喝采

ケロケロせがれ

第1話 歓喜

 逃げていた。

 夜の森を、逃げていた。

 誰かから、あるいは何かから。

 息が切れる。胸が苦しい。足がもつれる。

 それでも走る。

 走らなければ追いつかれる。

 追いつかれれば、終わってしまう。

 だから走る。

 走り続ける。

 木々を掻き分けながら進むと、廃屋があった。

 あそこだ――。

 廃屋に踏み込んだ。ここなら安心だ。

 ドアを閉じ、廊下を駆けて、奥の部屋の腐った床の上にへたり込んだ。

 耳を澄ます。

 ざあ――

 ざあ――

 くぐもった葉音が聞こえた。虫の音も、鳥の鳴き声も聞こえなかった。

 だが、それはいる。

 もう、すぐそこまで来ていた。

 夏のはずなのに、吐く息が白かった。

 ざああああああっ

 ざああああああっ

 ざああああああっ

 にわかに葉音が大きくなった。

 その意味に気づいたとき、全身が総毛立った。

 ドアを開けたのだ。

 誰かが、あるいは何かが。

 部屋の中に入ってくる。

 逃げなきゃ。

 だが、逃げ場はもう、ない。

 なすすべなく部屋に入ってくるであろうそれを待ち構えた。

 すると。

 肩を掴まれた。

 ひぃっ――

 喉奥から絞り出された空気が悲鳴になる。

 振り向いたら、それがいる。

 振り向かなければ。

 なぜならば、自分はそれに逢うのを望んでいる――。

 肩を摑む手に力が込められた。恐れと期待が臨界点に達し、遂に振り返る。


 目が覚めた。

 まだ夜だった。

 暗闇の中で、薄っすらと見慣れた和風照明が見えた。

 ここは自分の部屋だ。

 畳敷きに襖と障子、布団が一式あり、本や服が片付かないまま雑然と置かれている。

 夢だったのか。

 リアルな夢だった。

 誰か、あるいは何か……おそらくは悍ましい存在に追われて遂に捕まってしまう夢。

 ほんの少し。あとほんの少しだけ目が覚めるのが遅ければ、その存在を見ることが出来ただろう。

 布団の中でぼんやりと夢の余韻に浸っていると

 みく〜

 みく〜

 という呻き声が聞こえた。

 起き上がり、声の主の方に向かった。

 廊下に出ると真夏の夜特有の温い空気が肌に纏わりつく。真っ暗だった。小さな家屋の廊下でも先が見えない。廊下に雑然と置かれた細々としたものを踏まないように床を恐る恐る歩く。ぎしぎしと古い家特有の軋みが静かな廊下に響き渡る。

 子供の頃は夜の廊下が恐ろしくてたまらなかった。母についてきてもらわねば、トイレに行くことができなかった。

 いつからだろうか。暗闇が怖くなくなったのは。それは母が仏間で首を吊ってからではないだろうか。

 ぎしぎしと廊下を歩いて部屋の前に行き着く。

 襖を開けると糞尿の臭いがした。この家で父と一緒に暮らしてから、ずっと嗅ぐことになった臭いだ。

 部屋の電灯をつけると介護用ベッドから落ちた父が畳の上で蹲っていた。服が上下とも尿で濡れている。介護を始めた最初の頃はこういう光景に面食らったものだが、今では慣れたものでどう処理するかという所に即座に気が回る。

「お父さん」

 父の肩を軽く叩く。父はびくりとして顔を上げた。目は虚ろで焦点があっておらず、口の端からはよだれが垂れている。ぱくぱくと何か言いたげな様子だったが言葉にならないようだった。

「服着替えさせるからね」

 私は父の返事を待つことなく、上着を脱がせようとする。

「なんでやぁ」

 父はそう言って私の手を振り払った。

「なんで! お前はこんなに何の役にも立たんとか!」

「お父さん、ちょっ……」

 突然大声を上げた父は私から逃げるように、汚物で汚れた畳を這う。食事の為に居間に連れて行こうとしても立ち上がろうとしないのに、私の意志に反する時だけはこうして動くことが出来るのはどういうことなのか。認知症とは難儀なものだ。

