まだ二度しか呪いによる死を見たことがないから判別がつかない。

 正直、拍子抜けだった。

 気を取り直して押し入れにある土地の権利書を探すために立ち上がった。

「おじいちゃん?」

 出し抜けに甥が言った。

 え?

 私は甥の方を見た。

「おじいちゃんがどうかしたの?」

「だって、今そこに」

 そう言って甥は部屋の隅を指差して、私はそちらに顔を向けた。

 父がいた。

 部屋の暗がりに収まるように、父は膝を抱えて座っていた。

 父は笑っていた。

 莞爾として笑っていた。

 病によって表情を失う前の、在りし日の父そのものだった。

「おじいちゃん! 生きてたのっ?」

「タケ坊、よう来たねえ」

 父は甥の猛のことをタケ坊と呼んで、よくかわいがっていた。唖然とする私の前で、甥が父に抱きついていた。

 この父は……本物?

 父は間違いなく目の前で首を吊って死に、既に荼毘に付した筈だ。それなのに、どうして。

 立ち尽くして何も出来ない私に、父は甥の肩越しに微笑んだ。孫には優しかったが娘の私には厳しかった父が、初めて見せる優しい顔だった。

「みくぅ」

 父はゆっくりと口を開いた。

「よくやってくれてますねぇ、半田美久さぁん」

 微笑みがぐにゃりと歪んで、嘲りの滲む醜い笑みに変わった。

 全身が粟立ち、心臓が早鐘を打ち始める。

 違う。

 これは父ではない。

 気づけば部屋の中に、檸檬のような、金木犀のような、甘くて爽やかなあの匂いが満ちている。

 父は突然向き直り、甥の上顎と下顎を掴んだ

 甥が声を上げる前に、父は甥の口を強引に開けた。

「よくごらんくださいねぇ」

 父は嬉しそうに言い、そして。

 父は自分の頭を甥の口に押し込み始めた。

 甥が藻掻くのも構わずに、父はぐいぐいと頭を押し込んでいく。

 私は呆然として何も出来ないでいた。

 やがて、ごりっという音がして父の頭が完全に甥の口に入った。甥の口は許容範囲を遥かに超えるほどに開かれ、頬が裂けていた。

 父は更に手足をばたつかせながら、甥の中に入っていこうとする。病にあった父の出来る動きでは、いや、人間では不可能な動きだった。傷口から宿主の中に入り込もうとする寄生虫のような生理的嫌悪を齎す悶え様だった。

 甥の体は痙攣して、口の端から泡を吹き始めていた。だがそれでも、まだ生きているようだった。いや、生かされているのか?

 めきっ、めきゃっ、ごきっ、びきぃ

 関節が鳴り骨が折れる生々しい音を立てながら、父は肢体を折りたたみながら甥の口から体内に這入っていく。

 めきゃ、ばきっ、ばきぃっ、みしぃ

 人体において最大の太さを齎す肩が這入り、腕が這入り、腰が這入り、そして、足の先まで全てが甥の中に収まってしまった。

 元々、太り気味だった甥は内部の異物によって限界まで肉体が伸び切り、丸みを帯びた一つの巨大な肉塊のようになっていた。

 甥の目は毛細血管が切れてしまったのか、白目が真っ赤に染まっていた。

 死んだ……。

 そう思った矢先、膨れきった甥の腹が動いた。

 ぼこっ

 人間からは絶対に鳴らない音が鳴った。粘り気のある溶岩から泡が立つように、甥の腹が内側から盛り上がった。

 ぼこっ、ぼこぉっ、ぼこっ、ぼこんっ

 腹だけではない。腕も足も顔も首も、全てが内側から蠢くように盛り上がっていく。

 甥のいた部屋の隅から、天井までゆっくりと侵食するように甥だった筈の肉塊が広がっていく。

 肉塊というより肉柱となったそれは私の背すら越えて、天井に突き当たる。

 ひぃぃっ――

 私は情けない悲鳴を上げて、腰を抜かした。

 肉柱は天井を這って、私の頭上に迫ってくる。肉柱は子供の肌と老人の肌が斑に入り交じっており、それが何かの形を成そうとぐにゃりと蠢いては、また形を成さずに溶けていく。

