第2話 本物

「なんで父さんのことちゃんと見ておかなかったんだ! この出来損ない! 何でお前みたいなろくでなしが俺の妹なんだ! ええッ?」

 泣きながら私の兄、健一郎は私を詰った。

 父の通夜参列のことだ。晩年は認知症のせいで近所に迷惑をかけたり、死に方もあってかなんとも寂しい式だった。

 私はずっと前から葬式の類のイベントが嫌いだ。

 大切な筈の人や、私を大切にしてくれた人が死んだのに泣くことが出来ないのだ。

 悲しくないかというとそうでもないが、涙を流して故人を偲ぶ人を見ているとなぜか滑稽に見えてくる。普段は殊更に霊魂や神仏を信仰しているわけでもなさそうな人がこういう場になると急に信心深くなるのはなんなのだろう。天国なんて信じてなさそうな生活をしているのに、見送る人は天国に言ったなどと信じられるのは何故なのだろう。

 なんとなくそういう一貫性がないのが嫌というか、気持ち悪いのだ。

「何でお前が女に生まれたと思ってる! 家のことをちゃんとするためだろうが! それとも、わざとか? わざとなのかッ! わざと父さん死なせたのかよ! おいッ!」

 兄の怒号が激しくなっていく。

 通夜に来た人も、兄の妻も遠巻きに私達のことを見ているだけだった。兄の一人息子は親族の控え室でゲームをしているようだった。

 私は兄の言葉を俯いて聞いている振りをしながら、昨日の動画とメッセージで頭が一杯だった。

 整理しよう。

 動画を見たその日の夜に父は死んだ。偶然と片付けるにはあまりにも不可解な点が多い。

 まずは歩くのもままならない父がどうやって首を吊ったかだ。首吊りに使った縄は元々何のためにあったかは知らないが押し入れにあったもの、踏み台に使った小さな椅子は居間にあったものを使っている。父に用意することも物理的には可能だが、精神状態を考えると到底そんなことが出来るとは考えられない。

 裏拍手をしていたことについては保留にしておこう。認知症患者とは関節が不自然な形で曲がったままになってしまうことがよくあるし、首を吊った苦しさの中で悶えた結果硬直したという事もあり得る。

 後は、弟から送られてきたメッセージ。


 此れは呪

 軛から逃れる術は唯一つ


 弟からのメッセージだが、これは弟自身が送ったものではないだろう。幾ら連絡しても弟から返信は来ないし告別式にすら顔を出していない。

 メッセージの送られてくるタイミングが良すぎた。私が父の屍体を発見し、その死の状況の不可解さに気付いた瞬間を見計らっているような気がした。

 まるで、父が動画を見たことが死の原因であると判ってほしいという意図が感じられる。そう考えると、父の首の吊り方そのものが私に見せつけるための演出と思える。

 これらの状況や推察から導き出される答えは何か。

 どれだけ現実的な答えを考えても、私は一つの答えに行きついてしまう。

 あまりにも荒唐無稽で、非現実的で、悍ましくて、そして、ホラーをこよなく愛する私にとってあまりにも都合のいい答え。

 弟から送られてきた動画は見たら死ぬ呪いの動画であり、メッセージはその呪いを解くには何かをしなければいけないと伝えているということだ。

 ホラーでさんざん見たシチュエーションに自分が巻き込まれるなんて。

 沸き上がってくる怖気が、すぐさまサイダーのように甘い甘い興奮に変化して私の肌の下から溢れ出しそうになる。私は遠足が嫌いだったものの、所謂遠足に行く前の晩の子供の心境とはこういうものではないだろうか。

 落ち着け。焦るな。まだ、ホラーの世界の住人になったばかりじゃないか。本当の恐怖はこれからなのだ。

 それに疑問は残っている。

 父は動画を見てその晩に死んだ。それはいい。

 だが、それならなぜ私はまだ死んでいないのか。

 いくつか仮説は考えられる。

 まず、メッセージに死までの期限が書かれてない以上、ただ単にまだ死んでいないだけという説。それもいい。呪いの主体もこうやって呪われた人間達をぬか喜びさせて楽しんでいるのかもしれない。

 次に、死までの時間が残りの寿命から換算されているなど、何らかの基準によって決められているという説。これもまあ、ありえなくはない。

 三つめは、あまり考えたくないが、私にかかった呪いが既に解けてしまっているということだ。

 メッセージにある、軛から逃れる術。これは動画を見ると死ぬという呪いを解く術があるという意味だと解釈できないだろうか。

 単純に考えれば私が父にやったように、他人に動画を見せるという行為そのものが軛から逃れる術だろう。

 まるで、あの超名作ジャパニーズホラーのリングのようだ。原作版リングのように最後に中途半端なメッセージが出てくるところまでそっくりだ。もし仮にこの推測が当たっていたとしたら、私は呪いを解かれてしまったことになる。

 だが、リングの劇中では一度でも呪いのビデオに関わったものは呪いの輪廻から逃れられなかった。まだ私も無事とは言い難いのではないか?