 父は寝室の隅まで行くと、丁寧に正座をして手を合わせる。父にとってはそこに仏壇があるらしい。

 そうして、ぶつぶつと念仏のようなものを唱え始めた。

 これはいつものことだった。私が話しかけても答えないのに、仏壇に向かっている時は整然とした祈りを訴えるのである。

 父の祈りの内容を聞いてみた。

 すると。

「母ちゃん、なして美久のごたる出来損ないば産んだとか。神様、仏様、美久ば、はよう殺してくれ、地獄に送ってくれ、はよう、はよう……」

 なんまんだぶ、なんまんだぶと唱えながら、父はさめざめと泣いていた。本気で私の死を祈っているようだった。

 父の今の行いも、結局は認知症の症状の一つだから仕方ない。昨日も、一昨日も見た光景だったので、もう珍しくもない。こんなに必死になって祈っても、私の母も、神様も、仏様も、父の真摯な祈りを聞き届けてはくれないらしい。霊魂や神仏もありはしないのだから仕方ないか。

 父を着替えさせるために宥めながら、それししてもと私は思い出す。

 さっきまで見ていた悪夢を。

 あれは――最高の夢だった。


『……それがね、実はその日が命日だって言うんですよ……』

『うわぁ……』

 私――半田美久は車を運転している。

 父の介護で一日が潰れてしまう私にとってこの中古で買った赤いデミオの中で聞く怪談だけが唯一の娯楽と言えるだろう。

 私はホラーが好きだ。

 独身だ。子供もいない。恋人も、友人もいない。才能も、人望もない。夢も、目標もない。

 ただ、ホラー映画が好きだ。怪談が好きだ。ホラー小説が好きだ。ホラー漫画が好きだ。心霊番組が好きだ。都市伝説が好きだ。ネットロアが好きだ。心霊スポットが好きだ。廃墟が好きだ。寂しい夏の夜が好きだ。逢魔が時が好きだ。悪夢が好きだ。すぐそこの暗闇に何かがいると想像するのが好きだ。

 私を私として構成しているのは、ホラーが好きという一点だけだと思う。

 私にとってホラーとは私の裡で灯る光だった。

 小学生の時、転んだ時も。中学生の時、いじめられた時も。高校生の時、母が自殺した時も。銀行で働いていた時に、上司に怒鳴られた時も。兄弟たちに女だからと父の介護を押し付けられた時も。それで仕事を辞めざるを得なかった時も。昨夜、父に詰られた時も。

 私の頭の中にはホラーが浮かんでいる。

 そんな、お守りのような、宝物のような、一つだけの願いのような。

 それが全て、ホラーだった。

『そんなわけで、次の話ですが……』

 見も知らぬはずの怪談の話者に、家族やかつての知り合いなどよりもある種の慕わしさを感じるのは何故だろう。或いは、面白い話を聞けば誰しも相手にそんな慕わしさを感じるものなのだろうか。

 他人はどうかわからないが、少なくとも私の人生にはその程度の慕わしさで十分だった。

 愛車のハンドルを切りながら、ふふ、と口が綻んでしまう。

 中古で買ったマツダのデミオは鮮やかな深い赤い色で、特に人気のあるカラーリングらしい。子供の頃から自他ともに認める地味な私には到底不釣り合いな色の車を、私は何故か気に入っている。

 働いていた頃の給料と退職金を切り崩しながらの介護生活は来年か再来年には破綻を迎えてしまうのが悩みの種だが、そこまで絶望はしていない。

 世界を勝者と敗者で線引きするとしたら、私は敗者の側に立っている。

 だが、それでもいい。私は自分で選んで敗者の側にいる、ということにしている。

 私はこれからも敗者なりのちっぽけでささやかな幸せを享受していくだろう。

『あの、皆さんは裏地蔵ってご存知ですか?』

 見慣れた古ぼけたアパートの側を通り過ぎていた時だ。

 ラジオから聞き慣れない言葉が流れ、私は音量を大きくした。

『佐藤っていわくつきの場所を巡るのが趣味の奴の話なんですけど、ある時裏地蔵と呼ばれている地蔵があるって聞きつけたらしくって』

 パーソナリティの一人が語る。

『地元の人に裏地蔵ってなんなんだって聞いて回ったらしいんですよ。でも、あそこにはいっちゃなんねえの一点張りで実際にどんな地蔵なのか誰も教えてくれなかったそうでしてね。でも、いわくつきの場所を巡るのが趣味の奴にそんな話したら俄然行きたくなっちゃうのは予想ついちゃうでしょ? それで、その佐藤は直接、その裏地蔵がある山に行っちゃったそうなんですよ』

