海に溶けていく恋心

よし ひろし

海に溶けていく恋心

 ざぶ~ん――


 海に落ちた。いや、落とされた。

 沈んでいく、に、あたしの体が――


(どうして……)


 水面の向こうに見える彼に問いかける。

 揺らぐ水に歪む彼の顔。


 微笑んでいる?


(あたしを助けて――)


 左手を彼へと伸ばす。薬指の銀のが、キラリと輝く。


(愛してるって、ずうっと一緒だって、言ったのに――)


 沈んでいく、海の中に。

 ぼやけていく、彼の姿。


(ああ…、死ぬのね、あたし……)


 周囲を見渡す。

 この海で溺れて死を迎えるなんて、なんて皮肉。

 彼と出会って地上に上がるまでは、自在に泳ぎ回っていたのに……


(地上人の体って、不便ね……)


 水中で自由に呼吸もできない。訓練しないと泳ぐこともできない。

 いえ、どのみちあたしは泳げないわ。

 だって、泳ぐことと引き換えに、両の足を手に入れたんですもの。


(苦しい……。もう、終わりね。あたしも泡になって消えてしまうのかしら、伝説の姫のように――)


 目を閉じた。

 このまま海の底に落ちていこう。

 そして、この胸の恋心と共に泡となって海に溶けてしまおう……


「――しっかりしなさい。ほら、これをのよ」


 突然声をかけられた。と同時に、口に管の様なものを差し込まれる。


(えっ――?)


 目を開ける。


(姉さん!?)


「さあ、飲んで」


 口に差し込まれたもの――ドリンクボトルのストローから、液体が流れ出し、喉の奥へと注がれる。


 ゴクリ――


 反射的にそれを飲み込む。


(何これ?)


 少ししょっぱい、海の味に似た液体――


「あっ! ああっ、何、体が――」


 突然全身に痺れと痛みが走る。思わず叫び、口内に大量の海水が入ってきた。


 溺れる――!


 そう思ったが……、大丈夫だった。


 息が、出来る――!?


 体の痛みは続いている。

 この痛み――前にも味わったことがある。


「そうだ、地上人の肉体を手に入れた時と同じ――」


 そう感じ、あたしは自分の下半身へと目を向けた。


 両足が一つにくっつき、そして変化していく。鱗とヒレある、魚のそれに――


「ああ、戻るのね、あたし、人魚に――」


「そうだよ。ちゃんと効いたようなだね、よかった」


「姉さん…。どういうことなの?」


 もう海中でも自在に話せる。


「伝説の姫の時と同じだよ。ただし、緊急事態だったので、直接飲ませたのさ」


「伝説の――あっ、恋する人の血……」


「そうさ、伝説の姫も王子の血を浴びれば、海の泡になずに済んだのにね」


「彼の血……。それじゃあ、彼は――?」


「はぁ~、あんなクズのこと、まだ未練があるのかい? 地上に出る前に言っただろう。あの男はどうしようもないクズだと。あの船で、女たちをとっかえひっかえして遊んでいるのを見たって。そのうちの何人かは、今のあんたと同じように、海に捨てていったのを見たことあるからと」


「えっ、そうだったかしら……?」


「はぁ~、恋は盲目というが、耳も聞こえなくなるのかねぇ…。とにかく、そんなクズ男だから、どうせあんたもロクな目に合わないだろうと、海の仲間たちの協力も得て見張っていたのさ」


「そう、なんだ……」


「それで今日――あのクズ男、海に沈むあんたを船べりから見てにやにやしてやがった。だから、水面から跳ね上がって、こう――ザクッとね、首筋を。そして、用意しておいたボトルに血を溜めて、あんたに飲ませたのさ」


「……それじゃあ、あの人は」


「――ほら、自分の目で確かめな。ちょうど落ちてくる」


 姉さんが指さす方を見ると、水中を落ちてくる人影が見えた。


「あっ……」


 力なく、頭を下に垂直に沈んでくる。

 顔がはっきりと見えてきた。痛みと恐怖に歪んだ醜い顔……


「……」


 彼との思い出が蘇る――かと思ったが、思い出すのは海に落ちたあたしを見つめるにやけた顔だけ。


「どうした、まだ未練があるのかい?」


「いえ、もういいの、あたしの恋心は、海に落とされたときに溶けて消えてしまったみたい、泡のようにね」


「そうかい。じゃあ、家に戻ろうか。皆も待っているよ」


「そうね。久しぶりの里帰りだわ」


 あたしは姉さんと共にその場を離れた。海の底に沈んでいく彼には目もくれずに……



fin

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海に溶けていく恋心 よし ひろし @dai_dai_kichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