 私は恐怖に震えながらも、その肉柱から目が離せなかった。歯の根が合わないほど、全身は恐怖で震えていたというのに、頭だけはいやに冴え渡ってその肉柱をずっと見ていた。

 いや、見惚れていた。

 遂に、肉柱はその面に形を現した。

 甥の顔だった。

 笑っていた。

 莞爾として笑っていた。

 だが、笑っていたのは口だけだった。目は笑っていなかった。

 目は死人のように虚ろであらぬ方を見つめていた。

 だからこれは甥の顔ではないのだと思う。

 甥の顔という体にしてあるだけのものだった。

 徐ろに甥の顔のようなものが口を開いて、言った。


 ころすなんていってすみませんでしたぁ


 甥のものでも、父のものでもない、地の底に響くような低い濁った声だった。

 とても、嬉しそうな声だった。

 違う。

 不意にそう思った。

 そうだ。違う。

 これは、許せないだとか、恨みを晴らしたいだとかじゃない。そういう有機的で、悲観的で、濁っていて、人間的な感情から生まれた呪いではない。

 もっと、無機質で、楽観的で、澄み切ったもので、非人間的なもの。

 純粋なまでの悪意。

 ただ、それだけの呪いだ。

 とんでもない化物に関わってしまった――。

 余りの恐怖に身震いがした。

 私は、この呪いに殺される。

 こんなとんでもない化物に出会えるなんて――。

 余りの歓喜に身震いがした。

 私は、この呪いに殺されてもいい。

 歯の根の鳴る私の口が、いつの間にか父と同じ歪んだ醜い笑みに変わっていた。

 すると、肉柱一面に甥の顔が一つではなく二つ。いや、三つ。更に無数に浮かび上がった。

 全ての甥の顔を体をしたものが口を開いた。


 ころすなんていってすみませんでしたぁぁぁぁぁああああああああああああ


 地に響くような低い声が、甥の断末魔の絶叫へと変わる。その顔達全てが放つ大音声が部屋の壁をびりびりと震わせる。

 悍ましい阿鼻叫喚の声が私の全身を叩いた。私の全身の細胞が死への恐れに泣き、私は感動に打ち震えていた。

 意識が遠のいていく。肉体が感情の許容を越えて、意識を手放そうとしている。景色が滲み、思考が遮られる。

 ダメだ。まだこの呪いが私を殺すまで、目を開けていたい。

 だが、願いは虚しく裏切られ、視界が暗くなっていき――。


 手のひらにチクチクとした感触があった。古びたい草の臭いがした。

 はっとして、目を開けると畳が大写しになっていた。

 これ、は……?

「顔を上げてください」

 兄の声だ。今まで聞いたことがないような優しい声音で兄はそう言った。

 起きたばかりの脳の中にある記憶を手繰り寄せて、これが兄と義姉に土下座をしていたその時だと気付いた。

「顔を上げてください」

 次は義姉の声だった。今まで聞いたことがないような優しい声音で義姉はそう言った。

 頭を上げようとしたその瞬間、違和感がぞっと背筋を舐める。

 この二人は、兄と義姉ではない。

 顔を上げてください

 顔を上げてください

 顔を上げてください

 顔を上げてください

 二人は、交互にそう言った。二人ではない。二人を真似た、何者かが言った。その声は優しい声音から嘲笑いを堪えるような声に変わっていった。

 続いている。あの恐怖が。

 何処までも私を逃がすまいとこの呪いは私を追い詰めてくる。

 間違いなく、顔を上げた瞬間が私の最期だ。

 顔を上げたい。今すぐ。

 そのタイミングを今か今かと迷う私の耳に声が聞こえてきた。二人の声ではなかった。


 顔をあげなさい


 鈴のように高く澄んだ、そして細い声だ。それは、裏地蔵の怪談を聞いた車の中で耳にした声に似ていた。

 弾かれるように、私は顔を上げた。

 兄と義姉がいた。

 でも、それは兄と義姉ではなかった。

 顔がなかった。顔である筈の部分に大きな、何処までも続く空洞が空いていて、そして。

 それが、私の顔を覗き込んでいた。


 ぁひぃ――

 奇声を上げ、私は起き上がった。

 薄暗い中で、見慣れた和風照明が見えた。

 ここは、自分の部屋……?

 畳敷きに襖と障子、布団が一式あり、本や服が片付かないまま雑然と置かれている。

 夢だったのか。

 未だにどくっ、どくっと早鐘を鳴らす心臓を落ち着かせるように私は胸に手を当てた。

 リアルな夢だった……はずがない。

 絶対にあれは現実のことだった。

 私は枕元に置いてあったスマホを取る。

 時間を見た。

 表示によると、八月十一日、月曜日、二十時三十二分。

 え?

 いつの間に翌日に?