 家に父を待たせているものの、話が妙に気になり私は公園の近くに車を止めた。

 裏地蔵というワードが私の琴線に触れたのだろうか。何が裏返っているのだろうか。後ろを向いた状態なのか。それとも上下逆さまになった地蔵なのか。

 パーソナリティは続けた。

『その山は地元では昔から信仰の山になっているんですが、何も特別におどろおどろしい山ってわけでもなくて。大人の脚で二時間か三時間、近くの小学校の遠足コースにもなっているような山なんですよ。で、その裏地蔵っていうのはその山の中腹にある小さな祠みたいなものに奉られているらしくって。それも多くの人が使うハイキングコースから十分から二十分外れて歩いただけの場所にあったそうなんです。佐藤がその祠を見つけた時はあまりにあっけなく見つかって、しかも本当に何の変哲もない祠で面食らったそうなんです。で、実際に肝心の裏地蔵を見たら、パッと見、普通のお地蔵様なんです。ですが、よく見るとそのお地蔵様の手が掌を合わせてるんじゃなくて、手の甲同士を合わせている。所謂、裏拍手』

 裏拍手とは、普通の拍手が掌を合わせるのに対して、逆に手の甲同士を合わせる仕草である。祈りが掌を合わせるのだから、手の甲を合わせるのはなんとなく呪いになるものだと想像しやすい。人体の構造上、手の甲を合わせるというのは意図しないと仕草であり、異質に感じやすい。

 そういった理由から、裏拍手はネットロアとして有名だし、確かホラー小説に出てきたこともある。

 何となく私も止まった車の中で裏拍手をやってみる。

 ぺち、ぺち、ぺち

 普通の拍手とは違うなんとも迫力のない音がする。

 それだけだ。

 裏拍手をする信仰は確か存在しない筈だ。むろん、私が知る限りではの話だが。

 自然、裏拍手とは創作のものでしかない。

 私は裏地蔵の裏地蔵たる所以がわかったので、ギアをドライブに変えて車を動かす。早く戻らないと、一応鍵はかけておいたが父が徘徊してどこかにいなくなっているかもしれない。

『裏拍手してる地蔵なんて初めて見たものだから、まあ、私も見たことはないのですが、佐藤は色々と観察してみたらしいんですね。ところが、裏拍手をしていること以外は特徴らしい特徴がなくて、佐藤は飽きちゃったらしいんです。もう帰ろうと思って、ただ、そのまま帰るのも癪だからなのかお地蔵様に手を合わせたくなったのか、佐藤は裏拍手を裏地蔵に向けてしたらしいんですね。山の中って意外と鳥の鳴き声や虫の音で騒がしいのですが、手を合わせた瞬間スッ……と無くなったそうなんです。本当に手を合わせた瞬間だったから、佐藤も流石に血の気が引いたみたいでその場に立ち尽くしてしまったらしくて。そうしていると、フッと首筋を生温かい風が当たったんだそうです。これは人間の吐息だと佐藤が感じた瞬間、その息がした方から声が聞こえてきたんだって。それが』

「ようやくはじまりますよ」

『……って』

 私は急ブレーキをかけた。

 車内ががくんと揺れて、助手席に置いた買い物袋から玉ねぎが車の床に落ちる。悲鳴のようなブレーキ音が住宅街に響き渡った。

 閑散とした街中ではなく後続車が来ていれば間違いなく追突されていただろう。

 今、確かに自分の耳元で聞こえた。

 ようやくはじまりますよ、という言葉が。

 ラジオのスピーカーからではなく。

 怪談の話者は男性の筈なのに、聞こえたのは細い女の声だった。

 心臓がバクバクと音を立てる。ハンドルを握る手が震えている。

 後続車が来ていない事を確認しながら、私は車を再び発進させる。床に落ちた野菜は後で拾えばいい。

『……それで、佐藤と一年以上連絡なっていまして』

『えー! 呼ばれちゃったんですかね。裏地蔵に』

 裏地蔵の話はいつの間にか終わってしまったようだ。

 突然のことで動揺していた頭が、ゆっくりと冷静を取り戻していく。

 聞き間違いか。勘違いか。

 ラジオの怪談は別の話者に変わり、先程の裏地蔵の話とは切り替わっている。こういう場で話の真偽とか、その事象に対する背景について深く掘り下げることは少ない。作り話の体験談でもいいし、架空の友人を登場させても構わない。怪談とはそういうものである。