 いずれにせよ、私は既に呪いに関わってしまっている。

 何も知らないまま死んだ父は苦しみや恐怖は一瞬に過ぎなかっただろうが私は違う。これから呪いによって殺される瞬間を今か今かと待ち受ける日々をその最後の瞬間まで怯えながら過ごさなくてはならない。わずかに呪いが解けたという希望があることがより苦しみを増すだろう。

 私はこの呪いに対して心の底から恐怖し、そして歓喜している。呪わしい不気味な調べが天上から降る福音のように私の五体に満ちている。今までの人生が嘘のように、目に映るもの全てが鮮やかに色付いている。

 私は神を信じないが、もし、敬虔な信仰者が本当に神に出会うことが出来たとするならきっとこんな気持ちだろう

 むしろ、神は本当にいるのではないか。本物のホラーと出会わせてくれるなんて。それはきっと、平等で、優しく、そして、残酷な神に違いない。

「聞いてんのか! オイ! いいか、お前には親父の遺産も土地もこの家も一切やらねえからな! 長男の俺が言うんだからぜってえだぞ! オラァッ!」

 兄が俯いたままの私に向かって口角泡を飛ばしながら叫んだ。

 可哀想な兄さん。

 本物のホラーが存在することを知らないから、遺産だとか土地だとかそういう相対的なものに捕らわれることになるのだ。

 早く私が呪いに出会わせてあげたい。

 義姉さんと甥の剛くんと一緒にお父さんのいる深い深い真っ暗な底の世界に送ってあげたい。

 私もすぐにそこに行くから。

 楽しみだな。

 だが、まずはこの呪いがどんなものか一つ実験をしようと思う。


「いやあ、美久ちゃんもやっと本当の良さってのがわかるようになったんだねぇ」

 父の葬式も終わり、私はかつての職場の上司とファミレスにいた。休日の真昼の店には家族連れでごった返していて騒がしい。会いたいと一言メールしただけで来てくれるのは有難いが、もう少し静かな店を選んで欲しかったところだ。

 喧騒の中で私の真向かいにいる中年太りの元上司が歳に不釣り合いな若々しい服を着て、店相応のお手頃なワインを傾けている。ご満悦でもう一杯注文していたからそれなりに美味しいのかもしれない。

 私が彼と出会ったのは、呪いの実験のためだ。

 結局、呪いは私を殺さなかった。それらしい怪奇現象も父が死んだ時以来起きていない。

 やはり、と思った。

 もし私を殺す気ならとっくの昔、父が死ぬ前後に殺している筈だからだ。

 なぜ、呪いは私を殺さないのか。殺さないのであればこの呪いはどういう条件で発動するのか。その他にも、もっと、もっとこの呪いのことを知りたい。自分以外の人間に呪いの動画を見せて、何が起きるのか検証したい。

 そこで呼んだのがかつての上司だ。かつて叱責しながら私を導いてくれたし、何よりある日私をホテルに誘ったこともあるからこちらから誘えば来てくれるかと思った。ホテルに誘うというのは一般的には誘った相手に対する性的な欲求を満たしたいという理由があるらしい。私には恋愛だとかそれに類する感情が一切ないため全く共感できないが、私のホラーに対する情熱と似たようなものかと解釈すれば誘われたことも多少は好ましくも思えるかもしれない。

 私は早速とばかりに切り出した。

「ちょっと思う所がありまして、お呼びしました。ご相談に乗っていただけますか?」

「いいよいいよ。女性陣や若いもんは君のことを地味だ根暗だと言っていたが、俺だけは君の良さをわかっていたからね。何でも相談に乗っちゃうよん」

「それが……」

 続けて言葉を紡ごうとした私の言葉に子供の金切り声が重なる。

「これやだああああ! まーちゃんこっちがいいのおおおお!」

 顔を上げるとレジの近くの席に座る家族連れだった。男の子はお子様ランチの景品のおもちゃがお気に召さなかったらしい。私がつい目を反らしていると元上司が言った。

「なんだ? 実は夜口さみしいと言う話なのかなぁ?」

 そう言って彼は笑った。粘着質な笑いだった。

 彼の毛深い太い腕に不釣り合いな小さい腕時計が、窓から差す強い光を受けてきらりと瞬いた。私は時計のブランドに疎いが、高価な腕時計に見える。元上司はどこか見せつけるように左手首のそれを私の前で掲げている。

 気を取り直して私はポーチから自分のスマホを取り出して操作する。勿論、元上司に見せるのは弟のアカウントから送られてきたあの動画だ。

「こちらをご覧いただいてもよろしいでしょうか」

「スマホをかい?」

「動画なのですが……」

「へぇ」

 元上司が興味深げに身を乗り出して、私のスマホを覗き見る。

 まず、元上司が警戒して呪いの動画を見ないかもしれないという懸念は払拭された。とにかく動画さえ見せてしまえば、ほとんどの目的は達成される。残る問題は動画を見せた後、どういう反応を見せるかだがとにかく試してみるしかない。