 疑問符が頭に浮かんでは消えていく。

 スマホの日付表示を見間違っていたのだろうか。いや、そんなはずはない。私は確かに八月十日に……。

 突如、スマホが震え出す。

 知らない番号からの着信だった。僅かに戸惑った後、私は電話に出る。

「……もしもし」

「夜分失礼します。八舞警察署、刑事課の前川と申します」

 警察署……刑事課?

 職業柄なのか硬く低い声だった。警察署からと名乗る男は続けた。

「大変申し上げにくいことなのですが……」

「……え?」


 やはり、私が見たのは夢であり、夢でなかった。

 警察からの電話、その後の報道などでわかったのはこうだ。

 兄一家の隣人が土、日、月に渡って兄一家が外出していないのを不審に思い、通報したらしい。

 警察と救急が発見したのは居間で倒れていた兄、義姉、甥の遺体だった。

 三人は一箇所に集まり、中央の一点に対して土下座をするような形になっていた。三人とも死因は頭を床に何度も激しく打ち付けたことによる頭部外傷だった。

 私にとって更に驚くべきなのは死亡推定時刻が八月八日、金曜日の夜だという。

 兄一家が家に来たのは間違いなく十日、日曜日の夜だった。その時間には既に兄も義姉も甥も全員死んでいたことになる。

 警察の捜査の結果、三人以外が部屋にいた形跡がないこと、兄の机の上に消費者金融とヤミ金への借金があり横領が職場にバレて懲戒解雇を言い渡されたのが書かれた遺書が見つかったこと、そして、遺書の内容が正しいことがわかった。

 警察は結局、兄一家の死を心中と断定した、らしい。

 だが、余りにも不可解な死に様からこの事件は、ネットでは八舞一家心中事件として一部で話題になるのだった。


 弟が行方不明になり、父が死に、兄一家も死に、私は天涯孤独の身になった。多少は寂しさを感じるものかと思っていたが、ただ開放感だけがあった。私にはそんなにも情がないものかと我ながら呆れる。

 後は、呪いが持っていくのは私の生命だけだ。

 弟はともかく、父と元上司とただその場に居合わせた人々と兄一家が死んだことに私も加担している以上、自分が呪いによっていかなる最期を遂げたとしても文句は言えない。むしろ、呪いによる容赦のない悲惨な死の瞬間を想起するだけで、堪らない怖気と残忍な喜びが同時に湧き起こる。

 私は、呪いに関わってしまった以上、遅かれ早かれいつかは呪い殺されるだろう。

 だが、それまでにやっておきたい事があった。

 それは、私が出会ったホラーの正体を確かめることだった。


 私は図書館に来ていた。

 八舞市内の片田舎にある図書館は古臭くこじんまりとしており、降り頻る雨の中でよりいっそうその年季の入った風体を際立たせている。

 中に入ると意外と設備は真新しかったが、平日昼間の館内は人も疎らでなんとも侘しい。

 私が図書館に来たのはこの土地の歴史や風俗を知るためだ。

 郷土史のコーナーで本を探す。目当てにしている本はない。適当に目についたところから探してみる。

 これはどうだろう。

『ヒロイモン信仰の実相』

 私はテーブルに着いて本を読み始める。

 こういう本は読んだことがなく、色々なところに目移りしたり読みながら別のことを考えてしまう。

 私は回想する。

 何故、この本を選んだのかを。

 弟達が何に遭遇し、そして、何に由来する呪いであるかを知るに際して、まず唯一の手がかりは弟から送られた動画であった。

 何度動画を見返しても目印になるものはなかった。燈がなく鬱蒼とした木々のあるところということしかわからない。それに該当する場所は無数にある。

 次に確認したのは、弟の心霊動画チャンネルである。

 一つ残らず見てみた。冗長で退屈な動画だったが、共通項を発見出来た。

 弟たちが訪れている心霊スポットは八舞市近郊に限られているということだ。

 八舞市にある山で、尚且つ、弟たちがまだ訪れていない心霊スポットに類する場所は数えるほどしかない。

 該当する山は二つ。隣の市を合わせれば三つになる。

 まずは、一番近場にある明嗣山の明嗣公園近隣。

 三十年前、まだ公園もなく拓けていなかった明嗣山に入り山菜採りをしていた五十代女性が、クマと思われる動物に襲われて命を落とした事件があったという。クマと思われる動物というのも、女性はクマにしか成し得ないような深い傷を残して絶命したにも関わらず、明嗣山にクマは生息していないはずだからである。実際に山狩りが行われたがクマのいる痕跡すら見つからなかったという。