 ようやくはじまりますよ、か――。

 フッ、と口元だけで笑みを作った。

 何も始まる事のない敗者の私にとって、どこか皮肉な響きだと思った。


 デミオから降りると真夏特有の強い熱気と草の臭いに晒されて、肌に汗が浮かぶ。

 家について錆びついた赤いポストを見てみると、手紙が一枚入っていた。

 玄関を開けると嗅ぎ慣れた糞尿の臭いがした。父がまた失禁したのだろう。

 そこで手紙を開くと私が卒業した中学校の同窓会の案内だった。友達も一人もいない中学時代だったがこうして同窓会の案内は来るものなのかと意外だった。現状行く予定はないが、殊更に捨てるのももったいない気がして玄関の下駄箱の上に放り投げる。

 糞尿塗れの父に対面する前にと思い、スマホをチェックする。もしかしたら、さっきのラジオの怪談が話題になっているかもしれない。

 そうしてみると、滅多に使わないSNSの通知が来ていた。

 なんだろう。

 通知の主は弟の康雄からだ。現在、心霊動画配信で生計を立てようと頑張っているらしい。

 ホラー好きとして弟の夢は応援したいと思って父の介護を引き受けた部分もあったが、未だに芽は出ていないそうだ。金の無心も何度かあった。

 今回もそうだろうかと思ってSNSのアプリを開いてみる。

 投稿されていたのはコメントではなかった。

 動画ファイル……?

 サムネイル画像には夜の森と思しき風景が写っている。弟らしき人物と、もう一人男の姿があり、二人の姿は激しく動いているのかブレて見える。

 送られてきたのは車から降りる、数分前だった。

 なんだか不気味で再生して良い物か迷ったが、好奇心の方が勝ってしまった。

 恐る恐るなのか、それとも、ワクワクなのか、私は再生のマークをタップした。


『おいっ、何だよアレ! アレなんだよ!』

『知るかよ! 俺が!』

 ザッザッザッ

 ガサッ

『ねえ! 私達今どこにいるの!』

『わかんねえよ!』


 やはり、弟達は森の中をさまよっているようだ。女性の声が聞こえたが恐らくカメラを持っている人物なのだろう。三人の怒りと混乱に満ちた声。草木を掻き分ける音。頼りないカメラの光。カメラの手振れ。

 これを見ながら、私はなかなかよく出来たファウンドフッテージホラーだとのんびりと思っていた。

 ファウンドフッテージホラーとは、モキュメンタリ―の一種である。撮影者たちが残したフッテージ……つまり映像を第三者が発見して公開したという体のホラーだ。

 ブレアウィッチプロジェクトという作品が爆発的大ヒットを飛ばしたことで有名になり、その後もRECやパラノーマルアクティビティ、クローバーフィールドなどの作品が出て一大ジャンルを築き上げている。

 ファウンドフッテージホラーが一大ジャンルを築き上げたのは、その特徴として低予算で作ることが出来ることにある。無名の俳優や荒い画像、何の変哲もない場所で撮る事がかえってリアリティや没入感を喚起し視聴者の恐怖を煽る事になるのだ。

 実際に今私が見ている映像のように、夜の中を登場人物が焦りながら走っているだけでかなりそれっぽくなってしまう。

 以前弟の配信動画を見たことがあるが、正直言って粗末な出来と言わざるを得なかった。冗長とした動画にわざとらしいテロップ、つまらないトークの三重苦に、視聴数もほぼゼロに等しかった。

 この路線は悪くないかもしれない。

 何の疑いもなくこの動画がホラーとして撮られたものだと私が思うのは、画像の送られてきた今が正に日中だからである。だからこれは昨日以降の夜に撮られたものに相違ない。

 真夜中に送られてきたなら、多少は本物だと思うかもしれない。

 それぐらいこの映像は良く撮れている。

 動画の中で三人が立てる音の中に別の音が混じる。

 人の声だ。

 話し声じゃない。

 歌……?


