禍姫(まがつひめ)の初恋 唐陀国後宮異聞

宮野美嘉/角川文庫 キャラクター文芸

第1話

 えいこくの第八王女しゆんりんの結婚が決まったのは、十八歳の春のことである。

「お前はとうこくの王に嫁ぐことに決まった」

 春燐の部屋に入ってくるなり、父である栄国王が言ったのだ。

 忍び込んできた薫風に髪を揺らされ、春燐はゆっくり顔を上げると精巧な人形めいた無感情さで首を傾げた。

「こんな醜い女を妻にしようなどという殿方が、この世に存在するのですか?」

 まゆをひそめる父を見上げ、春燐は更に言う。

「この私を妻にするだなんて……相手があまりにも気の毒だと思うのですが」

 椅子に座ったまま自分の鼻先を指す。その手には使い込まれて色を吸い込んだ絵筆が握られている。父王は娘に向けるには厳しすぎる目で春燐を見据え、再び口を開いた。

「同盟のために必要な婚姻なのだ」

「私にそんな大役が務まるはずありません。何故私なのですか?」

「お前が私の娘たちの中で最も美しい姫だからだ!」

 とうとう父王は怒鳴った。げんなりしたように頭を押さえている。それを受け止め、春燐は数回目をしばたたいた。

「父上様の目に、私はどう映っているのですか?」

「そういうお前の目に、自分はどう映っておるのだ!」

 父王はかんしゃくを起こしたように声を荒らげて春燐をにらんだ。

「分からぬなら教えてやろう。黒曜石に似た大きなひとみに、輝く長い黒髪。透き通る白い肌。流れるように通ったりようつややかな紅梅色の唇……それらが絶妙に配置されたようぼう。それがお前だ!」

 断言された春燐は一考し、深く首肯した。

「同感です。父上様のおっしゃる通り、どこからどう見ても私はこの世で最も醜悪な人間と存じます」

 当たり前のように言い切る。彼女の発する言葉の内容と熱量はまるで釣り合っておらず、その不均衡を投げつけられた父王は振り払うように叫ぶ。

「お前の目はどうなっておるのだ!」

「そういう父上様の目こそ、どうなっているのです?」

 不可解そうに問いを返しながら、春燐は絵筆を揺らした。ぽたりと紙の上に赤い絵具が落ちる。それを指先でこすっていると、父王が眉をひそめた。

「……嫁ぎたくない言い訳をしておるのか?」

「え? いえ、そういうわけではありません。ただ、相手が気の毒だと……」

「相手は気の毒ではない」

「気の毒ではないのですか?」

「気の毒ではない!」

 言葉の通じぬ獣を怒鳴りつけるような激しさで父王は断じた。春燐は感情の色を宿さない瞳でそんな父王をしばし見上げ、一つうなずいた。

「分かりました、でしたら父上様のおっしゃる通り嫁ぎます」

 自分の婚姻を語っているとは思えない淡白さで、しかし確かに受け入れた。父王は少しだけほっとしたように体の力を緩めた。額から汗が流れているのは陽気のせいだけではなかろう。

「これは国のためである。そして、お前のためでもあるのだ」

 彼はしんな顔でなおも言うが、それはまるで言い訳のようで……そして娘に向けるにはやはり声音が硬質すぎた。彼がこの娘をいかに持て余していたか……その一言で分かるほどだ。

 いや──そうではない、彼だけではない。この王宮の誰もがこの姫君をどのように扱えばいいのか分からず困り果てていたのは、皆が公然と──そしてひそやかに抱えていた紛れもない事実なのだった。

 年頃の娘らしいところが何もない。

 流行はやりのものに飛びつくことも、色恋に夢を見ることもない。

 一人で部屋にこもり黙々と絵を描き続けること以外何もしない。

 誰に対しても何の感情も見せることなく、ただ人形のようにそこにある。

 まともな人間の心がないのではないか──皆がそう思い、れ物に触るように接する。

 そういう娘が素直に縁談を受け入れたのだから、父王がほっとするのは当然だ。

「相手は必ずお前を気に入ることだろう。お前も両国の友好のため、夫となる者を愛し、支え、よい関係を築くのだぞ。私とて、娘のそなたが幸せになることを望んでいる」

 父王は居心地悪そうに言い添える。春燐は一度ゆっくりまばたきして、いぶかるように首を傾げた。

「意味が分からないのですが」

「何が分からないというのだ。夫となる相手となかむつまじければ……」

「どれほど愛したところで、意味などないでしょう? だって、人は死ぬものですよ」

 突拍子もない言葉に、父王は絶句した。

「どうせ死ぬのに……何故愛するのですか?」

 春燐はもう一度聞いた。絵具で血のように赤く染まった指先が手元の絵を無造作になぞる。父王は何も答えられない。その瞳だけが、春燐の描く絵に向けられた。

 そこには……無残に切り刻まれた女の死体が描かれていた。


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