 誰かが飼っていたクマが逃げ出して、凶行に及んだと当時の行政は結論付けたが、本当は誰かがクマに見せかけて女性を惨殺したのではないかまことしやかに囁かれている。

 だからだろうか。

 遊歩道が開かれて公園が出来た今でも事件があった場所には血塗れの女性の霊が何かを訴えるように姿を現すという。

 二つ目に、私が今調べようとしている廟創山。

 廟創山は廟創というだけあり、廟があったという。廟とは祖先の霊を祀る建物のことである。今は管理する者がおらず廟も残っていないが、夕暮れの中で登山者が失われたはずの廟を見かけることがあるという。

 最後の三つ目は、隣の市になるが私にとって本命の摩琉山の摩琉トンネルである。

 摩琉山は、かつて修験道の行場として栄えていたが、現在は廃れてしまっている。その他にも平家の落人伝説があるなど、所謂曰く付きの場所なのだが、極めつけは十年前に起きた摩琉山保険金殺人事件である。

 夫と娘を持つあるホステスが愛人の男と共謀し、娘を保険金目的で殺害した事件である。

 当時高校生だった娘をピクニックに連れ出して、崖から突き落としたのだという。実行犯は実母だったとされている。

 約九千万円の保険金を騙し取ったホステスと愛人の男だったが、その半年後のホステスの夫の不審死に疑問を抱いた結果、娘の死にも二人が関わっていることが警察の捜査でわかった。刑事裁判の結果、二人には一審、二審共に死刑が宣告された。

 死刑が確定した二人は死刑囚として拘置所に収監されている、らしい。

 事件がある程度の解決を見た今でも事件現場の崖付近には怨嗟の念を抱いた娘の霊が彷徨っていると言われている。

 一つ目の候補である明嗣山は弟達の活動範囲から一番近いところにあるが、被害者の女性と怪異が現れる時に見せる姿との年齢が離れているのが難点だ。では、クマらしき生物はどうかというと、何となくイメージに合わない。

 二つ目の廟創山は二つに比べておどろおどろしい怪談自体がない。失われたはずの廟が見える話もどちらかというと怪談というより妖怪譚のような不思議な話というカテゴリーに収まっている。

 正直なところ、ここは一番可能性が薄いだろう。

 三つ目の摩琉山は、一番可能性が高いかもしれない。保険金殺人の被害者と年齢も齟齬がないように思う。何よりも摩琉山は信仰の山としても著名である。

 敢えて問題を言うなら、弟達が巡った心霊スポットからはやや距離が離れていることくらいか。

 とはいえ、廟創山についても調べておかないといけない。

 私は『ヒロイモン信仰の実相』に集中する。

 ヒロイモン信仰とは、廟創山、そして、廟創山から程近い凵部湾を中心とした地域のみに見られた信仰である。ヒロイモンとは八舞市の方言で拾い物を意味する。

 かつてこの地域の人は家族が亡くなった三日後に凵部湾を望む凵部海岸へと赴き、流木や珍しい石を拾うのだという。そして、家族が亡くなって三十日後に、拾ってきた流木や珍しい石を加工し像の形にしたもの――ヒロイモンを廟創山にある廟に収めてそれを祀った、らしい。

 これがヒロイモン信仰の概略である。

 現世から離れ彼岸に渡った死者の魂が三日後に流木や珍しい石の形で凵部海岸に一度帰ってくる為、先祖達と同じ場所に行けるようヒロイモンにして三十日後に廟創山の廟から送り出すという意味があるらしい。

 日程は家によってまちまちであり、海岸が亡くなった七日後に海岸で拾って四十九日でヒロイモンを廟に収めるパターンもあるらしい。

 祖霊信仰と寄り神信仰が合わさったようなものと言えばいいだろうか。概略を知っても、私にはヒロイモン信仰は素朴な人々の素朴な信仰心の現れとしか思えない。

 外はまだ雨が強く降っていた。雨が窓を打つ音が鼓膜を揺らしている。

 読むのをやめようかと思ったが、もう少しだけ読み進めてみよう。

 ヒロイモン信仰の現在という章を読む。

 ヒロイモン信仰は少なくとも江戸時代初期から始まったらしいということはわかっている。その後、昭和まで細々と続いていたが、戦後初頭のある時期を境に信者と廟もろともヒロイモン信仰は忽然と姿を消してしまったのだという。

 流し読みしていた私はふとその箇所で指が止まる。

 信者と廟もろとも?