 あ…………

 …ぎ…

 あ……

『何? 何ッ?』

『念仏?』

 とみ…

 …んた………

 …れ…

『お前ら誰なんだよ! 出てこいッ!』

『そんな事言うな! もし出てきたら……』

 がさっ

『何? 何?』

『あの白いの何?』

『え、あ』


 一瞬、三人の目の前に白い影が見えたと思ったら、映像が暗転する。画像を撮っていた機器……恐らくスマホを落としたらしい。


 ごとっ、がたっ


 地面に固いものがくぐもった落ちる音。

 遠ざかる三人の声。

 暗転が続き、そして。


 ふふっ


 微かな吐息が聞こえて、動画は終わった。

 今のは女の声だ。

 もしかして、あれは、笑っていた?

 真夏の冷房も入っていない廊下で立ち尽くしていた私の肌には汗が浮かんでいた。しかし、全身が粟立ち、背筋には凍るような悪寒が走っていた。

 心臓がけたたましく鳴っている。

 弟たちは本当に何か恐ろしいものに追われていたのではないか。そう思わせるような動画だった。

 こんなの最初に本当に怖いホラーを見て震えあがった子供の頃以来じゃないか――。

 じわじわと黒く塗りつぶすような恐怖が胸から身体中へと広がっていき、満たして、侵食していく。

 そうして。

 全身が歓喜に包まれる。

 思わず叫び出しそうだった。

 弟もやるじゃないか。迫真の演技だった。今までの心霊スポット巡りとは比べ物にならないくらい良く出来ている。弟の自分は表現者になりたいという夢もあながち嘘ではなかったらしい。

 動画に出てくる白い影と笑い声に聞こえる吐息をリピートする。

 鈴のような高くか細い含み笑い声はなんとなく細身の女性を想像させる。声で人間の美醜などわかる筈もないが、整った顔つきの様な気がする。

 白い影の存在が発したものだとするなら、これは間違いなく私の大好きなタイプの霊だ。白いワンピースを着た黒髪の女。ジャパニーズホラーにおける最もオーソドックスで、最も恐ろしいタイプの霊だ。

 私はこの霊と対面する時を想像する。

 飾り気のない白いワンピースから、生気を欠いた蒼白の手足が覗いている。ずるずるとするようにして歩く姿は幽鬼そのものだ。

 長い黒髪が全身の白と対照的だ。洗いざらしの、排水溝に溜まったような光沢のない黒髪が揺れる。簾のように顔に掛かった髪は振り乱しているようにも、貴人が顔を隠す御簾のようも見える。

 私はホラーが好きだからこそ、そうした存在に耐性があるような気がしているが、間違いに違いない。いざそんな幽霊に出くわした私は恐怖にかられ取り乱し涙を流し悲鳴を上げるのだ。

 人生で成し遂げたこともない、守るものもない安い命を必死に守ろうとし、そして、私は藁にも縋る思いで許しを乞う。

 たすけて。

 ゆるして。

 ころさないで――。

 そんな私の命乞いを一顧だにせず、それは私を無惨に殺してくれるだろう。

 私はあまりにも甘美な妄想に打ちのめされて、少しの間スマホを持ったまま廊下に立ち尽くしてしまった。

 気を取り直して私は小走りで父のもとに向かった。

「お父さん、ほら、康雄が凄いのを撮って来たんだよ」

 自室で糞尿に塗れている父に話しかける。本来ならば父の衣服を取り換えて、部屋を綺麗にしなければらならなかったが私はそれどころではなかった。早く、この動画を誰かと共有しなければいけない気がした。

 虚ろな目であらぬ方を見つめる父に動画を見せた。

 動画は一瞬で済んだ。

 父は無反応だった。呆然とした様子で、畳の上で何かを探しているようだった。

 こんなに怖くていいものを見ても何も感じられないなんて。

 認知機能が失われ糞便を垂れ流す父を見ても病だから仕方ないと何も感じなかったが、初めて哀れに思ってしまった。


 気がかりな夢を見た。

 目を覚ましてみると、まだ午前二時だった。

 どんな夢か覚えていない。悪夢だったら忘れてしまうのはもったいなかったのだが。

 ん?