「もしかして美久ちゃんのハメ撮り動画かなぁ。なんちゃって」

 彼の荒い鼻息が私の手首にかかる。今の内だ。

 私の持つスマホを元上司が見ている内に、動画を再生した。

 ファミレスの喧騒に紛れて小さく弟たちの悲鳴が耳に届いた。食い入るように彼は画面を見る。動画を反射する血走った目がどこか異様に映り、思わず生唾を飲み込んだ。

 動画はすぐに終わった。

 問題は元上司にかかったはずの呪いの効果をどう確かめるかだ。父に動画を見せた時間が午後五時くらい。そして、父の屍体を発見したのが午前二時だから、呪いが父を殺すまでに約九時間のタイムラグが生じたことになる。今が午前十一時だから、午後八時までは元上司の様子を観察する必要がある。どう引き留めておくか。それ以前に動画を見せられた元上司が気分を害して去らないだろうか。

 どう転ぶかは最初の私の一言で決まる。

 俯いたままの彼に私は恐る恐る話しかけようとした。

「あの、実は今の動画は弟が……」

 話を切り出したばかりの私の目の前で元上司が顔を上げた。

 笑顔だった。

 先程までの粘着質な笑みとは違う、優しい微笑みだった。

 ぞおっ

 背筋に冷たいものが走る。不可解な動画を見せられた人間の表情でないのは明らかだった。

 ふと気付いた。

 レストラン特有のポテトの油、デミグラスソースの香り、目の前の男の汗の臭いに混じる異物。レモンのような、金木犀のような柑橘系の甘い匂いが鼻孔を擽る。あの時、父が死んだあの時に嗅いだのと同じ匂いだ。

 徐に元上司は口を開き、囁くように言った。

「もうすぐ、なれますよ」

 それは染みこむような優しい声で、元上司が発した数々の声音とは全く別の物だった。

 もうすぐ、なれる?

 なれるとは何だろう。

 慣れる、馴れる、成れる……?

 言葉の意味が分からず答えに窮している私を尻目に元上司は立ち上がり、スタスタとレジに向かっていく。

 混乱の最中で一瞬の呆けの後、会計に向かう彼を目で追った。いつの間にかレジの前で店員に何かを渡している。

 もう、呪いは始まっている?

 慌てて私は立ち上がろうとした。すると、腕が引っ張れられるのを感じた。ポーチがテーブルに引っかかったのかと思い、私は視線を下に向ける。

 ポーチではなかった。

 白い指が私の手首を掴んでいた。

 女の手だ。

 私を掴む手の先に細いばかりの腕が続いており、身体はテーブルの下に隠れて見えない。

 皺一つない大人の女の手だ。

 凍るような冷たい手だ。

 窓から差す強い光を受けて、月の表のような仄かな輝きを見せている。

 血の気が失せた蒼白の爪はマニキュアも塗られていないのに硝子のようにつやつやと滑らかで、汚らわしいのものとはとても思えなかった。

 私の胸に浮かんだのは恐怖ではなかった。

 驚きでも焦燥でもなかった。

 感動があった。

 本物だと思った。

 ようやく見つけたという想いだけが心を満たしていた。

 もし、天文学者が誰も知らない星を見つけた時、私と同じ気持ちを抱くだろう。

 もし、昆虫学者が誰も知らない虫を見つけた時、私と同じ気持ちを抱くだろう。

 もし、愛を求める人が愛されていると知った時、私と同じ気持ちを抱くだろう。

 私は遂に、ずっと心のどこかで探していたものを見つけたのだ。

 その時だった。

 けたたましいクラクションの音が鳴ったのは。

 私はずっと見ていたかった筈の本物から目を反らし顔を上げてしまう。

 大きな塊がレジの背後にある壁を突き破る。その塊がレジの店員とその目の前にいた元上司を飲み込む。そして、そのまま子供が騒いでいた家族連れまで食らい尽くして、そこで止まった。

 ほんの一瞬の出来事だった。当事者にはすべての光景がスローモーションに見えるらしい。ただの傍観者である私が気付いた時には、夥しい瓦礫の中に壁を突き破ったトラックが鎮座しているだけだった。

 潰れたトラックの運転席の前でファミレス客の女性が涙混じりの絶叫を上げる。

 私は地獄絵図の中で、空いた壁から入り込む真夏特有の熱狂のような外気を感じていた。

 私はうっとりと目を瞑る。

 夢見心地にあるように。

 鼻から大きく息を吸い込むと湿った空気に、むせるような埃の臭いと、夥しい血の臭いが溶けていた。

 いつの間にか腕に巻き付いていた存在が消え去っているのに気付いて目を開けると、テーブルの上にちぎれた腕が置いてあった。

 私を掴んでいた美しい細腕ではない。ぼろぼろで煤汚れていたが、太くて、毛深くて、そして、腕の太さに不釣り合いな小さな時計を巻いているのがわかった。

 窓から差す光がショーアップしたそれは、まるで美術館に飾られた作品のようだった。

 私の予想をはるかに超えた惨事に、実験をしていたことも忘れてしまった。

 目で、鼻で、耳で、口で、肌で、ずっとこの狂気の光景を感じていたかった。とても大事なことだから、本当のことだから、ずっと心の中に閉じ込めてしまいたかった。

 一つだけわかったことがある。

 この呪いは本物だ。

 本物の、化物だ。

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