 どう人が消えたのかは本には書かれていない。ただ、ヒロイモン信仰の末期はほんの数軒でしか行われていなかったので、家の断絶や離散が偶然にも重なってしまったのだろうと書かれてあった。

 それは……そうなんだろうな、と思う。一瞬呪いのせいではないかと疑ったが、それが一番自然であろう。

 私はページを更に捲る。

 ヒロイモン信仰を信じていた人々はそれだけでなく当時の多くの人々と同様に色々なものを信じていたらしい。

 ある時は寺に行き、ある時は神社に参り、ある時は道祖神に手を合わせていたという。またある時は迷信としか言いようがないものを。

 例えば、病に臥せった時や不吉なことが起きた時には、いつもとは反対のことをする風習があったらしい。

 子供が風邪に罹った時は服を裏返して子供に着させる。また、作物が黄変した時は案山子を上下逆さまにして畑に立たせるという具合である。

 これを、人々は裏羽織り、裏案山子と呼び……。

 裏……裏、地蔵?

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。

 裏地蔵の怪談の由来は廟創山とヒロイモン信仰に由来するのではないか――。

 そう考えた私は図書館の廟創山の歴史について掻き集めた。廟創山に関する本は二冊か三冊しか見つからなかったが、当時の写真や文献を探す。

 だが、裏地蔵については影も形もなかった。

 思い過ごしだったか。

 スマホに表示された時刻を見ると十六時四十五分、もうそろそろ閉館する頃だった。

 私は図書館を出る。冷房の効いた館内とは違って、湿気に淀んだ暑い大気が身を包んだ。外は、小雨になっていた。傘をさしてこじんまりとした駐車場へと向かう。

 駐車場へ向かいながら、廟創山のことを思った。

 調べた結果、最初よりもこの場所に対する疑念は深まったが決定打にはならなかった。無駄足ではなかったと思いたいが、やはり本命は摩琉山に変わりない。

 駐車場の端に私の車があった。私には不釣り合いな真赤な車体が、じっとりと雨露に濡れていた。

 私にはこの世で大切なものといえばもうこの車しか残されてないんだな。

 ふと自嘲めいた笑みが口の端に浮かぶが、それも悪くないと思い直す。

 車に乗り込んでエンジンをかけると同時にスマホの通知音が鳴った。

 なんだろうとスマホを取り、画面を見る。

 ドクン

 心臓が脈打った。

 通知先は弟からのものだった。

 慌てて通知を開くと、リンクが貼られていた。

 弟が生きていた? いや、生きていたとしても、このリンクを送ってきたのは弟とは別の何かだ。

 震える指でリンクにアクセスする。

 それは地図サービスのリンクであり、目的地を指し示すものだった。

 目的地が指すのは廟創山だった。

 何故、弟からのメッセージが廟創山への地図のリンクなのか。

 それは、とりもなおさず、弟たちが失踪した地。

 動画の舞台。

 呪いの根源。

 そして、私が終わる場所である。

 エンジンをかけたままの車内で私は震えていた。

 終わる。

 遂に終わる。

 今までは呪いの傍観者に過ぎなかったが、今度こそは私が呪われる番に違いない。

 ぜぇぜぇと荒い息が口から漏れる。頭の先から爪先までの全ての細胞が恐怖に縮こまり、廟創山に向かうのを拒否していた。

 突如、私は首を吊って死んだ母の亡骸を思った。見開かれたままの淀んだ瞳が私の目に焼き付いている。この世の全てを呪い尽くすという硬質な遺志が宿っていた。

 家族や葬式の参列者は皆滂沱の涙を流しながら口々に母は天国にいるなどと宣っていたが亡骸を見つけた私は知っている。母は間違いなく地獄に行ったのだと。

 お母さん――。

 私は胸の中で呼びかける。

 お母さん、私、殺される。

 殺されちゃうよ。

 母はきっと私を地獄の底で、哄笑しながら待ち望んでいるに違いない。

 恐怖が嫌悪にまで変わるなど、初めての……いや、母が死んだ時以来か。

 お母さん、私、殺されるんだよ。

 ホラーを見て、呼んで、聞いて、思ってきて、本物に出会って、沢山の人を巻き込んで死なせ、自分の死を前にして怯えて……。

 でも。

 それでも。

 私は、ホラーが好きで。

 ホラーが好きだから。

 ホラーが好きで、好きで、好きだから。

 お母さん。

 私は、本物のホラーの為ならば、喜んで地獄に落ちる――!

 目的地は廟創山。

 私はサイドブレーキを下ろし、アクセルを踏む。

 私は莞爾として笑っていた。

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