 私はエアコンで乾燥した空気に、嗅ぎ慣れない匂いだ。父と暮らし始めてアロマディフューザーの類は一度も使っていない。香りを楽しめる環境がないから。

 しかし、この甘い匂いはなんだろう。甘いだけではなく、どこか爽やかな匂いは、柑橘系だろうか。一番近いのは金木犀か。だが、金木犀の匂いがするにはまだ早すぎる。

 枕元に置いたスマホを取ってから、部屋を出てみる。廊下に出ると嗅ぎ慣れない匂いが一層強く匂った。

 昼に立て続けにホラーに繋がるようなことがあったものだから、期待してしまう。

 期待? 何に?

 霊魂や神仏の類を私は信じていなかったんじゃないのか?

 そう理性は告げているのに、抑えられない。こんなにも夜の廊下が怖いと思ったことがない。勿論、母が死ぬ以前よりも。

 ぎしり、ぎしり

 自分の足音がいつもと別物に感じられる。私の心臓はこれ以上ないというほど脈打っている。どくんどくんと血管が血を送る音が大きくなっている。

 ぎしり、ぎしり

 いや、待て。

 この木が軋むような音は自分の足音だけじゃない。では、父が歩いているのか。すぐさま、私はそうではないと思い当たる。淀みない一定のリズムは父の覚束ない足音では有り得ない。あえて表現するなら、ブランコか。

 一体この家で何が起きている?

 すぐそこの仏間から聞こえる。私は廊下の電気を点けた。単純に考えたら、霊魂や神仏よりも泥棒の確率が高いからだ。仮にそうした超自然的な存在ならば、私が電気を点けたところで尻尾を巻いて逃げることはないだろう。

 仏間と廊下を隔たる障子の前に立つ。変わらず、ぎしり、ぎしりという音が向こう側から聞こえる。一枚の障子を隔てて此岸と彼岸に分かれている。この隔たりを越えたら、もう戻れない。

 私はついに障子を開けた。

「あぁ」

 私の喉から響きが溢れる。

「そういうことか」

 合点がいった。私はようやく理解した。音の正体が何か。

 父が首を吊っていた。

 みしり、みしり

 父のやせこけた身体が振り子のように揺れる度に、伸び切った首にかかる古めかしい縄と梁が不気味な音を立てる。

 小さな椅子が床に転がっていた。どうやらこれを踏み台にして首を吊ったらしい。

 落ち窪んだ目は虚ろで無表情が顔にこびりついていた。上半身は黄ばんだ白いタンクトップを着て、下半身はズボンを脱いだのか尿を吸って膨らんだ紙おむつのみだった。

 そして、手は両手の甲を合わせた人体の構造から考えると異質な――。

「あ」

 裏拍手。

 私は思わず、声を上げた。

 父の手はあの裏拍手の状態のままで固まっていたのだ。私は息をするのも忘れて、その異様な光景に見入ってしまう。

 そうしていると、持っていたスマホに通知が送られてきた。

 見てみると弟からのメッセージだった。


 此れは呪

 軛から逃れる術は唯一つ


 ひぃっ――。

 私は醜い悲鳴を上げてその場に座り込んでしまう。

 本物だ。

 これは、間違いなく、本物の――。

 全身を冷たい汗が流れ、震えが止まらない。背筋が痺れ、狂おしいほどに心臓が高鳴った。

 私の中で世界の線引きが揺らいでいる。

 勝者だとか敗者だとかを分かつ線は、いや、そんなものじゃない。世界を形作る輪郭そのものだ。

 それは、もっと曖昧で、名状しがたいもので、わけがわからなくって、もっと悍ましくって、そして、優しいものではないだろうか。

 仄暗く灯る光。

 悲しい時も、辛い時も、苦しい時も、ずっと一緒にいたもの。

 お守りのような、宝物のような、一つだけの願いのような。

 それが今、全て、目の前にある。

 だから、私は。

 大切で哀れな父の、凄惨な屍体を見上げながら、私の唇は歓喜に弧を描いていた。

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